聖書:創世記28章10~19節・エフェソの信徒への手紙2章3~10節

説教:佐藤 誠司 牧師

「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』」(創世記28章13~15節)

「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながらの神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたが救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソの信徒への手紙2章3~6節)

 

今日は創世記28章のヤコブの物語を読みました。大変有名なお話ですので、皆さんもよくご存じの物語だと思います。そこで、今日はヤコブに神様が言われたお言葉を、新約聖書との関係の中で、もう一度読み返すという視点に立って、御言葉を味わってみたいと思います。13節から、ご覧ください。

「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』」

いかがでしょうか。ここには条件というものが一切ない。いわば絶対の祝福をヤコブは受けたのです。しかも、ヤコブという人が模範的な清く正しい人だったから、この大きな祝福を受けたということではない。そもそもヤコブという名前は「かかとを掴む者」という意味がありました。変わった名前でしょう? どうしてそんな名前がついたかと言いますと、双子の兄弟がお母さんから産まれる時に、先にお兄さんのエサウが頭を出したのですが、そのあとからヤコブが出て来て、なんとお兄さんのかかとを掴んでいた。名は体を表わすと言いますが、ヤコブという人は、大きくなってからも、よく人の足を引っ張る。そういうところのある人物なのです。

こういうことがありました。お父さんのイサクが年をとって、もう目も見えにくくなった。イサクは長男のエサウを祝福しようとするのですが、ヤコブはお父さんの目がかすんでいるのを良いことに、お兄さんになりすまして、お父さんを騙し、お兄さんを出し抜いて、長男の祝福をだまし取る。そういうことを平気でやってしまう人なのです。

今日の聖書の箇所は、ヤコブがたった一人で野宿をしている場面ですが、それも、父親を騙し、兄を裏切ったがために起こった、いわば自業自得の境遇なのです。エサウは怒り狂って、ヤコブを殺すと誓います。これにはさすがにお母さんのリベカが心配して、ヤコブに「叔父さんの所に逃げなさい」と言って逃がしてやった。その孤独な旅の途中で、ヤコブは野宿をする。それが今日の物語の場面です。

でも、よりによって、どうしてこんな悪い奴の話が聖書に出て来るのか。ただ出て来るだけではありません。神様の大きな祝福を受ける人物として、いわば聖書の王道を往く人物として登場する。そして、その王道が、やがて新約聖書のパウロにまで影響を及ぼして行く。なぜなのでしょうか。

こういうことを考えてみては、いかがでしょうか。現代の私たちはインターネットも含めて、様々な報道機関・伝達機関が発達した世の中に住んでいますので、何かの話を聞くと、ああこれは、どこかの新聞記者かリポーターが調べて報道したのだろうとか、そういうふうに第三者の話として受け取ります。

ところが、旧約聖書に出て来る話には報道記者なんかいないわけです。じゃあ、どうしてその話が伝わって行ったかというと、みんな自分が経験したことを親から子へ、子から孫へと語り継いでいくわけです。

今日の話にしても、ヤコブが日記をつけていたわけではない。文章を書き残したのではないのです。初めに本人が「自分は若い日に、こういうことがあった」と話をする。次にその子どもが「おじいさんには、こういうことがあった」と我が子に話して聞かせる。そうして、だんだんに伝わって来た話が、それから何百年か経った後に、文字となった。聖書の元になった話が書き記されたわけです。聖書として編纂されたのは、それからずっと後のことです。ですから、文字となるまでは、ずっと口で語り伝えられてきたものです。それを一足一足たどって行きますと、最初に語ったのは、ヤコブ自身なのです。「私はこういうふうにして、お父さんを騙し、兄さんを裏切りました」と告白をした。普通だったら聞かれたくない話、触れられたくない痛みが疼く部分をさらけ出して語った。そして、それが聖書となって残ったのです。

