聖書:イザヤ書43章1~7節・ルカによる福音書19章5節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書43章1節)

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」(イザヤ書43章18~19節)

 

今日はイザヤ書43章の御言葉を読みました。この箇所の1節と2節は、私たちの教会でも、よく礼拝の冒頭で、招きの言葉として読まれます。

「あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名を呼ぶ」と言われています。現在の私たちは、これを第二イザヤという預言者の言葉として聞きますが、初代のキリスト教会の人々は、これをキリストの言葉、しかも十字架の上で語られたキリストの言葉として聞いたと言われます。どうして、そんな読み方が出来たのでしょうか。今日はそのことを心に留めていただいて、もう一度、1節の御言葉を味わってみたいと思います。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

ここに「私とあなた」の関係で語られている文章が、二つ、出て来ております。「わたしはあなたを贖う」という文章と「わたしはあなたの名を呼ぶ」という文章です。この二つを注意して見ますと「贖う」という言葉と「名を呼ぶ」という言葉が並列になっていることが分かります。つまり、「贖う」という行為は、そのまま「名を呼ぶ」ことと重なる。相手の名を呼ぶことが、すなわち、その相手を贖うことだったのです。これは古代イスラエルに存在した贖い人の救済制度を背景に持つ言い方です。それはルツ記の第4章にも出て来る制度で、こういう制度です。ある人が貧しくなって、没落して、もう奴隷に売られるよりほかに道が無くなった。そうしますと、その人を救済するために、その人の親類縁者が町の門の前に集まって、評議の時を持った。どうして町の門の前に集まったかと言いますと、当時.裁判が行われたのが、町の門の前だったのです。親類縁者が町の門の前に集まって、そこで一文無しになった人の贖い人となる人を募ったのです。

しかしながら、贖い人になるということは、その人の借金のすべてを身代わりに引き受けて、その人の今後の人生を一切引き受けることですから、いつもいつも贖い人が現れるとは限りません。贖い人が現れない場合、一文無しになった人は、奴隷に売り飛ばされるわけです。しかし、贖い人が現れた時、どうしたかと言いますと、「私が贖い人になります」と名乗り出た人が、一文無しになった人の名前を呼んだのです。証人となる公衆の面前で、大きな声で名を呼んだ。その時に贖いが成立したのです。そして「安心しなさい。あなたは私のものだ」と声をかけた。これが古代イスラエルの贖い人の救済制度です。

このイザヤ書43章の御言葉を、十字架の上で語られたキリストの言葉として聞いた初代教会の人々の十字架の理解は、とても深いものがあると思います。「私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ」とキリストが言われた。しかも十字架の上で言われたのだと、彼らは理解したのです。どうして、そのような理解をすることが出来たのでしょうか。

私たちは、十字架の救いということは、礼拝でもよく聞きますし、分かっていることだと思っています。しかし、その場合、私たちは十字架の救いというものを、どう捉えているでしょうか。十字架の御業はすべての人に関わることだから、すべての人にあてはまる一般的なことだと、そのように捉えているのではないかと思います。ところが、この理解で行きますと、教会生活もろくに守れていない自分のようなグータラ信者は、ひょっとして救いから漏れているのではないか、自分はダメなんじゃないかという疑念が、ふつふつと沸き起こってくる。そいうことがあると思います。

しかし、名を呼ぶというのは、一般的なことではない。十把ひとくくりのことではない。名前というのは、一般的なものでもなければ、ただの記号でもない。その人だけに付けられている人格的なもの。それが名前です。決して「Aさん、Bさん」という記号ではない。名前というのは人格そのものと言っても過言ではない。

ですから、キリストの十字架の御業というのは、確かに「すべての人」に関わることですが、それと同時に「私」という個人にも深く関わる。そういう二重の意味を持つのが、キリストの御業の特徴です。もう私のようなグータラ信者はダメだとか、もう私なんか忘れられているのだろうとか、つい思ってしまう時がありますね。しかし、それは私たちの感じ方であって、イエス様はそうではない。イエス様は、ちゃんと私の名前を呼んでおられる。その声に、いつも耳と心を澄ませておきたいと思います。

