聖書:箴言3章5~6節・創世記27章30~38節

説教:佐藤 誠司 牧師

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。」(箴言3章5~6節)

 

今日は箴言の御言葉を読みました。もう一度、5節と6節の言葉を読んでみたいと思います。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。」

読んでお分かりのように、これは律法の言葉ではありません。ではこれは何かと言いますと、私たちが本当に幸せになるための手引きの言葉です。人間、誰しも幸せになりたいと願っています。しかし、なかなか幸せになれない。と言うより、そもそも何が幸せなのかが分からないのです。そんな私たちに、今日の箴言の御言葉は本当の幸せとは何か、幸せになる道は何かということを教えています。

この箴言の御言葉を理解するために、今日は敢えてもう一つの旧約の御言葉を選びました。創世記27章のイサクの物語です。アブラハムの子イサクが年をとって、もう目が見え辛くなった。もう自分の命も長くはないだろうと、長男のエサウを祝福しようとした。ところが、次男のヤコブがお母さんのリベカと相計って、お父さんの目が見えていないのに乗じて、お兄さんになりすまして、祝福をだまし取った。そういうお話です。

その出来事のすぐ後で、エサウが帰って来て「私を祝福してください」と泣いて懇願するのですが、イサクは長男エサウを祝福しなかった。どうしてなんだろうと、誰もが不思議に思う物語だと思います。もちろん、当時の人々が祝福とか呪いというのは魔術的な力を持っていて、一度祝福したり呪ったりしたものは、もう変えられない。そういう考えを持っていたことは容易に想像出来るのですが、イサクの場合は騙されて、間違って祝福したのであり、神様にお願いをして、やり直させて頂くことは出来たのではないかと思います。ヤコブのやったことは、今風に言えば財産横領の詐欺です。そういう悪事を、そのままにして、どうしてイサクは通してしまったのか。どうも納得がいかないと思っておられる方は少なくないと思います。

しかし、私は、このイサクの判断は非常に示唆に富むと言いますか、今日の箴言の御言葉を理解する上で大切なヒントを与えてくれるように思います。箴言の3章6節に、こんな御言葉がありました。

「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。」

この御言葉の前半部分、「常に主を覚えてあなたの道を歩け」というのは、言い換えますと「あなたの道に主はおられる」ということです。この「道」というのは道路のことではありません。聖書に「道」という言葉が出て来たら、それはほぼ間違いなく「人生」のことです。つまり、「常に主を覚えてあなたの道を歩け」というのは、とりもなおさず、「あなたの人生のすべてに主はおられる」ということだったのです。

イサクが祝福をやり直さなかった。その背景には、この御言葉があったのではないかと思います。イサクは騙されたと知った時、これが妻リベカと次男ヤコブのたくらみと知って、大変に悲しみましたけれど、しかし、その時に彼は、この出来事の中に神様の御計画を見た。それで、イサクは敢えて祝福をやり直さなかったのです。

「あなたの人生のすべてに、主はおられる」と箴言は語っています。「あなたの人生のすべてに」というのは非常に重い言葉です。私たちも、いろんな出来事の中に神様の御計画を見るということがあります。しかし、どうでしょう。大きな災害や事故が起こって、多くの人が亡くなったり、家族を失ったりしている。あるいは、我慢のならない不正がまかり通っている。そういう時に、私たちは「すべてのことに主がおられる」と実感することが出来るでしょうか。これが、じつは、聖書が私たちに差し出している問いかけです。

この問いかけを受け止めるにつけ、思うことがあります。私たちは、結構勝手に「これは神様の御心だ」と言って喜んだり、逆に「これは神様の御業ではない」と言って憤慨したりと、自分の好みに合わせて判定を下している。そういうのが案外、私たちの感覚なのではないかと思います。そういう私たちの感覚に対して、聖書は「あなたの人生のすべてに、主はおられる」と語っています。これは聖書が本質的に持っている問いかけです。この問いかけを、私たちはどう受け止めるでしょうか。

皆さんは、創世記の最後にあるヨセフ物語をご存じでしょう。ヨセフはお兄さんたちに憎まれ、裏切られて、奴隷に売られます。こんなひどい話は無いですね。売られたヨセフは、どんな思いがしたことでしょう。ところが、この物語は意外な展開を見せていきます。売られた先のエジプトで、ヨセフは国の指導者になります。もうどんな復讐でも出来る立場に立ったわけですが、不思議な導きでお兄さんたちと再会したヨセフは、何と言ったでしょう。彼はこう言ったのです。

「わたしをここへ遣わしたのは、あなたがたではなく、神です。」

ヨセフはお兄さんたちの悪だくみの中に主のご計画を見たのです。どうしてヨセフは、そんな考え方をすることが出来たのでしょうか。私たち人間は、物事を冷静に考える時、自分の可能性から考えを進める習性があります。出来る出来ないが思考の土台になっている。そういう人間は聖書にも出て来ます。イエス様の前に現れた金持ちの青年が、そうです。出来る出来ないの可能性が、彼の判断の土台です。

