聖書:イザヤ書40章26~31節・使徒言行録27章27~44節
説教:佐藤 誠司 牧師
「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章28~31節)
「夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。『今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本も無くなることはありません。』こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。」 使徒言行録27章33~36節)
2021年の5月から読み始めた使徒言行録も、いよいよ終盤に差し掛かってきました。使徒言行録の終盤は、パウロのローマへの旅を丁寧に描きます。船旅です。それはまるで、来るべき大航海時代を予見したような感じさえいたします。著者であるルカは、福音が船によって世界に広まっていく様を先取りしているのです。
使徒言行録のこれまでの歩みを振り返ってみますと、面白いことが分かります。それは、使徒言行録が描く福音の足取りです。福音はまずエルサレムで産声をあげ、そこから全ユダヤ、そしてアジア州と言われた小アジア、さらにエーゲ海を渡ってマケドニア、ギリシア、そしてさらにイタリア半島に渡ってローマに至っている。当時のローマというのは、世界の中心であり、ローマに至るということは、とりもなおさず、ここから全世界に出て行くということです。
もちろん、ルカも2千年前の人ですから、アメリカ大陸も極東も知らなかったでしょう。しかし、知らないのだけれど、この陸と海の向こうにも、福音を知らない人々、福音の到来を待っている人々がいるということを、ルカは確信していたに違いありません。使徒言行録にしばしば登場する「地の果て」という言葉は、そういう意味であろうと思います。ですから、使徒言行録はエルサレムに始まって、ローマに至っていますが、それはローマで終わっているという意味ではない。さらに大海を渡り、大陸を越えて、地の果てまでという大変に長いスパンがあるわけです。
さて、今、パウロはローマ皇帝による裁判を受けるためにローマに向かっています。もちろん、これは、かつてのような伝道旅行ではありません。未決囚として鎖につながれて、ローマに向かっているのです。パウロの身柄を預かるのは、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスです。彼はパウロに一定の理解を示し、しばしばパウロに発言を許し、さらに弟子であるルカとアリスタルコの乗船を認めました。つまり、外国人ばかりのこの船の中には、三人のキリスト者がいた、ということです。三人は、可能な限り共にいて、祈りを合わせたに違いありません。主イエスの約束の言葉が思い起こされます。
「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
主が共にいて、道を開いてくださる。その確信がパウロたちにはあったと思います。しかし、船は難航を極めます。風に阻まれてクニドス港に入れなかった船は、停泊地を求めて、クレタ島を半周します。すると船はラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる所に着いたと書いてあります。ここは、港という名前を持ってはいますが、じつは港ではなく、土地の人たちが「良い港」と呼びならわしていた天然の停泊地です。
ところが、ここで船が停泊しているほんの数日のうちに、季節の変わり目がきてしまいます。断食期の終わりと書いてありますので、おそらく、これは10月の終わりごろだと思われます。風向きが変わるのです。冬を越してでないと、西向きの航海は困難になります。さあ、船は二つに一つの選択を迫られます。ここで冬を越すか、それとも、クレタ島の西に面しているフェニックス港まで頑張って足を伸ばし、そこで冬を越すか。
パウロはここに留まることを提案します。ところが、一囚人の言うことなど、聞く人はいません。百人隊長はパウロよりも船長や船主の意見を重んじて、フェニックスまで行くことになります。つまり、百人隊長は専門家の意見を重んじたわけです。ところが、専門家の意見というのが、往々にして曲者でありまして、専門家には素人にはない利害関係が、しがらみのように付きまとう。その利害関係に判断が左右されることが往々にしてある。おそらく、船長にしても船主にしても、アレクサンドリアからローマに向けて運んでいる積荷、それはエジプトに富をもたらす穀物であったようですが、そちらの安全が気になったのでしょう。ゴーサインを出してしまいます。
