聖書:使徒言行録10章1~23節
説教:佐藤 誠司 牧師
「しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことはありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、声をかけて、『ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか』と尋ねた。ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。『三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。』」 (使徒言行録10章14~20節)
使徒言行録の第10章に記された百人隊長コルネリウスの物語は、使徒言行録の中で最も大きな物語です。それほどに、著者ルカは力を入れて語っているのです。これまで、キリストの福音はユダヤ人だけのものでした。ただわずかににサマリアに伝えられたり、エチオピアの宦官に伝えられたりはしましたが、これらはあくまで例外的で突発的なことでありまして、福音が公然と外国人に伝えられることはなかったのです。それが外国人に伝えられた。しかも、それがローマ人だったのですから、事情は俄然、違ってきます。
ルカの先生であるパウロは、ローマに行くことを切望しました。なぜローマなのでしょうか? ローマに福音が伝わることは、すなわち、世界に伝えられることだったからです。だから、パウロはローマ行きを何を措いても切望しましたし、実際、使徒言行録はパウロがローマで福音を伝えるところで終わっているのです。またペトロも最後にはローマまで行きました。やはり、「あなたがたは地の果てまで私の証人となる」という主の約束は、ローマで初めて実を結ぶというのが、ペトロたち伝道者の見方だった。彼らはローマに行かないわけにはいかなかったのです。
さて、福音を初めて信じたローマ人はいったいどういう人物であったかと言いますと、名はコルネリウス、いかにもローマ人という名前です。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長であったと書かれています。このイタリア隊というのは、解放奴隷たちがこの部隊に入隊することによって、その特典としてローマ市民権が付与されたという、いわくつきの部隊でありまして、それだけに兵士たちのローマ帝国への忠誠心は高かったと思われる。その部隊の百人隊長がコルネリウスだったのです。この百人隊長コルネリウスについて、ルカは2節で次のように描写しています。
「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」
またそのすぐあとには、彼が午後3時の祈りを守っていたことが記されています。午後3時の祈りは、敬虔なユダヤ教徒が守っていた祈りですから、これは相当に熱心な信仰者であったことが分かります。ここまで読んできて、どう思われたでしょうか? もちろん、皆さんはコルネリウスとは初対面であるわけですが、いかがでしょう。皆さん、すでに心のどこかで、コルネリウスという人物に共感と親しみを感じておられるのではないでしょうか? じつは、これは私たちだけのことではありません。昔から多くの読者がコルネリウスに対して共感と親しみ、そして敬愛の念まで抱きながらこの物語を読んできたのです。どうしてなのでしょうか? 以前、ルカ福音書を読んでいるときにも申しましたが、ルカという人は天性の語り部です。物語を生き生きと語る天賦の才に恵まれている。そのルカが、特別の力を入れて語っているのがコルネリウス物語ですから、これはもうビックリするくらいの手の込んだ描写をルカはここで試みているのです。今日は23節の前半までを読みましたが、その少し先に、ペトロがコルネリウスの家を訪ねて行く場面があります。ところが、コルネリウスは家から出て来て、ペトロの前にひれ伏します。家に迎え入れようとしないわけです。彼は、ユダヤ人が外国人の家を訪問することを律法で禁じられているのを知っているのです。そこで多くの読者が思い起こす物語があると思うのです。そう、ルカ福音書7章の百人隊長の物語です。
百人隊長の僕が重い病気になった。彼はユダヤ人の長老を介して主イエスに助けを乞います。主イエスが出かけると、百人隊長は人を遣わして、こう言わせます。
「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎え出来るような者でありません。ただお言葉をください。そうすれば僕は助かります。」
あの物語も百人隊長です。読者はあの物語一つで百人隊長に共感を抱きます。しかも、ルカはこの物語を非常に巧みに語っておりまして、語り方の巧みさ故に、私たちは百人隊長を目の前にしているような錯覚に捕らわれますが、よく読みますと、この物語に百人隊長は姿を現してはいないのです。ルカは、百人隊長の姿は見せずに、百人隊長のイメージだけを読者に植え付けているわけです。
そしてこの次にルカが百人隊長を登場させるのが、23章の十字架の場面です。主イエスが十字架の上で息を引き取られた。そのときに、百人隊長が言います。
「本当に、この人は正しい人だった。」
まさに決定的な場で百人隊長を登場させている。しかも、これは日本語の翻訳では分かりにくいのですが、ルカはここで百人隊長を定冠詞つきで登場させている。つまり、英語で言うなら「ザ・百人隊長」「あの百人隊長」という感じなのです。もちろん、この百人隊長が第7章の百人隊長と同一人物だと言っているのではないのですが、イメージの上で一つのつながりの中で百人隊長を語っているのです。どうしてそんな手の込んだ語り方をしたのかといえば、もう答えはこれしかないですね。この百人隊長のイメージの延長線上にコルネリウスを登場させるためです。ですから、私たちは、コルネリウスの物語を読む時、無意識のうちに、あの二人の百人隊長とイメージを重ねながら、知らず知らずのうちにコルネリウスの人物像に共感と親しみを覚える。そういう語り方をルカは試みているのです。