しかし、主イエスというお方は、この可能性の壁を突き破ってしまわれる。ラザロが瀕死の病であることを知らされた主イエスは、敢えてすぐには行かず、ラザロが亡くなってから到着されました。愛する弟を失ったマルタが「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」と呟きました。これは私たちにも、よく分かる。私たちは、いつも、そういう呟きを言います。「あの時、ああだったら、こうはならなかったのに」とか「あの時、あなたがあんことやらなかったら、こんなことにはならなかったのに」とか、しょっちゅう言っています。しかし、そんな繰り言が、いったい何になるだろうか。マルタも、それはよく分かっていたと思います。分かっていても、出て来るのです。その、呟いているマルタに、イエス様は、たった一言、こうおっしゃいました。

「あなたの兄弟は復活する。」

これは、マルタだけではなく、私たち人間の可能性の壁を突き破る言葉だと思います。イエス様はそのことを見据えておられたので、敢えて瀕死のラザロのもとにすぐには行かれなかった。そのことを姉のマルタは少々恨みがましく「すぐに来てくださっていたら」と言いました。しかし、主イエスは言われました。

「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」

私たちは、いつも自分の可能性という限界に閉じこもって、そこからしか、ものを見ることが出来ない。そして、いつも「ダメだ、ダメだ」と呟いている。イエス様は、そんな私たちの目を開いて、「あなたの人生のすべてに、私はいるのだ」と言っておられる。

イエス様から「あなたの兄弟は復活する」と言われたマルタは、「はい、信じます」とは言ったものの、本当はなかなか信じることが出来ませんでした。ですから、ラザロの墓に前に行って、イエス様が「石を除けなさい」と言われた時、彼女は「もう四日も経っていますから、腐って、においます」と言いました。つまり、マルタは「もうダメなんです」と言ったのです。すると、主イエスはこうおっしゃった。

「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」

あなたは「信じる」と言ったのだから、そのとおりにしなさい。これはマルタだけではありません。私たちも、同じだと思います。私たちは、非常にしばしば、口で「信じます」と信仰を告白しながら、それとは裏腹な思いを心の中に潜ませています。心から「信じます」と言うのです。しかし、マルタのように、いざ事にぶち当たると「もうダメだ」となってしまう。どうしてなのでしょう。この問いに、箴言は、こう語っています。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼るな。」

この「分別」というのは、今まで自分が積み重ねて来た経験や知識、洞察力や判断力といったものの総合体のことです。ですから分別というのは人間と人間の間では大変に立派なものです。今の教育は知識や経験、洞察力や判断力を高め磨くためにあると言っても過言ではないでしょう。しかし、聖書はそれを否定するとまではいかないまでも、相対化している。なぜでしょうか。聖書は知っているのです。私たちの人生には、主なる神様がおられることを知っている。だから、聖書は「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼るな」と言うことが出来たのです。

私たちが聖書を読んでいますと、そういうふうに新しい人生を歩み始めた人のお話が多いことに改めて気づかされます。例えばモーセ。この人は80歳になって、もう自分の人生、先が見えている。羊飼いで終わるだろうと思っていたところで、神様に出会いました。「あなたが立っている場所は聖なる場所だ」という声を聞いた。何でもないと思っていた、ただの羊飼いの人生の真っ只中に神様がおられた。その時から、モーセの本当の人生が始まったのです。

ヤコブだって、そうでした。自業自得で家におれなくなって、石を枕にして野宿した。失意のどん底で、彼は神様と出会いました。ヤコブは、その驚きを隠すことが出来ずに、こう言いました。

「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

この驚きが、彼の信仰の目覚めになりました。破れの多い自分の人生の只中に神様がおられる。この一点に気がついた時に、私たちの人生は変わります。破れが無くなるということではありません。悩みが無くなるわけでもありません。苦しみが無くなるわけでもない。悩みも、苦しみも、しっかりとあるのです。しかし、悩みの中に、苦しみの只中に、主がおられる。「あなたの人生のすべてに、主はおられる」と箴言は語っています。このことを心から信じて、新しい人生を歩む者でありたいと思います。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月16日(日)のみことば

「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌を歌いながら帰って来る。」(詩編126編5~6節)

「彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分が癒されたのを知って、大声で賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」(ルカ福音書17章14~16節)

今日の新約の御言葉は重い皮膚病を患う10人の癒しの物語です。彼らは皆、自分が癒されたことを道の途中で知りました。嬉しかったでしょう。喜んだことでしょう。そこまでは全く同じだった。しかし、その先が違った。一人だけが、癒してくださったお方のもとに帰って行ったのです。大声で神を賛美しながら帰って来た。ただ帰って来ただけではありません。ルカはそこのところを極めて正確に描いています。彼は、帰って来るなり、主の足もとにひれ伏し、感謝しました。主イエスは、そんな彼をご覧になって、こう言われます。

「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

ここには主イエスの喜びと悲しみがハッキリと語られていると私は思う。喜びと悲しみ、そのどちらをも私たちは見逃してはならないと思います。主イエスはご自分の御業を受けた人が帰って来たことを心から喜んでくださいます。しかし、主イエスの悲しみに、私たちは思いを馳せることがあるでしょうか? 帰って来なかった人々がいる。そのことを主イエスは悲しまれるのです。