聖書:列王記上19章1~18節・テサロニケの信徒への手紙一5章24節
説教:佐藤 誠司 牧師
「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」(列王記上19章18節)
今日は旧約の列王記が伝える預言者エリヤの物語を読みました。エリヤの名前は大変に有名で、新約聖書にも彼の名前がたびたび出て来ます。いちばん有名なのは、おそらく、福音書に記された「山上の変貌」の物語でしょうか。
イエス様が主だった三人の弟子を伴って山に登られた。すると、イエス様の姿が変わり、光り輝く神々しい姿になった。弟子たちが見ると、主イエスの両脇にエリヤとモーセが現れて、これから主イエスが成し遂げようとしている御業について話し合っていたという、不思議な物語です。あの物語は、エリヤは預言者を代表しており、モーセが律法を代表している。エリヤというのは、それほどの偉大な預言者で、大預言者といえば、ユダヤでは誰もがエリヤを思い浮かべる。それほど大きな存在です。
ところが、どうでしょう。その大預言者エリヤが、今日の箇所では臆面もなく泣き言を言っております。神様に向かって繰り言を述べて、もう自分なんか死んだほうがマシだとまで言っております。エリヤはいったい何に絶望したのでしょうか。
当時のイスラエルの王はアハブと言いまして、この人は隣国から妻を迎えました。つまりアハブ王は異邦人を王妃に迎えたのです。この妃の名がイゼベルです。イゼベルは大変に性格の強い人で、自分が信じているバアルという偶像の神をイスラエルに押し付けようと、あらゆる手段を使いました。それまで、イスラエルの人々は、まがりなりにも主なる神様を信じていたわけですから、イゼベルがバアルの偶像礼拝を人々に押し付けるためには、強権を発動しなければならない。イゼベルは主なる神を信じる者を片っ端から捕らえて殺しました。人々はそれを恐れて、バアルの偶像礼拝に鞍替えしていったのです。
そんな中で、エリヤはただ一人、立ち上がって、アハブ王の前に進み出て、「あなたは間違っている。まことの神様を捨てるこの国に、主なる神様は罰を下される。神様が再び言葉をかけてくださるまで、この国に雨は降らない」と、そう宣言した。王様の前でそんなことを堂々と言ったものですから、たちまちエリヤは追われる身になりました。
その時に、神様はエリヤをケリテ川という谷川の奥に隠してくださいました。人っ子一人来ないような所です。食べ物なんて無いわけです。ところが、不思議なことに、神様はカラスにパンを運ばせて、エリヤを養ってくださいました。ところが、しばらく経つうちに、ケリテ川の谷川の水が涸れてしまいます。水が干上がってしまいますから、もう生きていくことが出来なくなる。
そうしますと、神様はエリヤに「サレプタという町へ行きなさい」とお命じになりました。そこは外国の町ですが、そこに一人息子を持つ一人のやもめがいるから、そこへ行って養ってもらいなさいと。じつは、このサレプタの付近一帯も飢饉があって、皆が飢え死にしそうな、ぎりぎりの生活を送っている。そんな所に見も知らない人間が突然現れて「養ってください」と言っても、相手にされるわけが無いと、普通は考えるのですが、エリヤは言われたとおり、サレプタに行きますと、神様が言われたとおり、貧しいやもめがエリヤを養ってくれて、そこで三年が経過します。
さて、三年の月日が満ちた時、神様は「さあ、行って、アハブの前に姿を現わせ。わたしはこの地の面に雨を降らせる」と言われる。いよいよ時が来たのです。エリヤはアハブ王の前に出て、バアルの預言者たちとの対決を申し出ます。カルメル山という山の上に二つの祭壇を築き、その上で犠牲をささげて祈り、その犠牲動物の上に天から炎が下って、犠牲動物を焼き尽くしたほうが、まことの神であると、そう約束を交わして、アハブ王の隣席のもと、対決が始まります。
対決とは言え、主なる神の預言者はエリヤ一人、対するバアルの預言者は450人もいます。ところが、バアルの預言者たちが、いくら祈っても叫んでも、炎は降らなかった。すると、彼らは自分たちの習わしに従って剣や槍で体を傷つけ始め、血を流すまでになった。熱狂的なのです。
それに対してエリヤが祈ると、天から炎が下って、犠牲動物を焼き尽くした。勝負は明らかです。人々はバアルの預言者たちを捕らえ、キションという川のほとりで皆殺しにした。そしてエリヤが祈ると、大雨が降り注いだ。そういうインディー・ジョーンズの映画のようなお話が18章に出て来ます。
ところが、ここからが大変です。アハブ王が王妃イゼベルに事の次第を語りますと、イゼベルは激怒します。なにせ彼女はバアルの最大の後ろ盾であり、スポンサーでもあったわけですから、バアルの預言者が皆殺しにされて、黙っているわけがない。イゼベルはエリヤを必ず殺すと誓いを立てます。