「恐れるな、私はあなたを贖う」と言われております。先ほどは「贖い人」の救済制度のお話をしましたが、「贖い」というのは、じつは、いろいろな意味を持った言葉です。まず第一の意味は身代わりになるということです。私たちが不始末をして、自分でその解決をつけることが出来なくなった。その時に、その責任を全部引き受けて、いわば身代わりになって始末をつける。それが贖いの第一の意味です。

次に、贖いには「身代金」という意味がありました。身代金と言いましても、誘拐犯が要求してくる身代金ではありません。そこのところの誤解が生じないように、今、私たちが持っている聖書では、これは「代価」と訳されています。奴隷に売られていく人を、代価を払って買い取る。買い戻す。これが贖いの第二の意味です。大変なことです。しかし、この贖いのために私たちが何かをしなければならないということはない。一切合切、贖い主がしてくれた。私たちはこの贖いを恵みとして受け取るだけです。既に成し遂げられた贖いの御業を感謝して受け取る時、そこに信仰が生まれます。

福音書の中に、イエス様から「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という言葉をかけて頂いた人物が何人もいますが、彼らに共通しているのが、この一点です。この人たちは、自分に信仰があるなどとは露ほども思ってはいなかった。ただ、主イエスから贖いの御業を恵みとして受けた。ただそれだけです。自分で自分の救いのために何かしたという事はない。受けただけ。感謝して受け取っただけなのです。しかし、それが、じつはキリスト教信仰の本質です。

恵みを受け取ることは、どんな弱い人にも出来ることです。いや、弱い人ほど出来てしまうと言うべきでしょうか。弱い人の、弱い所に、神の恵みは注がれるからです。パウロという人は、優れた伝道者でしたが、発作を伴う深刻な病気を持っていました。そこで彼は、この厄介な病気を取り去ってくださいと祈ったのです。この病さえなくなれば、神様のためにもっと大きな働きが出来ると。だから彼は、この祈りは聞かれると信じて疑わなかった。ところが、祈りの中で示されたのは、意外とも思える御心でした。「私の恵みは、あなたに十分だ」という答えが返って来たのです。その訳は、「力は弱さの中でこそ、十分に発揮される」から。この答えを得た時に、パウロの福音伝道者としての歩みは決まったと思います。だから彼は「弱い時にこそ強い」とまで言うことが出来たのです。

なぜ、弱い時にこそ強いのでしょうか。イザヤ書43章の1節に、こんな言葉があります。

「あなたはわたしのもの。」

これは神様が私たち人間に言われた言葉ですが、まことに不思議なことに、これは全く逆の意味も持っている。神様と人間の関係においては「あなたは私のもの」というのは「私はあなたのもの」という逆の意味をも持っているのです。このことを雄弁に語っているお話があります。それは主イエスが語ってくださった「放蕩息子の譬え」です。息子の資格を完全に失った息子が、ぼろぼろの身なりで、父のもとに帰って来た。父親は息子の首を抱いて接吻した。息子は父親のふところに顔を埋めて、むせび泣いている。二人とも、言葉はありません。あの場面に脈々と流れているのが「あなたは私のもの」という言葉と「私はあなたのもの」という言葉の二重奏です。この二つが互いに響き合うところに、神と人との和解が成り立っていく。聖書が語る和解とは、そういうものです。

この和解が、私たちに何をもたらしていくのか。この問いに対して、イザヤ書の43章は、私たちに一つの示唆を与えております。それは今日読んだ箇所の少し先、18節と19節です。

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」

この「初めからのこと」「昔のこと」というのは、出エジプトのことです。ユダヤの人々、イスラエルの民にとって出エジプトの出来事というのは、いわば救いの原点、絶対の救いの出来事です。特に、イスラエルの人々が断崖絶壁に追い詰められて、前は海、後ろは追手のエジプト軍という絶体絶命の時に、神様が思いもよらない道を海の底に開いてくださった。この出来事はイスラエルの人々にとって、絶対の救いであって、どのような試練の時にも、ユダヤの人々は、あの出来事を思い起こして生きる希望を燃やし続けたのです。

