聖書:イザヤ書40章25~31節・ヨハネによる福音書11章40節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」 (イザヤ書40章27~31節)

 

今日はイザヤ書40章の御言葉を読みました。ここは、イザヤ書の中に収められていますが、じつはイザヤが書いたものではなく、イザヤよりも約200年ほど後に出た預言者が記したものです。彼の名は分かっていません。そこで便宜上、彼の名を「第二イザヤ」と呼ぶことになっています。

第二イザヤは、国が滅ぼされてバビロンに捕虜として連行されたユダヤの人々に預言を語りました。27節に、こう書いてあります。

「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」

どういうことかと言いますと、私のことを神様は見ておられない、私のことなんか、神様は気にも留めておられない。いくら祈っても、神様は私の祈りを聞いてくださらないと。人々はそう言って嘆いているのです。

さあ、そうしますと、これは大昔の他人事の話ではなく、今も変わることのない信仰者の嘆き、苦しみであることが分かってきます。困難に直面する中で、一生懸命に祈っても、道が開けない。私のことなんか、どうでもいいと神様、思っておられるのか。祈りは聞かれないのかと。私たちも、時にそう思うことがあるのではないでしょうか。これは、じつは信仰の無い人には起こらない問題です。逆に言えば、これは信仰者なら必ずと言って良いほど、誰にも起こる問題です。こういう時、私たちはどういうふうにして信仰生活を続けていけば良いでしょうか。これは、じつは大変に切実な問題です。

祈りは聞かれるのかという問題は、私たちが信仰生活を続けていく上で避けて通れない問題です。聖書を見ますと「祈りは必ず聞かれる」と書いてあります。イエス様は「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と約束されました。ですから、私たちが本当に心から願って祈るならば、神様はその祈りを聞いてくださるはずなのです。

ところが、実際の生活では、どうでしょうか。一生懸命にお祈りしているのに、なかなか聞いてもらえない。道が開けない。そういうことが、ずいぶんと多いのではないでしょうか。そうしますと、聖書が約束している「祈りは必ず聞かれる」ということと、実際の私たちの生活とが食い違ってくる。聖書を読む時は「祈りは必ず聞かれる。ああ、そうか」と納得し、聖書を閉じて実際の生活に入ると「祈りは聞かれる時もあるが、聞かれんこともある」と。そういう都合の良い両刀遣いをしていきますと、信仰生活に力がなくなってしまう。信仰と生活が分離し、食い違ってくるからです。

この信仰と生活の問題というのは、理屈の問題ではなく、私は実際にこう生きて行くのだというものを掴まないといけない。独り子を惜しまないで与えてくださった神様が、なんで私たちの祈りを聞いてくださらないのか。さあ、私たちは、この問題に、どのような答えを見出すでしょうか。

聖書が語っている大きな主題の一つに「神の忍耐」ということがあります。この忍耐の背後には愛があります。そして、この愛に裏打ちされた忍耐は「待つ」という行動を生み出していきます。イエス様が語ってくださった「放蕩息子」の譬え話がありますが、あのお話に登場するお父さんが、まさにそうですね。父なる神様は愛と忍耐をもって待っておられる。何を待っておられるかと言いますと、私たちが信じるのを待っておられるのです。

このように言いますと、それはおかしいと反論なさる方がおられると思います。神様は私たちが信じるのを待っておられると言うけれど、神様を信じているからお祈りするのであって、信じていなければ、そもそもお祈りなんてしないと。そういう風に思われるかもしれません。

しかし、その場合、祈っている時の心持は、どうでしょうか。私たちは祈る時、本当に神様は祈りを聞いてくださると信じて祈っているでしょうか。言葉で「神様、信じます。どうぞ助けてください」とお祈りしながら、横目で「神様、やってくれるかなあ」と腕組みして見ている。そんな半信半疑の祈りをしていないだろうか。半信半疑の祈りを、神様は喜ばれない。神様は私たちが信じるのを待っておられるのです。なぜでしょうか。

神様が私たちの祈りに応えてくださるというのは、非常に重い内容を持っているからです。例えば、こういう状況を考えてみてください。私たちが病気になった。私たちは「神様、どうかこの病を癒してください」と祈ります。すると、病気が治った。そうしますと、私たちはつい、病気が治ったということだけを有難いこと、感謝なことだと受け止めますが、病気が治ったということの背後で、もっと大きなこと、もっと大切なことが起こっているのです。それは、病のさなかで、神様を信じて祈る。そういう信仰が祈りの中で与えられる。そして、病が治っても、治らなくても、祈りが信仰を確かなものにしていく。そのことが、非常に大事なことなのです。

神様は私たちに永遠の命を与えようとしておられます。ところが、永遠の命というのは、信じて受けるべき恵みなのです。決して棚から牡丹餅のようにして受けるものではない。ですから、神様は私たちが信じないということ、信じることが出来ないということを、いちばん悲しんでおられる。主イエスが甦られた時、弟子のトマスは信じませんでした。「私は証拠を見るまでは信じない。あの方の手に釘跡を見、わき腹に手を入れるまでは信じない」と言いました。すると八日の後、復活の主イエスが現れて、トマスに向かって「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われました。そして、こうおっしゃった。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

この言葉には、どうにかしてトマスを信じる者にしたいというイエス様の御心があふれています。その眼差しが、私たちにも注がれています。信じるということが、じつは、神様から与えられる最大の恵みです。

