聖書:創世記24章34~60節・ガラテヤの信徒への手紙3章7~9節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ラバンとベトエルは答えた。『このことは主の御意思ですから、わたしどもが善し悪しを申すことは出来ません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。』アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。」(創世記24章50~52節)

 

今日は創世記24章のイサクの結婚の物語を読みました。イサクという人はアブラハムのただ一人の跡取りですから、その結婚はイサクだけの問題ではなく、一族全体に関わる重大事です。この問題にアブラハムたちがどう考え、対処したかということを見ますと、私たちが毎日いろんなことと出会うその生活を、信仰をもって生きていくというのは、どういうことなのかということに、一つの光を与えてくれる物語だと思います。

今日は、いつもの礼拝よりもずっと長い聖書の箇所を呼んでいただいたわけですが、それとても、じつは十分ではない。イサクの結婚については、創世記の24章全体が語っています。ですから、私のお話も、今日読まれた部分だけでなく、その前後を補いながら進めていきたいと考えています。

アブラハムとその妻サラの間にイサクが誕生したとき、アブラハムは既に100歳のおじいさんでした。そのイサクが年頃になりました。お嫁さんを迎えなければならない。ところが、御老体のアブラハムは、自分ではどうすることも出来ません。そこで信頼している僕を呼びまして、使命を託します。

その時に、アブラハムは二つのことを言いつけています。アブラハムは生まれ故郷を出て、カナンという土地に住んでいるのですが、そのカナンの土地の娘と結婚させてはならないと、厳しく命じました。これは土地の人たちを差別しているのではなく、あくまで信仰と生活の問題です。民族が違うということは、信じている宗教が違うのです。

じゃあ、誰と結婚させれば良いのかというと、アブラハムが出て来たところのハランにいる親戚の者、その一族の所へ行って、ふさわしい娘を探し出してほしいとアブラハムは言うのです。

もう一つ、アブラハムが僕に言いつけたのは、こういうことです。もしその娘が家から出て行くのは嫌だと言えば、どうしたら良いか。結婚はしても良い。しかし、その場合はイサクさんが自分の所に来てほしいと娘が言えば、どうしたら良いか。そうしたら、イサクをその娘の所に連れて行って結婚させて良いでしょうかと僕が言うと、それは絶対にダメだと。イサクはこのカナンに留まらなければならない。もしその娘が、そんなカナンみたいな辺鄙な所へ行くのは嫌だと言うなら、破談になっても仕方ないと、こういうことをアブラハムは僕に言い含めたのです。

なぜアブラハムはイサクの結婚にこれほど厳しい条件を付けたのでしょうか。イサクという人はアブラハムが受けた神の祝福を受け継ぐ人だからです。ですから、「この土地をあなたとあなたの子孫に与える」と言われた、このカナンの地に、イサクは踏みとどまることが大事であって、結婚したからと言って、この約束の地を出て行ってハランに帰って行くことは許されない。アブラハムはかつて、ハランにいた時に、神様から「父の家を出て、私が示す地に行きなさい」と言われて国を出て来たわけです。これはイサクが受け継ぐべき約束です。

もう一つ、どうしてカナンの娘と結婚してはならないのか。これは先ほど、少し述べましたが、イサクがカナンの娘と結婚すれば、必ず偶像礼拝が入って来る。アブラハムはそれを警戒したのです。それに対してハランの人々はどうかと言いますと、ハランの人々も偶像礼拝をしていたことが、後になってヤコブの話のところで出て来るのですが、少なくともハランの人たちは故郷を捨てて神様に従ったアブラハムの信仰を知っているわけです。そういうところからイサクの妻を迎えたいというのが、アブラハムの願いだったのです。

そしてアブラハムはこの僕に誓いを立てさせます。もしこの二つの条件が満たされなければ、この誓いは解かれる。お前はもうその役目を果たさなくともよろしいと、そういうことで僕を送り出します。