こういうふうに考えますと、逆にヤコブが何を我が子や孫に伝えたかったかが分かってきます。それは、こんなに醜い私を、神様はこんなにも愛して、祝福してくださった。神様というお方は、こういうお方なのだという事を、自分を実例にし、証拠にして、子や孫に伝えようとした。ですから、今の私たちが、ヤコブみたいな悪い奴が聖書に出て来るのはけしからんと憤慨するのは、見当違いなわけけです。

そして、もう一つ考えておくべきは、神様の側のことです。神様はなんでヤコブのような人間をわざわざ選んで、こんなにも大きな祝福を与えられたのかということです。兄のエサウを祝福して、ヤコブを退けたというのなら、納得もします。ところが、実際はそうではなかった。父親を騙し、兄を裏切るようなヤコブを、なぜ神様は選び、祝福されるのか。じつは、この問いへの答えは旧約だけでは与えられない。新約聖書まで行って初めて解る問いかけです。さあ、なぜ神様は嫌われ者のヤコブを選ばれたのか。皆さんは、なぜだと思われますか。なぜ、神様は罪深いヤコブを選ばれたのか。それは、私たちを福音と出会わせるため、私たちに福音を本当に理解させるためなのです。そのための道具として、神様はヤコブを選んでおられる。このことをよく知っていたのは、皆さん、意外に思われるかもしれませんが、新約聖書に登場する使徒パウロなんです。ローマの信徒への手紙の9章10節以下を読んでみたいと思います。

「それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。」

何を言っているかと言いますと、神様の選びの計画は、人間の行いによらない。では何によるのかと言うと、神様ご自身の御心によるのだとパウロは言うのです。このことを、さらに突っ込んで語っているのが、今日読んだエフェソの信徒への手紙2章3節以下の言葉です。

「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながらの神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたが救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」

私たちは皆、肉の欲望の赴くままに生きていた罪人だったのだとパウロは言うのです。その罪にまみれた私たちが、恵みによって救われたのです。ここに、神様がヤコブのような罪人を選んで祝福なさったことの理由が隠されています。私たちは皆、罪人だった。もしヤコブが、その罪のために捨てられるならば、それはヤコブ一人のことではなく、私たちも皆捨てられるということです。ヤコブは私たちの代表なのです。そのヤコブを神様がどう扱われるかという事によって、じつは私たち自身が神様からどう扱われるかという事がハッキリします。私たちは、自分のことは、なかなか分かりません。他人のことは、よく見えます。ですから、人の歩みや人生を見る事によって、じつはそれは自分の事なのだと、身に染みて分かってくる。そして、そこに浮かび上がってくるのは何かというと、先ほどのエフェソ書が言うように「あなたがたが救われたのは、恵みによる」という事です。人間が救われるというのは、その人に見どころがあったからではない。その人が頑張ったからでもない。ただ、ひとえに神の恵みによる。この恵みの背後に、神様の愛と忍耐があるのです。

その事を現代に生きる私たちに示すために、神様は旧約の時代からすでにヤコブを通して証ししてくださっている。ですから、罪深いヤコブが神様に愛され、大いなる祝福を受けたというのは、キリストの福音の原型なのです。やがてイエス・キリストにおいてハッキリと示される罪人の赦しを、神様はヤコブを通して前もって語っておられるのです。

神様は罪を嫌い、憎まれるお方です。ですから神様は罪を「なあなあ」で済ませたり、水に流したりはなさらない。罪を嫌い、憎むというのは、罪を最後まで見逃さない、決着を付けるということです。その罪を神様はご自分の独り子に負わせて、決着をお付けになる。そういう事を、ヤコブを通して明らかにしようとしておられる。ですから、ヘンな話ですが、ヤコブの罪がいやらしければいやらしいほど、私たちは神の恵みの素晴らしさというものを、深く教えられるわけです。

