聖書:出エジプト記20章1~6節・使徒言行録19章21~40節

説教:佐藤 誠司 牧師

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの像も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」(出エジプト記20章3~5節)

「諸君、ご承知のように、この仕事のお陰で、我々は儲けているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなく、アジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」 (使徒言行録19章25~27節)

 

使徒言行録を読んでおりますと、あることに気がつきます。どういうことかと言いますと、使徒言行録の著者は使徒パウロの弟子であったルカという人なのですが、ルカはパウロの伝道にとって大きな意味を持つ町のことを、比較的大きく取り上げる傾向があるのです。これまでの例を挙げますと、コリントがそうでした。またある意味でアテネもそうでした。そしてルカは19章でエフェソの伝道について、多くの紙面を割いて、丁寧に語っています。おそらく、パウロにとってエフェソの町は大きな意味を持っていたのでしょう。だから、ルカはそのことを承知で、エフェソ伝道を大きく取り上げたのでしょう。

では、エフェソとは、いったい、どのような町であったのか? 使徒言行録の20章に、パウロがミレトスの港にエフェソの教会の長老たちを呼び寄せて、別れを告げる場面が出て来ます。おそらく、パウロは自らの死を見据えていたのでしょう。これは単なる別れというより、今生の別れと言いますか、遺言を託すような深い趣のある場面です。その別れの場で、パウロは、こう語っているのです。20章31節です。

「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」

三年間なのです。これはパウロの伝道に於いては異例の長さです。しかも、夜も昼もというのですから、三年間、じつに丁寧に手を取り足を取るようにして、諄々と教え育ててきたのです。エフェソ伝道にかけるパウロの並々ならぬ熱意が感じられます。

ひるがえって、パウロ自身の手紙を見ますと、パウロは第一コリント15章32節で「エフェソで野獣と戦った」と述べています。また第二コリントの1章でもパウロは「アジア州で蒙った苦難」について「生きる望みさえ失った」と語っています。エフェソの伝道がいかに大変だったかが、これで分かります。では、パウロはエフェソの人々に宛てた手紙では、何と語っていることでしょうか? エフェソの信徒への手紙というのがあります。じつはこの手紙は、多くのパウロ書簡の中でも、ローマの信徒への手紙と肩を並べるほど、神学的に高度な、整えられた手紙です。三年間、パウロが夜も昼も熱心に心砕いて教え続けたからなのでしょう。エフェソの信徒たち、特にミレトスの港までパウロを慕って行った長老たちは、信仰的に大きく成長していたのです。そのエフェソの信徒への手紙の中に、こんな御言葉が出て来ます。

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

以前は暗闇だったなどという言い方を、パウロはほかではしていない。もう、これだけでエフェソのキリスト者たちが、いかに大変な状況の中から信仰を育んでいったかが分かります。エフェソの町は魔術で有名であったそうです。たくさんの魔術の本が、ここエフェソで書かれ、読まれたといいます。そういえば、19章11節以下に、魔術のことが記されておりました。キリストを信じるようになった人々の中にも、魔術の本を持っている人たちがいたのです。その人々が、悔い改めて、魔術の本を全部焼き捨てた。その本の値段を見積もってみると、銀貨5万枚にもなったというのです。どうして魔術の本を焼き捨てることが出来たのでしょうか? それは20節に書いてあります。

「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」

御言葉が心に届いたからです。御言葉に突き動かされるようにして、彼らは長年親しんできた魔術と手を切ったのです。

そうして21節以降の物語になります。ここに「エルサレムへ行った後、ローマも見なくてはならない」というパウロの言葉が記されています。「見なくてはならない」という言い方は、大変強い言い方です。聖書独特の言い方に神的必然という言い方があります。神様のご意思によって必然的にそうなるというときの言い方です。このパウロの言葉が、まさに、そうです。また福音書の中の、主イエスの受難予告がそうですね。「人の子は渡されねばならない」という言い方です。神の御心によって、そうなるのだという意味の言い方です。そういう言い方をパウロは、ここでしているのです。

さて、23節以降は、大変な騒乱ぶりが描かれています。ここからもエフェソという町がいかに大変な所であり、そこで信仰を持ち続けるのが、いかに困難を伴うことかが分かります。騒乱の発端となったのはデメトリオという銀細工師のアジテーションです。じつはエフェソの町は女神アルテミスの神殿を中心に栄えた町でありまして、デメトリオたちはアルテミス神殿の銀製の精巧な模型を売って、かなりの利益を上げていたのです。デメトリオは大勢の仕事仲間を集めて、こう演説します。

