聖書:詩編144編3~4節・マルコによる福音書9章19~24節

説教:佐藤 誠司 牧師

「イエスは言われた。『「出来れば」と言うか。信じる者には何でも出来る。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』」(マルコによる福音書9章23~24節)

 

1月19日から使徒信条による説教が始まりまして、今日が六回目です。使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という言葉で始まります。それを少しずつ区切って学んでいますが、このやり方は丁寧な学びが出来る反面、問題点もあります。本来は一つである事を、区切ることによって、二つの事であるかのように錯覚してしまう。そこが問題なのです。先週は「父なる神」について学んで、今週は「全能の神」について学ぶわけですが、こうして区切りますと、神様が父である事と全能である事が別々の事のように思えてくる。しかし、使徒信条は「全能の父なる神」と一気に語っている。神様が全能である事と父である事は切り離すことが出来ない、一つの事だったのです。今日は、その事を心に留めていただいて、神の全能について聖書が語っている真理に耳を傾けてみたいと思います。

まず「全能の神」と言う場合の「全能」とは、何か。そこから入って行きたいと思います。「全能」という言葉は、読んで字の如く「すべての事を成し遂げる力」「不可能な事が無い力」という意味があります。ですから「全能の神」という言葉には、「私たちの神は無力な方ではない」という信仰の表明があるのです。素晴らしい言葉なのです。

ところが、実際に聖書を開いて見ますと、「全能」という言葉は、それほど多くは出て来ない。どうしてなのかなと思います。詩編には「全能」という言葉は比較的多く出て来ますが、その多くが賛美の言葉として出て来ます。これは注目すべき点だと思います。どうも詩編は、「全能」という言葉を賛美以外の目的で使うことに慎重なのです。なぜなのでしょうか。

これは、おそらく「全能」という言葉が持っている、ある種のきわどさに起因しているのかもしれません。先ほど言いましたように「全能の神」というのは、もともとは素晴らしい賛美の言葉だったのですが、その反面で、この言葉は人々の身勝手な期待を増幅させてきた言葉でもあります。「全能の神」とよく似た表現に「万軍の主」という言葉がありますが、この二つの言葉は両者相まって、敵を蹴散らしてユダヤの国に繁栄をもたらす神への期待を人々の心に募らせたのです。そして、本来は賛美の言葉であった「全能」という言葉を、いつしか「評価の言葉」に変えてしまった。そういう側面があるのです。

「評価」というのは自分が相手より上に立たないと出来ません。自分を相手よりも大きくすると、そこから評価の言葉が出て来ます。こんな素晴らしいことをやってくれたから、これは全能の神だとか、これをやってくれたら全能の神だなどと、いとも容易に言ってしまう。私たち人間は、いつでも自分の期待に応える力を持っているかどうか、神様の力を品定めすることがあります。私たちの期待に応える力を持つのが全能の神であると思っている。願いをかなえてくれたから、あなたは全能の神と呼ぶ値打があると判断する。これが評価の言葉です。

皆さんは、イエス様の十字架の周りでイエス様を嘲った人たちをご存じのことと思います。あの人々も、じつは「全能の神」を求めていた。ローマ帝国の圧政を蹴散らす全能ぶりをイエス様に期待していた。だから、彼らは、こう言いました。

「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。そうすれば、信じてやろう。」

これが評価の言葉の行き着く果てです。詩編はこれを警戒しているのです。そして詩編の詩人たちは「全能」という言葉を、あくまで賛美の言葉として使っている。これは大事なことです。

それでは人が神の全能に真の意味で出会う時、その人はどうなっていくのか。その一点を知るために、一つの癒しの物語を読んでみたいと思います。マルコ福音書の9章が伝える病気の息子を持つ父親の物語です。

イエス様は父親に、「その子を私のところに連れて来なさい」と言われる。父親が言われるままに我が子を連れて来ると、主エスが父親にお尋ねになります。

「このようになったのは、いつ頃からか。」

父親は答えます。

「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。お出来になるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

この父親の思いは、私たちにもよく分かります。これまで何度も医者にもかかり、まあ当時のことですから祈祷師にもかかったことでしょう。しかし、その度に、失望を味わった。その失望感から身を守ろうという思いもあったのでしょう。この父親は、つい「お出来になるなら」と言ってしまったのだと思います。

ところが、主イエスは、父親の思いを打ち消すように、こう言われる。

「『出来れば』と言うか。信じる者には何でも出来る。」

心の隙を突く、鋭い言葉であると思います。雷に打たれたようなという表現がありますが、おそらく、この時の父親ほど、この表現があてはまる例はないと思います。どうして雷に打たれたのか。全能の神に触れたからです。父親はあの主イエスの言葉の中に神の全能を見たのです。だから彼は、反射的に、こう答えました。

「信じます。信仰の無いわたしをお助けください。」

これは、じつに不思議な言葉です。「信じます」と彼は言ったのです。この言葉に偽りは無いと、私は思う。彼の中に信仰が生まれた瞬間です。ところが、「信じます」と言ったその直後に、彼はこう言ったのです。

「信仰の無いわたしをお助けください。」

私は、これも偽りの無い言葉だと思う。決して、謙遜して言った言葉ではないと思うのです。彼は主イエスの言葉を聞いた時、自分の中には信仰のかけらも無いことに初めて気が付いた。しかし、彼は「信仰の無いわたしを助けてください」と叫んだ。信仰の無い自分を発見した時に、彼の中に信仰が生まれたのです。どうしてそんなことが起こったのか。彼が真の意味で全能の神と出会ったからです。私は、この父親と主イエスの対話は、全能の神に対する信仰の秘密を語っていると思います。