さて、午後3時の祈りのとき、コルネリウスは幻を見ます。聖書に出て来る幻とはビジョン、すなわち「神が見せてくださるもの」という意味があります。その幻の中に天使が現れて、言います。
「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。」
コルネリウスは、ただちにこれは神様の御業であると信じて、二人の召使と信仰心のあつい部下一人を使者に立ててヤッファに送り出します。
翌日、この三人が旅をしてヤッファに近づいた頃、ペトロは祈りのために屋上に上がります。昼の12時の祈りのためです。ペトロは空腹を覚えて、我を忘れたようになった。すると、これもおそらく幻なのでしょう。天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅を吊るされて地上に降りてくるのを見たのです。ペトロがその中を見ますと、様々な獣や鳥たち、地を這うものが入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声が聞こえた。ところが、ペトロは驚いて、こう言います。
「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことはありません。」
こういうところを見ますと、ペトロもやはりユダヤ人なんだなあと思いますね。ユダヤの律法には大変厳しい食物規定があります。汚れた物や清くない物には絶対に手を出さない。自分が食べないだけではありません。そもそも、そういう類のものが出て来る食卓にユダヤの人々は着かなかった。つまり、異邦人とは食卓を共にしなかったのです。「これを食べよ」という天からの声に、ペトロが即座に首を横に振ったのも、この食物規定があったためです。すると、天からの声が、また聞こえました。
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
これは決定的な一言です。こういうことが三度あってから、その入れ物は天に引き上げられたと書いてあります。ペトロが今見た幻の意味は何であろうかと思案に暮れていると、ちょうどそのとき、家の表から声が聞こえます。コルネリウスから遣わされた人々がシモンの家を探し出して「ここにペトロと呼ばれるシモンという方は泊まっておられますか」と尋ねたのです。なおもペトロが思案していると、神様は彼の背中を押してくださいます。
「三人の者があなたを探しに来ている。さあ、立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。」
ペトロは階下に降りて行きます。すると、明らかにローマ風のいでたちをしている人物が三人、ペトロを待ち受けています。じつはユダヤの人々はローマ人を忌み嫌っておりました。ローマ帝国に支配され、信仰の自由を得る代償として高い税金が課せられた。加えて愛国主義の高まりによって、ローマへの敵意と憎しみは日を追って増し加わっていたのです。ペトロは「どうして、あなたたちは、私を探しているのか」と問います。すると、彼らはこう答えるのです。
「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」
そういうことであったかと、ペトロは思ったことでしょう。やはり、これは導きであった。あのとき、天からの入れ物をめぐって、天の声と三度のやり取りがありました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」という声を、彼は三度、聞いたのです。ペトロは思い出したに違いありません。主イエスがペトロに三度、繰り返し言われた言葉を、思い出していたでしょう。
「わたしの羊を養いなさい。」
復活の主イエスがペトロに向かって言われた言葉です。この言葉を、主イエスは三度、ペトロにおっしゃったのです。ペトロの中で、この二つの言葉が響き合ったに違いありません。
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
「わたしの羊を養いなさい。」
ああ、神様が清めてくださったものとは、動物のことではなかったのだ。今、目の前に自分を求めて立っているローマ人こそ、それではないかと、ペトロが悟った、そのとき、ペトロの口から、思いもよらない言葉が出て来ます。
「どうぞ、この家にお泊りください。わたしと一緒に泊まってください。」
ユダヤ人のペトロが、異邦人、それも敵対しているローマ人に、一緒に泊まってくれるように声をかけたのです。23節に「ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた」と書いてありますね。これは、ただ泊まらせたという意味ではありません。客として迎え入れて、食卓を共にしたということです。つまり、ペトロは、このとき、律法に生きるそれまでの生き方を捨てたということです。律法というのも、確かに神様の言葉ですが、これは石の板に刻まれた十戒がその典型ですが、あくまで文字に書かれた神の言葉です。文字に書かれたもの、石に刻まれたものというのは、変わらない。変更されないでしょう? 変えようが無いわけです。ところが、神様の御心というのは、そういう、ガチガチに固まったものではない。神様の言葉というのは、ガチガチに凝り固まったものではないのです。ペトロは、そういう語りかけの言葉を聞いたわけでしょう?