僕はアブラハムの願いを理解して、これを忠実に果たします。ハランに行きまして、みんなが水を汲みに来る井戸のほとりで待機します。どうして井戸端で待ったかと言いますと、水を汲みに来るのは若い女性の仕事だったからです。そこで僕は「どうぞ私にイサクの妻にふさわしい娘を示してください」と祈ります。

そうしますと、僕が願ったとおりに、若い娘がやって来て、親切に僕に水を飲ませてくれたばかりか、ラクダにも水を汲んで来てくれました。この娘がリベカです。これこそ神が備えてくださった娘だと確信した僕が尋ねますと、娘は「ナホルとミルカの子ベトエルの娘です」と答えます。やはりそうであったかと、僕は娘の家に行きまして、事の次第を話します。その話を聞いたのが、ラバンとベトエルです。ラバンはリベカのお兄さんで、ベトエルはお父さんです。このお父さんとお兄さんが、じいっと僕の話を聞いておりまして、「ああ、これは神様がなさっておられることだ」と、そう受け取った。信じたのです。

どうして信じたかということは、書いていない。聖書というのは、そういう人の心境の変化を語らないのです。しかし、皆さん、どうでしょう。神様の導きというのは、やっぱりそういうものではないでしょうか。決して理屈で解るというものではない。またリベカのお父さんやお兄さんも、これまで熱心に神様を信じていたわけではないのかもしれません。しかし、ああ、これは神が働いておられる、これは神の導きだと、解ったのです。彼らは言います。

「このことは主の御意思ですから、わたしどもが善し悪しを申すことは出来ません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」

じつに明確に言っております。ここをお読みになって、これは大昔の話だから、そういうこともあるだろうけれど、現実の私たちにはそんなハッキリとした導きは感じることがないと、そんなふうに思われたかもしれません。しかし、私たちだって、聖書を読みながら御心を求めていく中で、示されることがあると思います。「これは神の導きだ」と直感して、時々、勘違いもありますが、少なくとも大事なことは、私たちが普段から神様の御言葉を聞いて学んでいるということです。

さて、イサクとリベカの結婚ですが、話は順調に進みまして、アブラハムの僕が「それでは娘さんを連れて帰りましょう」と言うと、リベカのお兄さんとお母さんが「そんなに急いで連れて行かなくても、せめて10日間くらいは娘をここにおらせてください」と頼み込んだ。結婚したら、実家に帰るなんてことはあり得ないですから、これは家族としてもっともな願いだと思います。ところが、僕はこう言います。

「わたしをお引き止めにならないでください。この旅の目的を叶えさせてくださったのは主なのですから。わたしを帰らせてください。主人のところへ参ります。」

これは全く強引です。思慮深いこの僕が、どうしてここまで強引になれたのか、不思議なところですが、一つ考えられるのは、こういうことです。この僕はリベカの態度を見ようとしたのではないかということです。決断を迫った時に、リベカがどういう態度に出るか。

そこで彼らが「娘を呼んで、聞いてみましょう」と言ってリベカに聞きますと、なんと彼女は即座に「はい、行きます」と答えたのです。ここらにリベカという人の人格と言いますか、生き方が見事に現れたところだと思います。リベカという人は旅人に水を飲ませてやったり、その旅人のラクダにまで水を汲んでくる、そういう心優しい側面があるのですが、それだけではなく、見知らぬ環境にもためらうことなく飛び込んで行く。そういう豪胆さを併せ持っていると思うのです。リベカの両親やお兄さんは、リベカの覚悟を知って、彼女を送り出すことにします。そして、リベカを祝福して、こう言います。

「わたしたちの妹よ、あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。」

いかがでしょうか。「敵の門を勝ち取れ」と言われています。これは嫁ぐ娘を祝福する言葉にしては、武骨と言いますか、まるで戦地に赴く息子を送り出す言葉のようにも思えます。じつは、リベカのお父さんやお兄さんは知っているのです。アブラハムやイサクが遊牧民の族長であって、周りの人々と平和に過ごしてはいますが、いつ敵対するとも限らない。当てがあるようで、明日の生活の保障がない生活であることを知っているのです。