こうして船は専門家の判断に従って「良い港」を出ます。フェニックスまでは、ほんのわずかの距離です。行けないわけはない。人々はたかをくくっています。ところが、それから間もなく「エウラキロン」という暴風が島から吹き降ろしてきたので、船はそれに巻き込まれて、風に逆らっては進めなかった。そこで仕方なく、流されるに任せたと書いてあります。船長や船主は航海の専門家ですから、ここら辺りにはこの時節、エウラキロンが吹くことも知っていたと思います。しかし、それは知っていたとは言うものの、一般論として知っていたということです。まさか今日、自分たちが遭遇するとは思わなかった。これが「想定外」というものの実態です。
こうなってしまうと、専門家というのは弱いものです。「流されるに任せた」と書いてあるように、手も足も出なかったのです。やがて、カウダという、ごく小さな島の陰に来たので、やっとのことで小船を舟の上に引き上げることが出来た。そして船体に綱を巻きつけたと書いてあります。おそらくこれは、激しい波の力によって船が解体してしまわないように、船体をロープで外から締め上げたということでしょう。
次に彼らは、シルティスの浅瀬に乗り上げることを恐れて、海錨を下ろしました。これは、錨を海底に着くまで下ろしてしまわずに、一定の深さに吊り下げておいて、海底が浅くなると、それが錨をとおして分かるようにしたのです。しかし、それでもなお、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積荷を海に投げ捨て始めます。さらに三日目には、人々は船具まで捨て始めます。だんだんと危機的状況が深まっているのが、手に取るように伝わってきます。
人々は絶望のあまり、長い間、食事をとっていませんでした。食料はあったのです。しかし、食べる意欲を失っていた。これは食欲を失っていたということではありません。飢餓状態にありながら、希望を喪失したために、生きるために食べなければならないという意思すら無くなって、食べることをしない。そういう危機的な状態だったのです。その中で、パウロが一人、立ちあがって言葉を投げかけます。
「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたに違いありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち誰一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜、わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝に前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ず、どこかの島に打ち上げられるはずです。」
私は、この物語は、聖書が語る「希望」というものの本質を、とても丁寧に描いていると思うのです。この船に乗っているのは、パウロとルカ、そしてアリスタルコ以外は、外国人であったと思われます。ということは、聖書の神様もイエス様も、彼らは知らないのです。彼らは順風満帆のときは強いのです。先週読んだ13節に、こう書いてありました。
「人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。」
望みどおりにと翻訳されていますが、じつはここ、「望み」ではなく「願い」なんです。彼らは願いどおり事が運ぶと考えたのです。ところが、彼らの願いは、エウラキロンという暴風によって、あえなく頓挫してしまいます。願いが砕かれたとき、彼らは希望すら失ってしまいます。
ところが、パウロはどうでしょう。すべてのものを失っても、希望だけは失わない。パウロは、航海の専門家でもなければ、専門の知識があるわけでもない。しかも、パウロは囚人としてこの船にいるのですから、その発言に耳を傾ける人は、はじめは一人もいなかった。ところが、船の危機的状況が深まるにつれ、どうでしょうか? 専門家でもなく、知識も無いパウロ、一囚人に過ぎないパウロの言葉が、人々の心の支えになっていくのです。
夜が明ける頃、パウロは人々に食事をするように勧めます。
「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本も無くなることはありません。」
こう言って、パウロは皆の前でパンを取って感謝の祈りをささげて、人々に先んじて食べ始めます。すると、人々も続いてパンを手に取り、食べて元気を 取り戻します。人々はパウロの言葉と行動によって元気を取り戻したのです。どうしてなのでしょうか?
ここでパウロは神様のこと、イエス様のことを特に伝道したわけではありません。またパンを食べたときも、特にこれを聖餐式になぞらえて行ったわけでもありません。普通の食事として、感謝の祈りをささげただけなのです。なのに、どうしてこれが、人々に元気を取り戻させたのでしょうか?