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
「わたしの羊を養いなさい。」
ペトロは、文字に書かれた神の言葉ではなく、自分に向かって生き生きと語られる神様の語りかけに従う生き方を選んだのです。そしてこれがキリスト者の生き方になりました。
旧約の士師記の第6章に、ギデオンの物語があります。かいつまんでお話ししますと、イエス様がお生まれになるよりも千年以上も前のこと。イスラエルの人たちはモーセに率いられて、40年間かけてやっとカナンに入ったのですが、先住民族との争いが絶えません。ギデオンの頃はミディアン人との争いが悩みの種でした。彼らは屈強な略奪隊なんですね。イスラエルの人たちが汗水流して働いて、やっと収穫期を迎えると、襲ってきて略奪するのです。それでイスラエルの人たちは恐ろしくなって、山の洞穴に隠れて住んでおりました。その中にギデオンという若者がいるのです。このギデオンが、食べる麦が必要になって、けれども、ミディアン人が恐ろしいものですから、お酒を作る大きな樽の中に隠れまして、ビクビクしながら、こそこそと麦をこなしている。そこへ神様の使いがやってきまして、こう言ったのです。
「勇者よ、主はあなたと共におられます。」
ビクビクしているギデオンに「勇者よ」と言った。これ、普通に考えたら、皮肉ですよね。けれども、神様の使いが皮肉を言いますか? 言いませんね。皮肉を言わないどころか、むしろ、神様の使いは真実を語る。しかも、人間には決して分からない真実を告げるために、御使いは遣わされてくるのです。では、この御使いが語った真実。勇者という言葉に秘められた真実とは、何なのか? 普通に考えますと、勇者といえば、誰と戦っても勝つとか、物凄い力があるとか、そういう人を連想しますが、神様が勇者と呼ばれるのは、そういう人ではないのです。自分の弱さというものを知っている。そして自分一人では立ち上がれない。そういう人を、神様が選んで、神様の御用のために召してくださるときに、その人は勇者なんです。ですから、聖書が言う勇者というのは、その人の素質のことではなくて、神様がその人を勇者とすべく選んでくださったという出来事です。約束です。ですから、勇者とされた人は、神様の約束に生きるのです。「主があなたと共におられる」という約束に生きる。主が私に語りかけてくださるという確信に生きる。
ペトロが律法に生きるそれまでの生き方を捨てたのも、これと同じです。生ける主が共にいてくださり、語りかけてくださる。ならば、その御言葉に従って生きようではないか。あのペトロが勇者とされた瞬間です。ペトロには忘れられない主の言葉がありました。
「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
主が十字架につけられる前の晩に、ペトロに言われた言葉です。あの兄弟たちとは、今の今までユダヤの同胞にことだと思っていたのです。ところが、ローマ人をも神は清いものとしてくださって、この人々を兄弟とし、この人々をも力づけてやりなさいと主は言われる。様々な主のお言葉が彼の中に響き渡ったことでしょう。
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
「わたしの羊を養いなさい。」
「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
この響き合いの中で、新しい出会いが引き起こされていきます。ローマ人の百人隊長コルネリウスとの出会いです。こうして、福音が律法から自由にされて、地の果てまで届く、その一歩が踏み出されるのです。