聖書:イザヤ書6章1~13節・ルカによる福音書5章1~9節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」(イザヤ書6章1節)

「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」(イザヤ書6章8節)

 

今日はイザヤ書の第6章が伝えるイザヤの召命の物語を読みました。物語は次の言葉で幕を開けます。

「ウジヤ王が死んだ年のことである。」

ウジヤ王は南のユダ王国の王様で、40年に渡って国を治めた名君です。ウジヤ王の統治のもと、ユダ王国は栄えて、経済的にも豊かになりました。ところが、国が豊かになりますと、貧富の差が大きくなってきます。お金持ちは、その富にものを言わせて勝手なことをする。アモス書という預言書に「靴一足の代金で同胞を奴隷に売った」ということが出て来ます。それほどに、貧富の差は道徳的な退廃をもたらしたのです。この退廃は神殿礼拝にも暗い影を落としました。どうなったかと言うと、まず礼拝が派手になった。多くの犠牲がささげられて、これ見よがしに豪勢な礼拝がささげられるようになった。祭司たちも、そのおこぼれに与ろうと、金持ちの礼拝に着きたがる。こうして、神殿礼拝そのものが堕落したのが、このウジヤ王の時代だったのです。

ところが、ここに国家的な危機が起こります。北方にあるアッシリアという大変に強い国が北のイスラエル王国と南のユダ王国の脅威となりました。そして北イスラエル王国は、とうとうアッシリア帝国に滅ぼされてしまいます。しかし、アッシリアの脅威は、そこで収まることなく、さらにユダ王国にも迫って来る。そういう危機的な状況の只中で、ウジヤ王は亡くなったのです。

イザヤは、これからこの国はどうなるのかと、大変心を痛めて、不安を募らせました。そこでイザヤはどうしたか。なんと彼は不安を鎮めるために神殿に行った。もちろん、イザヤは礼拝をするために神殿に行ったわけですが、金持ちたちが多くの祭司をかしずかせて、競い合うように多くの犠牲をささげて行う豪勢な礼拝ではなく、普段は誰も近づかない聖所と呼ばれる神殿の最も奥の場所に行ったものと思われます。

どうしてイザヤはそのような行動に出たのか。イザヤは、どうしてほかの人々と一緒に礼拝をすることを拒否したのでしょうか。先ほども言いましたように、当時の神殿礼拝は堕落の一途をたどっていました。多くの祭司たちが集められ、うやうやしく多くの犠牲がささげられています。大変盛んな礼拝が行われていたのです。しかし、それは見せかけの礼拝でした。祭司たちは貧しい人々の礼拝を顧みることなく、礼拝のおこぼれに与ろうとして、金持ちの礼拝にかしずきました。偽りの礼拝だったのです。イザヤは、そういう堕落した礼拝を厳しく批判しております。

しかし、それならなぜ、イザヤは神殿に行ったのか。なぜ礼拝に行ったのか。神殿も礼拝も堕落しているのなら、もう神殿なんかには行かない。二度と礼拝にも行かないと、そういう思いになって不思議ではありません。ところが、イザヤは礼拝に行った。なぜなのでしょうか。私は、こういうところにイザヤの信仰の姿が現れていると思います。

大阪の母教会におりました時に、この教会の礼拝は福音が語られていないと言って、去って行った人がいました。とても聡明な女性で、私と同じ青年会に属していました。この人は福音のメッセージを聞き取る名人と言いますか、聞く力のある人でした。その人が「この教会の礼拝は福音が語られていない」と言うものですから、私も正直、心が揺れました。確かに彼女の言うとおりなのです。当時この教会の牧師は、もう老年で、その説教も枯れたと言いますか、枝葉を切り落として語られた。ちょっと弱いなという思いは、誰もが持っていたと思います。結局、彼女は教会を去りました。そして二度と教会には帰って来ませんでした。どうしてなのでしょう。

人間だけを見ているからです。確かに彼女の福音を聞き取る力は素晴らしいものがありました。しかし、その聞き方は、どうだったでしょうか。牧師が語る説教、牧師が語る言葉しか、この人は聞いていなかった、見ていなかったのです。しかし、それは礼拝者としては、おかしいことです。この老いた牧師を語らせておられるお方がおられる。この老人を説教者としておられるのは、どなたなのか。