「諸君、ご承知のように、この仕事のお陰で、我々は儲けているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなく、アジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」

一気に最後まで読んでしまいましたが、それほどに、これは途中で切ることが出来ないほどに、じつに巧みな演説であると思います。演説を聞いているのは誰ですか? 銀細工の同業者たちでしょう。つまり商売敵ではありますが、商売敵というのは共通の敵が現れると、いとも容易に味方になる。そういうものです。利害が一致しているからです。デメトリオはそこを突いている。自分たちの経済損失から説き起こしてヒートアップし、このままでは女神アルテミスの御威光すら失われると言うことで、エフェソの人々の宗教感情に訴えているのです。効果は覿面でした。町全体を巻き込む大騒乱が起きていくのです。しかし、冷静になって考えると、どうでしょうか? 最初は銀細工師たちの集まりだったのです。それが女神アルテミスの御威光が失われると聞いた、それをきっかけにして、町全体を巻き込む大騒乱に発展していく。人々は「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と狂ったように叫ぶのです。一丸となってです。これには、何か訳があるのではないかと思います。

さあエフェソの町って、どういう町なのでしょうか? これは一つの推測なのですが、女神アルテミスの恩恵を受けていたのは銀細工師だけではなかったのではないかと思うのです。日本でも、そういうところはありますが、町全体、町の人々のほぼ全部が、神殿の恩恵を蒙っている。神殿を中心にして広大な裾野が広がっていて、そこに幾種類もの地場産業が成り立っている。日本でも「門前市を成す」という言葉がありますように、町全体が神社のお陰を蒙って生計を立てている。町のすべての人たちがお陰参りをしている。そういうところは多いです。ひょっとして、エフェソの町とは、そういう町だったのではないでしょうか? もしそうだとすれば、これは私たちの国と、非常に似ていると言わざるを得ない。他人事ではないのです。

そう思って、この大騒乱の成り行きを見て行きますと、興味深いことが見えてきます。33節のところに、アレクサンドロという男が群集に向かって語ろうとしたところ、彼がユダヤ人だと分かったので、人々は一斉に「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けたというのです。つまり、エフェソの人々は、ユダヤ教とキリスト教を一緒にしている。同じものと考えている。ユダヤ教とキリスト教の、いったいどこが同じだとエフェソの人々は言うのでしょうか? それは、あのデメトリオの演説を見れば分かります。26節に、こう書いてありますね

「諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。」

さあ、ここで問題にされているのは「手で造ったものなどは神ではない」というパウロの発言ですね。デメトリオとエフェソの人々は、これをどう理解したことでしょうか? まず考えられるのは、自分たちとの違いです。自分たちは女神アルテミスを信仰しているけれど、それと同時に近隣の町々、国々の神様をも信奉している。すべての神々に寛容な精神を持っている。なのに、あのパウロたちユダヤ人は、どうだ。手で造ったものなどは神ではないと一切の神々を拒み、頭を下げようとも、手を合わせようともしないではないか。我々はあらゆる神々に対して寛容なのに、ユダヤ人もキリスト信者も不寛容ではないか、と。エフェソの人々は、そう考えたのでしょう。だからこそ、彼らはユダヤ教とキリスト教を「不寛容」のレッテルで一つ束に括ってしまったのです。

デメトリオの言ったこと。それはある意味で正鵠を突いている。パウロは確かに「手で造ったものは神ではない」と人々に教えたのでしょう。ということは、パウロはエフェソの人々に「十戒」を教えたということです。これは疑いの余地はない。今日は出エジプト記20章の1節から6節を読みましたが、ここはちょうど偶像礼拝を禁じているところですね。「どんな像も刻んではならない。拝んではならない」と言われています。パウロはそれを教えたのです。しかし、パウロは偶像礼拝の本質を知っていた人物です。目に見える形で像を刻んで拝むことをしなければ、偶像礼拝をしていないことになるのか? それでおしまいだったら、事は簡単なのです。偶像礼拝って、何なのでしょうか? 私たち人間というのは、自分の心の中で「神様とはこういう方に違いない」と考えたものを形に刻むのです。ですから、偶像と言われるものの元は、刻まれた木や石の中にあるのではなくて、拝んでいる人の心の中にある。だから、パウロは間違った礼拝をしている人のことを「彼らは自分の腹を神としている」と言いました。偶像は私たちの中にある。これが偶像の本質です。