もう一つ、全能の神と出会う物語といえば、どうしても外すことが出来ない物語があります。「神に出来ないことは何一つない」と処女マリアに天使が告げた。ルカ福音書の1章が伝える受胎告知の物語です。天使はガリラヤのナザレに住むマリアのところに来て、こう告げました。

「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。」

突然の来訪に、マリアは戸惑って、この挨拶は何のことかと考え込みます。天使はさらに続けます。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」

あなたは神から恵みをいただいた。これは正確に言うなら、あなたはすでに神の恵みに捕らえられているということです。本人すら知らない間に、すでに神の恵みがマリアを捕らえていたのです。しかし、それでもマリアは信じられない。彼女はこう言ったのです。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

マリアは正直に「信じられない自分」をさらけ出したのです。マルコ福音書の9章が伝えるあの父親と同じです。マリアは天使の言葉の中に全能の神を見たのです。その時、彼女は信じていない自分の姿を発見して驚いた。これもあの父親と同じです。最後に天使は決定的な言葉を告げます。

「神に出来ないことは何一つない。」

短い、しかし、決定的な一言です。この言葉が、ついにマリアを揺り動かす。自分の力だけで立つことの出来る世界から、神に支えていただかないと立つことの出来ない世界へと、一歩を踏み出すのです。そのとき、マリアの口から、本人すら予想だにしない言葉が出て来ます。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

本人すら予想しない言葉、思いもよらない言葉というものがあります。あとになって、こんな弱い私が、なぜあんなことが言えたのかと不思議に思う。そういう信仰の言葉を、皆さんも口になさったことがあると思います。

それは、自分の中から出て来た言葉ではない。外から与えられた言葉。さらに言うなら、全能の神様との出会いが与えた言葉です。マリアの場合が、まさに、そうでした。そして、あの父親の言葉も、そうでした。それは彼女がそれまでの生き方から、一歩、外へと踏み出したことの、しるしの言葉だったのです。

「私は主のはしためです」とマリアは言いました、「はしため」という言葉は今や死後になりましたが、これは「私はあなたの下に身を置きます」ということなのです。全能の神を主人として、その下に身を置くのです。そしてマリアは「お言葉どおり、この身になりますように」と言いました。これも全能の神との出会いが生み出した言葉、信仰の言葉です。

すると、マリアの口から歌が飛び出します。全能の神の御業に感謝して、賛美を歌うのです。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

マリアは「私の魂は主をあがめるのだ」と歌いました。これは大事なことです。なぜなら、主をあがめるというのは、信仰者の生き方の根本に関わることだからです。この「あがめる」と訳された言葉は、元々は「大きくする」という意味のあった言葉です。主をあがめる、神様をあがめるというのは、主を大きくすること、神様を大きくすることなのです。もちろん、これは自分よりも大きくするということです。自分を大きくして神様をあがめることは出来ません。全能の神への賛美が、ここにあります。評価の言葉とは、自分を相手より大きくすること、相手よりも上に置くことから生まれます。しかし、賛美の言葉は違います。自分を小さくして、全能の神様を大きくするのです。

今日のお話の初めのほうで、私はこう申し上げました。詩編には「全能」という言葉がたくさん出て来ますが、その多くが賛美の言葉として出て来る。どうも詩編は、「全能」という言葉を賛美以外の目的で使うことに慎重なのだと、そんなことを言いました。これは言葉遣いの問題ではなく、生き方の問題です。「全能の神」「神の全能」とは賛美されるべき事柄です。決して人間が評価すべき事柄ではない。だから、マリアは全能の神をほめたたえる賛美を歌います。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」

神の全能とは、神様はあれも出来る、これも出来ると指折り数えるところから生まれるのではありません。私たちの期待に応えるのが全能の神であると思うことが間違いなのです。そうではなく、私たちの神様は、父なる神として全能なお方なのです。父として子を愛するのに全能なのです。愛において全能なるお方です。だから、私たちも賛美を歌う。全能の父なる神様を心から賛美したいのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

2月23日(日)のみことば

「わたしはあなたの口にわたしの言葉を入れ、わたしの手の陰であなたを覆う。」(旧約聖書:イザヤ書51章16節)

「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外の誰にも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。」(新約聖書:使徒言行録11章19~20節)

これまで、ギリシア語を話すヘレニストのユダヤ人キリスト者が、いかに律法から自由な考え方であろうと、ユダヤ人の壁を越えて異邦人に御言葉を語ることはなかったのだと書かれています。ユダヤ人と異邦人との間に存在する壁がいかに大きなものであったかが、分かります。ところが、アンティオキアで、この壁が乗り越えられたのです。どうしてなのでしょうか? それは、一つにはアンティオキアという町のエートス・気風に、原因があると考えられます。「ギリシア語を話す人々にも語りかけ」という表現がありますが、この「語りかける」という言葉は「ぺちゃくちゃ話す」とか「誰にでも話しかける」という意味のある、本来はあまり良い意味の言葉ではないのですが、そういう言葉でルカはアンティオキアの人々の気質を表現したものと私は思います。これが、案外、現代の教会の気風を形づくっているのではないかと思います。