イザヤが見ていたのは、そこです。礼拝を人間の業だと見ると、これはもう破ればかりが目につきます。特にイザヤの時代の神殿礼拝は破れどころか、堕落の極みだったのですから、もうこんなの礼拝じゃないと言って、神殿を去って行っても不思議ではない。しかし、イザヤは、もう一つのことに目を注いでいた。この堕落した礼拝、礼拝とも呼べないような礼拝を、忍耐をもって受け入れておられるのは、どなたであるか。イザヤという人は、そこを見ていた。だから彼は、堕落した礼拝と人々を厳しく批判しながら、彼自身はやはり神殿に行って礼拝をしたのです。

この時代の神殿は、ソロモン王が建てた神殿です。ソロモンは、この神殿が完成した時、これを神様にささげて「神殿奉献の祈り」をささげました。これは大変に有名な祈りでありまして、今でも教会の会堂建築の際には、奉献式の中でこの祈りが引用されます。大変に長い祈りですが、その一部を読んでみたいと思います。ソロモンは、こう祈ったのです。

「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることはできません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。」

ソロモン王が建てた神殿は素晴らしいものであったと言います。人間が見たら、本当にこれは、神様が住んでおられそうな神殿だと思うでしょう。ところが、ソロモンはそうは思っていない。この神殿は神様を納め得るものではないとソロモンは言います。ではなぜソロモンはこんな神殿を建てたかと言いますと、それはひとえに、神様が「私の名をそこにとどめる」と言われたからです。名を神殿にとどめるというのは、この神殿で礼拝をしなさい。私はその「礼拝を顧みる、受け入れる、ということです。

ここに神様の憐れみがあります。人は、この憐れみの故に礼拝をすることが可能になるのです。ですから、私たち人間の礼拝というのは、神様の憐れみの賜物なのです。私たちの熱心さが礼拝を礼拝たらしめているのではない。神様の憐れみが、私たちの欠けの多い礼拝を礼拝たらしめている。これは私たち礼拝をする者がいつも弁えておくべきことだと思います。

さて、神殿の奥の聖所で、一人礼拝をするイザヤは、そこで驚くべき経験をします。こう書いてあります。

「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。」

「見た」と書いてあります。日本語では何気ない言葉ですが、これは私たちが肉眼で普通に見るという意味の言葉ではありません。誰もが見るということではない。イザヤだけが見ているのです。預言者はよく幻を見ますね。エレミヤもエゼキエルも、幻を見ました。彼らは幻によって神の御心を知らされたのです。これは言うなれば信仰の目が開かれるということです。イザヤが神殿の聖所で見たのも、そういう幻でした。

イザヤは、神殿に来て人々の礼拝の有様を見ました。それは、腐敗しきって、神様なんかおられない。人間の欲望が渦巻く現実でした。それを見て、イザヤも憤ったことでしょう。

ところが、彼はそこで信仰の目が開かれて、この堕落した礼拝が行われている神殿の只中に神様が臨在しておられるという、隠された事実を見たのです。北イスラエル王国が滅ぼされ、南のユダ王国も亡国の危機に瀕している、そのさなかにウジヤ王を失った。まことに人間の目からは絶望的な状態です。しかし、イザヤは「主の栄光が、地のすべてを覆う」という隠された事実を、神殿で見ることが出来ました。しかし、それと同時に、イザヤは、神の臨在に接して、心の底から恐れおののきました。なぜか。自分の罪を自覚したからです。5節に、こう書いてあります。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

神様の臨在に触れるというのは、信仰者にとって、この上ない喜びです。しかし、それと同時に、神の臨在によって私たちの罪が明らかに示され、私たちが滅びる時でもあります。だからイザヤは恐れおののいたのです。