旧約の預言書に、こんなお話が出てきます。エルサレムの人々が威儀を正して神殿礼拝をしている。たくさんの捧げ物をし、熱心な礼拝をしているこの人々を、預言者が厳しく糾弾しました。それを聞いて、人々は自分たちのどこが悪いんだと言いました。私たちは、他の神々を拝んではいない。ちゃんと神殿で礼拝をし、定められた捧げ物をしている。一生懸命にやっておるではないかと、そう言いました。そうしたら、預言者は、こう言いました。そんなら、あんたたちの生活は何だと。神殿で神様を拝んでいると言いながら、隣人を奴隷に売り飛ばしたり、借金のかたに、生活に必要なものまで奪い取ったり、あなたたちには隣人に対する愛、憐れみが無いではないかと言いました。これ、どういうことかと言いますと、本当に神様を信じ、神様を礼拝していたら、その信仰から出て来る生活というものがあるはずだ。ところが、そこにある生活は、とても神様を拝んでいる人の生活ではないと言うのです。礼拝をしている時は、いかにもそれらしく見えますから、私たちはそこからはその人の本当の思いというものは分からない。けれども、その人が何気なくやっている日常生活というのは、その人の本当の姿が出て来る。それを見ていると、あなたたちは自分の思いを何よりも大事にしているではないか。その思いを通すためには、人がどんなに悲しんでも平気なのか。そういうものを認める神様を、あなたたちは拝んでいるのか? あなたちは自分の腹を拝んでいるのではないか。それは偶像礼拝ではないのかと、預言者が糾弾したのは、そこなのです。

そういうふうにして、私たちは、いつの間にか、神様とはこういうお方だろうと、自分の中で偶像を造ってそれを祭り上げて拝んでいる。これは人間の罪の姿、人間が本来的に持っている避けることの出来ない罪の姿です。

だったら、どうなのか。裂けられないのなら、どうしようもないではないかと、そう思われるかも知れません。しかし、そういう偶像礼拝を打ち砕いて、本当の神様を礼拝させようとしているのが、この聖書なのです。だから、パウロたちの伝道は、常に聖書の解き明かしとして行われました。現代もそれは変わりません。

では、どういうふうにして、本当の礼拝をさせるのか? それはいつの世も変わりません。神様の語りかけです。生きた御言葉によってです。聖書の言葉が、文字に書かれた言葉として、読まれるのではなく、今、この礼拝において、神様が生きて働いておられて、語りかけてくださる。その、生きた神様の語りかけに出会ったときに、私たちは、自分が今までに持っていた、いわば神様に対する誤解や思い違い。神様とはこういうお方に違いないと決めてかかっていた、そういう誤解を神様は打ち砕いてくださる。そうして、はっと目が開かれる。パウロだって経験したことです。目からウロコだったのです。ヤコブだって言いました。「ああ、まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」と驚いて言いました。偶像礼拝を打ち砕かれた瞬間です。そのとき、ヤコブは何をしましたか? 枕にしていた石を立てて、油を注いで礼拝をしたでしょう? 本当の礼拝をしたのです。パウロがエフェソの人々に伝えたのは、そういう神様だったのではないでしょうか? 他のいろんな偶像の神々というのは立派な神殿を建ててもらって、そこに鎮座している存在です。アルテミスの神殿がそうですね。しかし、聖書の神様は違う。鎮座したりはなさらない。叫びを聞いてくださる神であり、生きて働いてくださる神様です。十字架にまでついてくださる神です。エフェソでは大騒乱が起きました。しかし、パウロが語る御言葉に耳を傾け、心開かれて信じる人たちが、この大騒乱の中にいたのです。神殿にお参りをする人たちの中から、キリスト者が起こされていった。これは人間の業ではありません。だから、感謝と驚きを込めて、パウロは、こう言ったのです。

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

以前は暗闇だったが、今は主に結ばれて、光となっている。これは、ひょっとして、エフェソの長老たちだけではない。今、この日本という国で、まことの神様を礼拝している私たちのことではないでしょうか。だったら、私たちは、闇から贖い出された者として歩みたい。光の子として歩みたいのです。

 

 

 

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