このイゼベルの決意のほどを聞いたエリヤは、命からがら逃げて行きます。ベエル・シェバまで逃げて来たと書いてあります。大変な道のりだったのでしょう。エリヤは木の下にへたり込んで、こう言いました。
「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
まあこれは、なかなか格好よく訳してありますが、じつは泣き言です。もう、こんなの嫌だと泣き言を言っている。なぜ、エリヤはこれほどまでに絶望したのでしょうか。物語を振り返りますと、エリヤの絶望の第一要因は王妃イゼベルがエリヤを殺すと誓った。そのことが原因であることは、よく分かります。だからこそエリヤは、命からがら逃げて来たわけです。
しかし、そういうことなら、前にもあったのです。エリヤがアハブ王の前で「神様の罰が下って、雨が降らないだろう」と言って、アハブ王に警告を発した。これは、ある意味、王様を非難したわけですから、エリヤは追われる身になった。捕まったら殺される。だからこそ、エリヤはケリテ川まで逃げて行ったのです。ところが、ケリテ川に逃げて行った時は、「もう死んだほうがマシだ」とは言わなかった。それが、どうしてイゼベルに追われた時は、死んだほうがマシだと泣き言を言ったのでしょうか。これが、この物語が私たちに投げかけている最大の疑問です。
なかなか微妙で、解きにくい疑問ですが、こういうことは考えられると思います。エリヤがアハブ王の前で「神様の罰が下る」と言ったのは、エリヤが一方的にアハブ王を非難したわけですが、今回のカルメル山の対決はそうではない。いわばアハブ王公認の対決です。逃げも隠れもしなくて良い。堂々たる対決なのです。当然、エリヤの中で、ある期待が高まって行ったことは、想像に難くありません。この対決に勝てば、王様も人々も回心して、主なる神様に立ち帰ってくれるだろう。いよいよイスラエルが悔い改める時が来たと。そういう期待をエリヤは持ったと思います。
ところが、実際はどうだったか。誰も動かなかったのです。アハブ王も悔い改めないし、人々も全く変わらなかった。イゼベルを恐れて、バアルから離れることはなかった。エリヤは、期待が大きかった分、失望も大きかった。自分のやって来たことは何だったのか。神様のために、あんなに頑張ったのに、結局、何も起こらなかった。変わらなかったと、そういう挫折感がエリヤの中にあったと思います。人間が「もう死んだほうがマシだ」なんて泣き言を言うのは、大抵、自分の努力が水泡に帰した時、努力が報われなかった時でしょう。ということは、裏を返せば、エリヤの中には「自分は神様のために精一杯頑張った」という思いがあったということです。ここは、この物語を読む上で見逃せない一点だと思います。
私は、こういうところを読みますと、エリヤという人が大変に近しいと言いますか、私たちと同じ思いを持ち、悩み苦しみ、泣き言を言う、私たちと同じ人間として親近感を覚えます。
今、エリヤは深刻な挫折感の中、全く立ち上がれない状態です。とてもじゃないけれど、預言者らしくない、ふて寝をしているわけです。ところが、神様は、そんなエリヤにパンを与え、水を与えて養ってくださる。私は、このエリヤの姿を見ますと「リトリート」という言葉を思い起こします。この言葉は、元々は軍隊の用語で、「退却」という意味がありました。戦いに敗れた人が、もうダメだということで退却して逃げる。尻尾を巻いて逃げるのです。あまり良い意味ではなかったのです。ところが、どこに逃げて行くかで、その意味が変わります。神様のもとに逃げるのです。そうしますと、神様が養ってくださる。生き返らせてくださる。イエス様のお言葉が思い起こされます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
ただ横になって休むのではない。主の養いを受けて、そこから、もう一度立ち上がる。立ち直って出かけて行く。これがリトリートです。こうして、このリトリートという言葉は、元々は軍隊の用語だったのが教会用語となって「修養会」という意味を持つようになりました。
エリヤの場合も同じです。ただのふて寝ではなかったのです。神様の養いを受けて、彼は立ち上がる。そして歩き出した。向かう先は神の山と呼ばれたホレブです。ホレブは別名シナイ山とも呼ばれます。イスラエルの人々にとって信仰の原点となった場所です。このホレブでエリヤは神様にお会いします。いろんなことが起こりますが、そこは皆さん、読んでいただくとして、12節、13節に、こう書いてあります。地震の中にも、火の中にも、主はおられなかった。しかし、火のあとに、静かにささやく声が聞こえてきた。声はエリヤに、こう告げました。