こんなお話があります。私たちの教会はメソジスト教会の伝統を引き継いでおりますが、そのメソジスト教会のもとを起こしたジョン・ウェスレーという人がおります。この人は大変真面目な伝道者でありましたが、どうもその成すところ、語る言葉に確信が無い。そのように悩んで、船に乗って次の働きの場所に向かっておりましたら、その船が嵐に遭いまして、船が沈みそうになった。人々は驚天動地の大騒ぎ。恐ろしかったのです。
ところが、その船の中にモラヴィア兄弟団というキリスト教の一派の人たちがいました。その人たちは、ほかの人たちが狼狽して騒いでいる中で、大変落ち着いて、逆にそういう騒いでいる人たちの世話をしたり、慰めたりしている。全く他の人々と違うわけです。ウェスレーも大変怖かったものですから、どうしてあの人々はあんなに心安んじておられるのだろうと、大変不思議に思ったのです。
そこで、その指導者の人のところに行きまして、「あなたは、どうして、こんな恐ろしい嵐の時に、そんなに心安んじていられるのですか」と聞いたのです。そうしますと、その人は「私はイエス・キリストが救い主だと信じているからです。あなたは、キリストが自分の救い主だと信じていますか」と、逆に聞き返されたんですね。それで、ウェスレーは牧師ですから「もちろんです。イエス様は世界の救い主です」と答えました。すると、その人が言うのです。
「いや、私がお尋ねたしたのは、そういうことではない。あなたは、キリストが、本当にあなたの救い主だと信じていますか。」
そう言われて、ウェスレーは、はっとして立ち止まったんです。というのは、「イエス様が私の救い主だ」ということは信じていたのですが、それは頭で信じていたわけですね。心の底まで本当に信じているか? この私を救うためにキリストが来られた。十字架についてくださった。復活してくださった。そういう「私を救うお方」として信じているかと問われて、ぐっと詰まってしまった。そういう話が残っております。
もちろん、ウェスレーは、後にこの一線を越えて、伝道の最前線に出て行くのですが、私はパウロが失わなかった希望というのは、つまるところ、ここから来ていると思うのです。日本語でも「心の底から」という言い方をしますが、心を表す言葉が聖書の中にも幾つかありまして、その中に「カルデヤー」という言葉がある。これは「心の底」とでも言いますか、感情を含んだものなのです。私たちが、一つのことを、本当に心に受け取ったとき、必ず私たちの感情が動きます。感情が動くと書いて「感動」ですね。感動するわけです。考えてみますと、感情ほど私たちの自由にならないものはないですね。人を憎たらしいと思う。その思いを隠すことは誰にも出来るでしょう。顔色に出さないことも出来る。しかし、そのときに、心の底にある怒りや憎しみ、それはどうにもなりません。そういう感情を支配しているもの。それを古代の人たちはカルデヤーと呼んだ。で、何が言いたいかと言いますと、そこまで入って来て「イエス様が私の救い主だ」ということを受け取ったときに、人は感情が変わるのです。
パウロは、かつて、迫害のためにダマスコに向かっているとき。殺害の息を弾ませていたと書かれていました。感情が憎しみに支配されていたのです。ところが、その心の底、カルデヤーにキリストが入って来てくださった。憎しみや怒り、そういう、いつしか人間が身につけてしまったものを全部、追い出して、十字架につけてくださった。そして、心の底から主を愛し、主を讃美する者としてくださったとき、パウロという人は、それこそ、心の底から変えられた。だから彼は「私のようになってください」とまで言えたのです。
今日はイザヤ書40章の言葉を読みました。これは、イスラエルの人々がバビロンに連れて行かれて、もう生きる望みも絶え果ててしまった。絶望です。そのときに預言者イザヤが語った言葉です。
「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」
夜空を見上げるとバビロンにも、満天の星が輝いている。そのときに、この預言者は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という信仰が与えられる。頭で信じるのではなく、心の底から信じる。そのときに、彼は主に望みをおくことが出来た。希望というのは、こちら側のどこかに可能性があるから探すのではない。主に望みをおくのです。
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
私たちも心の底から主を信じ、主に望みをおいて歩みたいと思います。
さし菊
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