ところが、人間というのは、やっぱり不信仰なもので、外側から証拠が示されると信じるのですが、しるしが無いと信じない。「見ないで信じる者は幸いである」と主イエスは言われたのですが、なかなか見ないで信じるということが出来ない。まことにやっかいな存在なのです。

じゃあ、どうしたら良いか。それは神様の御言葉を聞く。それしかないのです。日本人は古来、厳しい修養によって信仰に達するのだと考えました。だから日本では古くから、滝に打たれたり、山に籠ったり、修養とか修行の道が重んじられました。日本人にとって、信仰とは、努力してそこに到達する境地なのです。

しかし、聖書はそれを否定する。信仰は人が到達することが出来る境地ではなく、恵みなのだと聖書は教える。神様の言葉が、私たちに信仰を与えてくださる。ですから、神様は、信じないでつぶやいている人々に預言者を送って、神の言葉を語らせたのです。それが今日読んだイザヤ書40章の御言葉です。

今日は25節から読みましたが、その少し前の12節に、こんな御言葉があります。

「手のひらにすくって海を量り、手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし、山々を秤にかけ、丘を天秤にかける者があろうか。」

これは天地創造のことが言われているのですが、非常に格調の高い、張りつめた文章なので、こういう所を読む時、私たちは文学的な感動で通り過ぎてしまうことが多いと思います。しかし、本当はそうであってはならない。この格調高い言葉の中で神様が私たちに訴えておられるメッセージを聞き取ることが大事です。そのメッセージが26節に語られています。

「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」

私たちは御言葉を読む時、聖書を開いて、聖書という書物を読むという仕方で御言葉に触れて行きます。もちろん、それは導入としては正しいのですが、聖書という書物は他の書物と違って、そこだけでは終わらない。書物の世界に閉じこもるのではなく、むしろ聖書に導かれて、もう一遍、神様がお造りになったこの世界を見直そうと、この26節の御言葉は呼び掛けています。

「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」

創世記の第1章にあります創造物語は、イスラエルの人々が、バビロンに滅ぼされて、捕虜となって連行されて行った。いわば絶望のどん底に落ちた時に、自分たちが生きていく本当の拠り所を求めた。その時に「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という信仰が生まれた。創造物語は信仰の告白だった。しかもそれは、どん底で与えられた信仰告白だったのです。

私たちも、非常に困難な問題に直面して、もうダメだ、絶望だ。もう道が無いと、そういうどん底に置かれた時に、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という告白が出来るか。これは創造物語が私たちに投げかけている問いかけです。

回りの人たちは皆、もうダメだと言う。自分でもダメだと思うその時に、造り主なる神を信じますと、そういう告白が出来るなら、そこに必ず道は開ける。イスラエルの人々がエジプトを脱出して、断崖絶壁に追い詰められた。前は海、後ろはエジプト軍という絶体絶命の時、誰が海に道が開けると思ったでしょうか。誰も思わなかったのです。誰も予想だにしなかった所に、神様は道を開いた。私たちが信じる神様は、そういうお方です。

パウロは「せん方尽くれど、望みを失わず」と言いました。せん方尽きた、そう思う時に、私たちの祈りと信仰が始まって行く。「天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という信仰が、ここから始まって行く。手の内に可能性がいくつもある時に救いを信じても、そんなの、たいしたことではないのです。可能性は無くなった。そこから始まるものがあるのです。パウロはアブラハムについて、「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」と語っています。望みが亡くなった時に望み、信じたということです。これが「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という信仰の中身です。この信仰から導き出されるのが、28節以下の言葉です。

「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れると言われています。若者とか勇士というのは、オリンピックに出て来そうな筋肉隆々の体操選手みたいな人を想像してください。そういう人というのは、見るからに頼もしい。じつに強そうなのです。ところが、この人たちは、ある一線を越えると、もろくも倒れてしまう。限度を超えた困難に直面すると、破れてしまう。自分を頼みとしているからです。

しかし、主に望みをおく人は、新たな力を得ると言われています。この「新たな力」というのは自分の力ではない。与えられる力のことです。主が必ず私を支え、力を与え、生かしてくださる。そこに、予想もしない道が開ける。その道を、信じて歩む者でありたいと思います。

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

7月28日(日)のみことば

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(旧約聖書:詩編23編1節)

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(第一コリント書10章13節)

今日の新約の御言葉は大変に有名な言葉で、これを愛誦聖句としている人は多いと思います。ここに「神は真実な方です」という言葉があります。神の真実。それはまず何をおいても「相手を見捨てない」ということです。それから派生して、この言葉はさらに「相手を軽んじない」という意味にもなりましたし、さらに「相手を忘れない」という意味をも持つようになった。そのような大事な意味を持つ言葉です。

相手を見捨てない。相手を軽んじない。相手を忘れない。共通するのは相手の存在です。常に相手との関係の中に生きて働かれる。相手を見捨てず、忘れず、軽んじない。これが聖書が証しする神様のお姿です。相手って誰でしょうか? 神様が決して見捨てることがないのは、誰か? 神様が決して忘れないのは、誰か? 神様が決して軽んじないのは、いったい誰のことか? 私たちなのです。神様はこのような真実の関係を私たちと結んでくださっています。