聖書:イザヤ書63章16節・ローマの信徒への手紙8章11~17節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、わたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマの信徒への手紙8章14~17節)
1月19日から使徒信条による説教が始まりまして、今日が五回目です。使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という言葉で始まることからも解るように、使徒信条は造り主である神を信じる信仰を、とても大事にしています。そこで、これまで、先週と先々週の二回の礼拝で造り主なる神を信じる信仰についてお話をしました。そして今日が「全能の父なる神」を信じる信仰についてお話をするわけですが、この分け方は、じつは一つの問題をはらんでおります。
これは日本語の特徴なのかもしれませんが、日本語は長い文章を分かりやすくするために、読点を用いて、一つの文章を二つに分けるということをします。そうしますと、分かりやすくなる半面、もともと一つであった事柄が、あたかも二つの別の事柄であるかのような印象を与えてしまいます。使徒信条の「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」というのが、まさにそうでありまして、使徒信条の原文には真ん中に「・」は無い。「天地の造り主」と「全能の父なる神」は直につながって、一つのことを語っている。全能の父なる神を信じる信仰は、天地の造り主を信じる信仰を含んでいて、一つのものになっているのです。ただ「天地の造り主」と言うだけでは今いち明確になってこない、神と私たちの関係をクローズアップして語っているのが「全能の父なる神」ということです。譬えて言えば、俳優の芝居を2台のカメラが異なるアングルで撮って、それを編集したようなものです。
神様を父と呼ぶ。考えてみれば、不思議なことです。中でも私が不思議に思いますのは、キリスト教と初めて出会った明治時代の日本人キリスト者たちが、よくこの信仰を受け入れたことです。実際、遠慮深く、謙譲の美徳を重んじる彼らは、神様が父なのだと聞いて、もったいない、恐れ多い、滅相も無いと口々に言ったそうです。そんな彼らが、どうして神を父と呼ぶ信仰を受け入れたのか。これについては、いくつかの証言が残されていますが、彼らは宣教師たちが祈りの中で神様を父と呼び、幼子のように喜んで祈る姿を見て、大きな衝撃と深い感銘を受けたのです。こうして明治の日本人キリスト者たちは神を父と呼ぶ信仰を受け入れたのですが、この信仰を受け入れ、告白するうちに、彼らは、もう一つの大きなことを受け入れることを迫られました。それは、神を父と告白する信仰は、それと同時に、自分を神の子だと信じ、受け入れる信仰でもある、ということです。
もちろん、私たちは生まれながらに神の子であったわけではありません。生まれながらの神の御子はイエス様お一人です。私たちは神の子にしていただいたのです。マタイ福音書の28章に、復活されたイエス様がマグダラのマリアに「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」とお命じになる場面があります。弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼んでおられる。これはどういうことかと言いますと、神の独り子であるイエス様が、神様の長子、すなわち長男になってくださって、弟子たちを弟として迎えてくださった。弟子たちが神の子たちとなれるよう、道を開いてくださった、ということです。
今日読んだローマの信徒への手紙8章15節に、こう書かれています。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、わたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」
振り返ってみますと、私たちは自分が育った日本的な精神風土に影響されて、神様という存在に、どこか恐れを抱いて生きていたのではないかと思います。「ああしたら怒られるだろうか、こうしたらいいだろうか」と、奴隷というのはいつも主人を恐れ、おののいている。やりそこなったら叱られる、鞭で打たれる。だから主人を恐れているのです。これが奴隷の霊です。
14節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」という印象的な言葉があります。聖霊に導かれている。それが神の子なのです。その聖霊の導きによって与えられている心の思いとは、どういうものでしょうか。それは、事あるごとに自分は駄目なんじゃあないかとビクビクしている奴隷の霊ではない。奴隷というのは、どんなに大きな権限を与えられていても、いつ自分の身に危険が及ぶかも知れません。
創世記のヨセフ物語で、エジプトに渡ったヨセフがポテファルという役人の家で、主人から絶大な信頼を得まして、大きな権限を委ねられました。これは大変な出世です。ところが、その直後、ヨセフは、どうなったでしょうか。ヨセフは何も悪いことをしていないのに、主人ポテファルの奥さんがヨセフに良からぬ思いを抱いて、言い寄って、肉体関係を迫ってきます。ヨセフがこれを断りますと、奥さんは逆恨みをしまして、あのヨセフは奴隷の分際で私にみだらなことをしようとしたと夫に訴えます。この讒言によって、ヨセフは、たちまち牢屋に入れられました。
どうして、取り調べもなく、裁判もないまま、いきなり牢屋に入れられたのでしょうか。奴隷だからです。奴隷というのは、いつ、どんな危険が及ぶか全く分からないし、知らされてもいない。それが奴隷の奴隷たる所以です。
ところが、神様と私たちの関係は違います。聖霊に導かれて、今や私たちは神様の子どもとされている。もう私たちは、奴隷ではない。この聖霊の導きについて、パウロは15節の後半にこう書いています。
「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」
「お父さん」と神様に向かって言える。どんなことでも遠慮せずに訴えることが出来る。奴隷が人前で話す時のように、言葉を選んで本心を隠す、なんてことはもう要らない。辛いなら辛いと言い、悲しかったら泣けば良い。助けが必要なら「助けてください」と叫べば良い。そして私たちが「ああ、そうだ。私は神様の子どもなのだ」と気が付く。それは、じつは私たちの中で生きて働く聖霊の実りなのです。そして最後の17節です。