しかし、いくら偉大な出来事であっても、それは今から見れば過去の事です。私たちは、現在自分が直面している明日のことを、いつも過去のもので推し量ろうとします。そして、過去から明日の事を類推して、こうしかならないのだと、そういう枠に縛られて物事を考えています。しかし、あの時に神様が、人の思いを超えた明日を開いてくださったように、今日ここで神様は私たちの思いを超えた明日を開いてくださる。だから、昔のことに縛られてはならない。19節の後半に、こう語られています。

「わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」

荒れ野というのは、人が通れない所。砂漠は水の無い所。そう考えるのが人間の常識です。しかし、人間の常識というのは、いつも、過去から導き出されるものです。ああだったから、こうなるに違いない。あの時、こうだったから、そうはならないに決まっている。しかし、本当のことは、過去から来るのではなくて、未来から来る。

ヨハネ福音書の9章に、生まれつき目が見えない若者の話が出て来ます。彼を見て、弟子たちが主イエスに尋ねます。

「主よ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」

ずいぶんと心無い言葉だと思います。過去がこの人の現在を造り上げているという因果応報の考えが、ここにあります。しかし、それに対して、主イエスはこうお答えになった。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

きっぱりと因果応報の考えを否定しておられます。真実は過去から来るのではない。真実は、むしろ、未来から、将来から来る。未来、将来というのは、人間の領域ではなく、神様の領域です。その神の領域である未来から、神の御業がこの人にやって来るのです。

では、私たちは未来に属する神様の御計画を、御心を、いったい、どこで知るでしょうか。もう一度、イザヤ書の御言葉に耳を傾けてみましょう。19節の御言葉です。

「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」

第二イザヤがバビロンに囚われた人々に向かってこれを語ったのは、紀元前500年以前のことです。その意味では、これは過去の言葉です。

ところが、この預言の言葉は、第二イザヤが神の霊感を受けて語った言葉であって、それが礼拝という営みの中で読まれる時、御言葉は過去の装いをかなぐり捨てて、今の言葉になる。神様が今、語っておられる言葉になる。そういうことが、礼拝の中で起ってくるのです。

イエス様は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。この「滅びる」というのは「過ぎ去る」という意味です。イエス様の言葉、神の言葉は過ぎ去らない。過去の言葉にならないのです。人生の礎となるその御言葉を、私たちはどこで聞くでしょうか。礼拝なのです。私たちは名を呼ばれて礼拝に招かれ、礼拝で養われ、礼拝から遣わされて行きます。そのことを大事にして、礼拝者として歩んで行きたいと願うものです。

 

 

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

8月11日(日)のみことば

「災いだ、主を避けてその謀(はかりごと)を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。『誰が我らを見るものか、誰が我らに気づくものか』と。」(旧約聖書:イザヤ書29章15節)

「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマ書1章24節)

今日の新約の御言葉は、パウロが人間の罪について語った部分です。ここでパウロは人間の罪を創造との関わりで語っています。パウロは創造の御業を神の祝福として語っています。そして、その神様の祝福から遠く離れていくことを、パウロは「罪」と呼んでいるわけです。しかし、どうして人間は創造の恵みから遠く離れて行こうとするのでしょうか。その疑問を解くキーワードが、26節に出て来ます。

ここに「まかせられた」という言葉が出て来ております。「神は彼らを情欲にまかせられました」というふうに出ております。任せられるのですから、自由になることではないか。だったら結構なことではないかと思われるかも知れません。確かに日本語では「仕事を任せられる」とか「キミに一切をまかせる」などと言いますから、任せられるのは信頼されていることの証し。素晴らしいこと、嬉しいことではないかと思います。ところが、この「まかせられる」と訳されたこの言葉の元の意味は、じつに厳しいものがある。それはどういう意味かといいますと、「引き渡される」「廃棄する」という意味なのです。