イザヤはそれまで、同胞の堕落した姿を見て、同胞の罪深さを憤り、嘆いていました。それは彼の誠実さの現われでしたが、どこか他人事の憤りだった。ところが、今、神の臨在に触れて、同胞の罪ばかりではない。じつに、私自身が汚れた唇の者であることが白日の下にさらされた。自分がいかに神様から離れていたか、自分のやる事、言う事、考える事が、ことごとく神様の御心と違う。そのことを痛いほど示されて、ああ、もう私は滅びてしまうと、そう言わざるを得なくなった。

すると、セラフィムの一人が火箸を持って飛んで来て、燃える炭火をイザヤの口にひっつけた。そして、これであなたの咎は取り去られ、罪は赦されたと告げた。聖書に出て来る火や炭火は、神の裁きを象徴しています。神様はイザヤの罪を裁かれたのです。相手をやっつける裁きではありません。裁きと共に古いイザヤを葬り、新しいイザヤを生まれさせる。そういう裁きです。ですから、ここに洗礼の原型が示されていると言っても差支えがない。罪を赦し、その人を新たに生まれさせるのです。

今までイザヤは、国を憂い、世の堕落を嘆いて、非常に暗い気持ちで礼拝していました。しかし、今、彼は、この堕落した国、堕落した礼拝の只中に神様が臨在し、その栄光が全地に満ちていることを示されました。その時、イザヤは、主の御声を聞きます。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」

この声を聞いたイザヤは反射的に言います。

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

ここは非常に簡潔に書いてありますから、うっかりすると聞き逃してしまいますが、ここは大事なことが語られています。心して聞き取っていきたいと思います。

まず、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という言葉の読み方ですが、これは「誰が行くだろうか」と言いつつ、じつは「お前、行け」と言っておられるのです。これは神様がしばしばなさる言い方です。振り返ってみれば、私たちも世の悲惨さを見たり、日本の国の堕落ぶりを見たり、伝道の不振を目の当たりにします。その時に、私たちも聞いている。「誰が行くだろうか」という神様の御声を聞いていると思うのです。

しかし、それが、ある時に変わる。「誰が」から「あなたが」に変わる。そして「誰が行くだろうか」ではなく「あなたが行きなさい」というメッセージを心の底から受け止めた時に、献身という出来事が起こる。

神様は「誰を遣わそうか、誰が我々に代わって行くだろうか」と言っておられるのだけれど、じつはこれは「お前が行け」ということです。けれども、神様は直接「お前、行け」とおっしゃらないで、私たちに決断させようとしておられる。

私たちは、初めのうちは、なんだか難しい問題だなあと思って、誰かこれを解決してくれないだろうかとか、これって最後はどうなるんだろうとか思っていますが、祈って考えて行くうちに、ひょっとしてこれは、お前がやれと言っておられるのではないかと。私たちをそこへと導いてくれるのが、祈りではないかと思います。そして、イザヤがそうであったように、これらはすべて、礼拝において与えられるものです。神様の臨在に触れ、自分の罪がきよめられ、赦されていることを知って、神の器として遣わされて行く。召命とは、そういうことだと思うのです。

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

7月21日(日)のみことば

「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに入る。」(旧約聖書:イザヤ書51章11節)

「イエスは天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(ルカ福音書9章51節)

今日の新約の御言葉はルカ福音書のターニングポイントです。主イエスの歩みの向きが、ここで変わるのです。この「エルサレムに向かう決意を固めた」というところ、聖書の原文では「エルサレムに顔を向けた」というふうになっています。しかも、ただ単に顔をそちらの方向に向けたのではなくて、顔をエルサレムのほうへ固定した。動かぬように、固定したという強い表現がとられている。それほどに、主イエスにとって、エルサレムへ向かう旅は深い意味があったというべきでしょう。

エルサレム。そこは主イエスが十字架で死なれたところです。そして三日目に死者の中から復活なさったところです。そして40日目に主イエスが天に引き上げられたのも、エルサレムですし、その後、弟子たちの上に聖霊が降って地上に主の教会が誕生したのもエルサレムです。つまり、救いの原点となったのがエルサレムであったわけです。主イエスは今、そこへと顔を向けて歩んでおられる。その一歩一歩の重みを受け止めたいと思います。