「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
こういう声が聞こえてくることって、ありますね。あなたは何をしているのか。エリヤは答えます。「わたしは万軍の神、主に熱情を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
そうすると、神様は「行け、あなたの道を引き返しダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いでアラムの王とせよ」と言って、最後にこう言われます。
「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」
大事なことが言われています。一つは、今からあなたは新しい出発をしなさい、ということです。ここホレブに来た道をまた帰って行くのですが、しかし、それはただ単に引き返すのではない。新しい使命を託されて帰って行くのです。そこには神様の計画があります。この神様の計画をエリヤは知らないで、自分はカルメル山でこれだけのことをやったのだから、イスラエルは変わるに違いないと。そう思ったところに、エリヤの挫折の原因はありました。
エリヤは、それまでは、ずっと神様の言われるとおりにやって来た。自分の思いや計画ではなく、「こうしなさい」と言われたら、「はい、そうしまう」と答えながらやって来た。ところが、ここに来て、「これだけのことをやったのだから、今こそイスラエルは変わるに違いない」という自分の思い、自分の計画が表に出て来た。それが、ぐしゃっと潰れた時に「ああ、もうダメだ。死んだほうがマシだ」という泣き言が出て来た。泣き言というのは、自分の思いや計画が潰れたあとのカスみたいなものです。カスは、さっさと吐き捨てたほうが良いのです。
しかし、神様はエリヤの計画とは違う、別の計画を立てておられた。それを神様はエリヤに教えて、新しい使命として、彼をもう一度、遣わしてくださいました。これが一つのことです。
もう一つ、大事なことは、この最後の言葉です。イスラエルに、まことの神様を信じる者が七千人いるというのです。エリヤは「私一人しかおらん」と言って泣き言を言いました。泣き言を言う時というのは、大抵、自分のことしか見えていないのです。しかし、神様は「違う。七千人いる」と言われる。
ここに、私たち信仰者が陥りやすい落とし穴があると思います。自分の思いや計画でやって行きますと、それがダメになった時、「ああ、もうダメだ」と言う。しかし、私たちが「もうダメだ」と思う、その時が大事なのです。私たちは、自分の思いや計画が打ち砕かれないと、神様の計画に気が付かない。神様は私たちの挫折や失敗を通して、もっと大きな、別の計画の中に、私たちを招き入れようとしておられる。だから、私たちの祈りや信仰は、私たちが一旦ダメになったところから始まって行く。エリヤの物語は、そこを語っていると思います。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
5月26日(日)のみことば
「神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれませんでした。」(旧約聖書:詩編66編20節)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3章16節)
今日の新約の御言葉は、原文の言葉の並び方を見ますと「神はその独り子を与えるという仕方でこの世を愛してくださった」というふうにも読める言葉です。私たちは「愛する」というと、何かいいものをどんどん与える、その人が悲しまないように、辛い思いをしないようにすることが愛することだと考え勝ちです。しかし、それは世間の言葉で言えば、無病息災、家内安全ということです。しかし、神様が愛してくださるというのは、そういう単純なことではなくて、ご自分の独り子を与えるという、そういう仕方で愛してくださったのです。
ではなぜ、そのような仕方で愛してくださったのか。それは、人間の罪ということがあるからです。旧約聖書の創世記の初めのほうに、人間の罪の始まりを描いた物語があります。これによると、罪とは自分で善悪を判断できると思うことです。「神様なんかいなくても良い。私が良いと思うことが良い。私がやりたいと思うことをやる。神様なんかに聞かなくても良い」と。じつはこれが今の人の世の姿であり、罪の奴隷となった人間の姿です。この罪の奴隷になっている人間を救い出すためには、人間の知恵や力ではどうすることも出来ない。人間の一切の問題を、神様がご自分で背負って解決をしなければ、どうにもならない。主イエスが来られたのは、このためです。