遊牧民ですから、一族を引き連れ、多くの家畜を引き連れて、水や牧草を求めて移動する。行く先々で他国民と交渉しなければならない。その人々が、いつ敵になるかもしれない。いつでも戦いの用意をしておかねばならない。そういう中で一族を率いて行く。だからリベカの親たちは、「敵の門を勝ち取れ」という、物騒とも思える言葉で娘を祝福したのです。リベカ自身も、それに耐えることが出来る芯の強い女性だったのです。

このように考えますと、神様は本当にイサクにふわさしい女性を選ばれたのだと思います。ただ優しくておとなしいだけでは、とても、この一族を率いて行くことは出来ない。イサクという人は温和で、争いを好まない、争うよりも自分が引き下がるほうを取るような人です。そのイサクの妻に、神様はリベカを選ばれたのです。

いかがでしょうか。今日は敢えて物語の流れに身を委ねるようにして、物語を読んできましたが、皆さんはどうお感じになったでしょうか。目に見える形で動いているのはアブラハムであり、その僕であり、リベカであり、その家族たちなのです。そこには様々な人の思いが交錯しています。お父さんの思い、お母さんの思いがあり、お兄さんの思いがあります。しかし、改めて振り返りますと、その思いの全部が、いささかも無駄になることなく、一つの中心に向かっていたことに気づかされます。目に見えるものとして、人間と人間のやり取りがあり、思惑があります。しかし、それだけではなくて、神様はどう思っておられるか、その神様の御心というものを通して、人と人との関係が新たに結ばれて行く。そういうことが、この物語には非常に鮮やかに語られています。

こういうふうにして、神様がアブラハムに約束された「祝福の源」が築かれて行きました。神様を信じ、その約束だけを頼みにして、アブラハムは故郷を出て行きました。心細かったでしょう。しかし、そのアブラハムに、神様は祝福を一つ、また一つと具体的に造り出してくださる。多くの人をその中に引き込みながら、アブラハムを祝福の源にしてくださる。こういうところに、私たちは神の御業というものを見ることが出来るのではないでしょうか。

私たちの信仰生活においても、同じことが起こってくるのではないかと私は思います。信仰を告白して洗礼を受けたときは、熱い思いはありましても、具体的な生活の中身というのは、まだあまり無いわけです。それが、一つ一つの問題や課題に直面して、失敗したり意気消沈したりする中で、そこに神様の恵みや導きというものが形をとって現れて来る。そういうものだと思います。ですから、失敗したり間違いを犯したりしながら、それでも主の御言葉を聞き続ける。そのことが大事であって、その繰り返しこそが信仰生活だと思うのです。神の祝福は生活の中で実を結ぶ。アブラハムやイサクの物語は私たちにそのことを語っていると思います

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

2月4日(日)のみことば

「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。」(イザヤ38章16節)

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」(ルカ福音書11章1節)

今日の新約の御言葉は、主イエスが弟子たちに「主の祈り」を教えてやるお話の冒頭部分です。弟子の一人と書いてありますが、おそらくこれは彼一人ではなく、弟子たち全員の正直な思いであり、願いでしょう。主イエスに祈りを教えて頂きたいのです。でも、どうしてなのでしょう? 弟子たちも日々祈ってきたはずなのです。それなのに、どうして弟子たちは「祈りを教えてください」などと言うのでしょうか?

確かに弟子たちも祈りを知ってはいたし、日々祈ってきたでしょう。ところが、祈る主イエスの姿に圧倒されて、祈れていない自分に気がついた。祈っていない自分を発見して、愕然としたのです。ですから、主イエスに向かって「祈りを教えてください」と頼み込んだ弟子たちの思いというのは、切実なものがあったのです。翻って、今の私たちは、どうでしょうか? 私たちも祈りを知っていますし、祈ってもいます。しかし、本当の意味で祈れているだろうかとも思います。これは、ほかでもない、「主の祈り」が問いかけていることです。