「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」
ここに「神の相続人」という言葉が出ております。私は、今までこの言葉を何気なく読み過ごしていたなあと改めて思います。と言いますのも、これは、とてつもない大きな恵みを言い表した言葉なのです。神様の相続人なんです。その神様とは、どういうお方ですか? そう、世界を創造し、歴史を支配しておられる全能のお方です。そのお方の相続人なのです、私たちは。凄いでしょう。だって、私がこの世にいるということを知っている人は、この世界にほんのわずかしかいません。世界中の人は誰も知らない。しかし、その私が神の相続人に指名されているのです。神様が世界を支配しておられる。その御業に、この小さな私が参与している。なんということでしょうか。しかも、これは能力の問題ではない。体が弱いから駄目とか、病気がちだから、あなたは駄目とか、そういうことは絶対にない。私たちは神の相続人とされている。恵みの相続人です。
キリストを信じる私たちが受けている霊は、恐れの中に私たちを引きずり込むような霊ではない。じゃあ、どういう霊を私たちは受けたのか。それは、天地の造り主である神様、私たちを愛し、私たちの人生を支配しておられる全能の神様が私の父なのだと、そういうことを腹の底から信じることの出来る、そういう霊が私たちの中におられる。それが聖霊です。この聖霊によって、私たちは神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るのだと言われています。
神を父と呼ぶ信仰は、まことに幸いな信仰の道を開いていきます。しかしながら、ここで間違ってはならないことが、一つ、あります。これは近年のジェンダーの問題、性差別の問題を背景にしていると思われますが、「父なる神」と呼ばずに、「親なる神」とか「父母なる神」と呼ぶ人たちがクリスチャンの中にいます。
その人たちの考えは、こうです。キリスト教は神様を父と呼んでいる。しかし、これはおかしい。人間には父だけではなく、母もいる。父なる神と呼ぶキリスト教は偏っている。それに対して、日本古来の宗教心は母性のやさしさを大切にしてきた。だから、これを補って「父母なる神」「親なる神」と呼ぶべきではないかと、そのように主張するのです。
しかし、これは間違いです。どこが間違っているでしょうか。この考えは、真実に神様を父と呼んだことのないところで考え出された理屈に過ぎません。少なくとも、これは信仰の言葉ではない。世間一般で常識になっている父理解の上に引き寄せて、常識の物差しで父としての神を論じている。そこが問題です。
もう一つ、父なる神について、最近よく言われることに触れておきたいと思います。これは先ほどの「父母なる神」よりは、ずっと真面目な議論ですが、礼拝のさいごにある祝祷の言葉について、こういうことが言われます。祝祷の言葉は「主イエス・キリストの恵み」「父なる神の愛」そして「聖霊の交わり」とつづくのですが、これは本来「父」「子」「聖霊」の順番になるべきではないかと言われるのです。なるほどと思いますが、あの祝祷の言葉はパウロが書いた第二コリント書の最後の言葉に拠っている。そパウロの思いとしては、まずキリストの恵みが来る。キリストの恵みによって、私たちは神の愛を知り、聖霊の交わりをも知っていくのだという理解があってのことでしょう。
いずれにしましても、イエス様というお方の凄いところは、神様を呼ぶための一番良い言葉として「天の父」という言葉を教えてくださったことだと私は思います。当時のユダヤ人、特に信仰の指導者と言われていた律法学者たちは神様を「いと高き神よ」などと、厳かに呼んでいました。それに対して、イエス様は神様を「父」と呼べとおっしゃった。しかも、この「アッバ」というのは、当時の小さな子どもが父親に向かって呼びかける「お父さん」「お父ちゃん」という子どもの言葉なのです。
しかも、これは言葉の上だけのことではない。神様と私たちとの関係です。私たちが神様の子どもとされている。これは凄いことです。
主イエスが語ってくださった譬え話に「放蕩息子の譬え」があります。父のもとから遠く離れて放蕩に身を持ち崩した息子を、待ちわびていたのは、あの父親でした。父親から受け継いだ財産をすべてを失って、つまり、あの父の息子である資格をすべて失って、息子は帰って来ます。息子は何と言ったか。こう言ったのです。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」
しかし、父親はこの資格の無い息子を、徹頭徹尾、息子として愛します。息子と呼ばれる資格の無い者に資格を与える。愛し抜くのです。そして父親は言いました。
「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ。」
これが私たちの姿です。私たちは、失われていたのを見出され、贖い取られた神の子です。キリストにあって、神の子とされ、御国の世継ぎとされている。この恵みの重みを、いささかも取りこぼすことなく、しっかりと受け止めたいと思います。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
2月16日(日)のみことば
「娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。」(旧約聖書:ゼカリヤ書2章14節)
「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(新約聖書:ルカ福音書24章52節)
今日の新約の御言葉は、ルカ福音書の結びの言葉です。聖書の原文も最後は「神をほめたたえていた」という言葉で終わっています。主イエスは手を挙げて弟子たちを祝福し、弟子たちは神をほめたたえた。ルカはどうしてもこの構図で福音書を締め括りたかったのでしょう。ところで、聖書の原文を見ますと、興味深いことに、主イエスが弟子たちを「祝福した」ことと、弟子たちが「神をほめたたえていた」ことが、ちょうど対になって出てくると言いますか、呼応した関係になっていることが分かります。
じつを言いますと、主イエスが弟子たちを祝福なさった。この「祝福する」という言葉と、弟子たちが神を「ほめたたえた」という言葉は、聖書の原文では全く同じ言葉が使われております。それを日本語に翻訳する際に、人間である弟子たちが神様を祝福したというのは、どうも違和感がありますので、「ほめたたえた」と訳したのです。しかし、ほめたたえるという翻訳も、祝福するという翻訳も、じつはいずれも意訳でありまして、この言葉の本来の意味は「よい言葉を語る」ということなのです。