とは言え、神様はヤコブのいやらしさを、そのままで良いとは思ってはおられない。「あなたは最後までいやらしい性格のままで良いですよ」とは言っておられないのです。神様はヤコブの全人生を捕らえて、ご自分の恵みを映し出す鏡として、徹底的に磨きをかけられる。鍛え上げられるのです。ですから、神様の恵みと祝福の内にあるというのは、ある意味、とても厳しい事です。人を騙したら、その人はどんなに辛い目に遭うか、ヤコブは考えたことがなかった。それを、神様は徹底的に分からせようとなさる。お父さんを騙し、兄を裏切ったヤコブが、今度は息子たちに騙され、裏切られて、騙されることの辛さ、苦しみを味わっていく。但し、ここで私たちが気をつけたいのは、これは古い日本的な因果応報のお話ではないということです。因果応報ではなく、神様がヤコブを鍛え、練り上げておられる。「決して見捨てない」と神様が言われたのは、そういうことなのです。ヤコブは息子たちに騙されて、初めて騙される者の痛み、苦しみを味わい、騙すことの罪深さを知って行きました。ですから、神様に選ばれた、祝福されたという事は、苦しみが全然ない、悩みがないということではない。むしろ、ある意味から言えば、世間一般の人よりも深い苦しみや悲しみを味わうことになるかもしれません。けれども、その悩み苦しみの中でも、神様は決して見放してはおられない。だから、その苦しみは無駄な苦しみではない。神様の恵みが滲んでいる苦しみなのです。

今年の7月、一人の牧師が天に召されました。私の親しい同級生でした。この人は最初の入院の時に「証しとなるような闘病生活を送りたい」と言いました。そのとおりの日々を、この人は送りました。ホスピスにおられる方や、末期のときを過ごしておられる方から、闘病中の牧師さんと伺い、祈ってほしいと言われたり、闘病と共に伝道牧会を続けている「今」を語って頂きたい、という依頼を受けました。すると、彼は副作用に苦しむそのままの姿で、依頼者のもとに行って、祈り、語りました。出かけることが叶わなくなってからは、主の日の御言葉の準備に全力を注いで、その準備の途中で、とうとう力尽きて召されました。

この人が遺したものは、この世の目から見れば、ほんの小さいものかもしれません。しかし、一人の信仰者が希望を持って福音に生きた事は、神様の大きな恵みの器であって、この人の命は無駄になることなく、必ず神様の栄光のために用いられると私は思います。

ヤコブという欠けの多い、ある意味いやらしい人間が選ばれたという事は、あの生涯を通して、いろんな悩みや苦しみを経ながら、神の恵みの下にある者がどんなに確かな救いを得ているかという事を、私たちに語っています。そしてそれは何もヤコブという特別な人間の事ではなくて、私たちが皆イエス・キリストにおいて、その恵みの選びの中に置かれている。その事に、私たちは目を開かれたい。目を開かれて、恵みの中を歩みたいのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

10月27日(日)のみことば

「わたしがお前と共にいて救うと主は言われる。」(旧約聖書:エレミヤ書30章11節)

「イエスは言われた。『わたしについて来なさい。』」(マルコ福音書1章17節)

今日の新約の御言葉にはマルコ福音書の特徴が非常に鮮やかに現れています。マルコ福音書は骨格だけを記す書物です。枝葉を語らない。最初の事実だけを書くのです。大事なのは、それだけです。誰かと出会ったとか、誰かに勧められたとか、そういうことではない。イエスというお方が私に向かって「私について来なさい」と言われた。これが大事です。

そして、この言葉を聞いた私がどう思ったかとか、どのように迷ったかとか、迷ったあげくに一大決心をしたとか、そういうことが重要なのではない。イエス様に従って行ったこと。これだけが重要です。だからマルコ福音書は、これだけしか書かないのです。ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネも、この主の招きに従っただけです。招きに応えた。ただそれだけです。それ以上のことでは決してない。何か偉いことをやり遂げたというのではないのです。