聖書:創世記6章17節~7章5節・マタイによる福音書4章1~4節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったのを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』しかし、ノアは主の好意を得た。これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」(創世記6章5~9節)

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ書8章22節)

 

主の年2025年が明けて、初めての主日を迎えました。この日、私たちに開かれている御言葉は創世記が語るノアの物語です。よく知られた物語ですが、この物語が私たちの信仰に対してどういう意味を持っているかということは、あまり考えてみたことがないのではないかと思います。旧約聖書をイエス・キリストを指し示す文書として読むというのが、私たちキリスト教会の基本的な考え方です。そこで今日は、ノアの物語をキリストを証しする書物と捉えて、そこから福音のメッセージを読み取っていきたいと思います。

ノアの洪水の物語を読んで、まず気が付くのは、この洪水は人間の罪に対する神の裁きとして起こったということです。人間の罪のせいで、世界とそこに生きる被造物が犠牲になった。つまり、被造物は、人間が受けるべくして受けた裁きの、いわばとばっちりを受ける形で、滅びたわけです。

この世界をどう見るかということは、私たちが救いの問題を考える上でとても大事な基本です。パウロはローマの信徒への手紙の中で、神が創造されたこの世界は、本来は神の祝福のもとにあったのだが、人間の罪のために神の怒りの下に置かれていると語りました。パウロはそこに、キリストが来られなければならなかった理由を見出すのですが、同じようなことを、ノアの物語も語っています。6章の5節以下を読んでみます。

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったのを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』」

この世界は滅ぶべき世界であるとハッキリ言われています。これがノアの物語の土台になっていることです。このままでは滅びるしか道はない。そういう前提に立って、物語はここから一つの救いを語っていきます。ノアという人物が現れるのです。6節に、こうあります。

「しかし、ノアは主の好意を得た。」

私たちはノアの物語をよく知っていますので、ノアだけが正しい人で、主の好意を得たと聞いても、さして不思議には思いませんが、よくよく考えてみると、不思議なことですね。みんなが悪い人なのに、どうしてただ一人、ノアだけが正しい人なのか。これを私たちは、どう読めば良いのか。旧約聖書には、ところどころ、救い主の姿が象徴的に描かれたところがあります。例えば皆さん、ご存じのイザヤ書53章の「苦難の僕」の歌。あれを読みますと、十字架に向かって歩まれる主イエスのお姿が目に浮かびます。ノアという人物も、同じように、キリストのお姿を指し示しているのではないかと思います。

ですから、創世記はノアの人物像をあまり語っていません。非常に簡潔なのです。例えば、9節のノアの描写はどうでしょう。

「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」

この「無垢な人」というのは、少々問題のある翻訳かもしれません。以前の口語訳聖書はここを「全き人」と訳していましたし、最新の聖書協会共同訳聖書も「全き人」と訳しています。「全き人」というのは、言い換えますと「完全な人」ということです。こちらが正しい訳だと思います。

しかし、「完全な人」と聞いて、そんな人が果たして存在するのかと訝しく思われるかもしれません。確かにこの世に「完全な人」など、一人もいないと私も思います。

ところが、イエス様はマタイ福音書5章のいちばん終わりのところで、弟子たちに、こう言っておられる。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

イエス様は弟子たちに「完全」であることを求めておられるのです。そう聞きますと、私たちは、なんとなく意気消沈すると言いますか、イエス様もやっぱり100点満点を求めておられるのかと思ってしまいますが、よく読んでみますと、そうではないことが分かってきます。今、私は「100点満点」と言いましたが、私たちが普通に考える「完全」というのは、100点満点のことだと思います。ですから、95点はもう「完全」ではない。これは「完全」ということを量の面で考えている、ということです。

ところが、イエス様が求めておられる「完全」は、そういうことではない。量ではなくて、質の問題、しかも生き方の質のことなのです。このノアの場合も、そうでありまして、ノアが全き人であった、完全な人であったというのは、何もノアが100点満点の優等生であったということではなく、生きていく姿勢がほかの人たちと全く違ったということです。どういうふうに違ったかと言いますと、6章の最後のところに、こう書いてあります。

「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」

また同じ言葉が、7章の5節にも出て来ます。この短い間に、二度も繰り返されているということは、この事が、まさにノアの生き方を一口で言い表す大事な言葉だったということです。ノアはすべて神様が言われるとおりにした。これがノアが完全な人であったということの中身です。さらに7章1節には、こう書いてあります。

「主はノアに言われた。『さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。』」

今日の礼拝で、私たちに示されているのは、このノアという人を、キリストをあらかじめ指し示す人物として捉えて、そこからイエス・キリストの歩みを振り返ってみるということです。その時に、真っ先に思い浮かぶのは、マタイ福音書の4章にある「荒れ野の誘惑」の出来事でしょう。

40日40夜、断食をして祈っておられた主イエスが、さすがに空腹を覚えられた。そうしますと、悪魔がやって来て、「おなかがすいていては十分なことは出来ないでしょう。あなた神様の独り子なんだから、その力をもって石をパンに変えて、腹ごしらえをしたら、どうですか」と言い寄って来た。これは人間の常識からすれば、何の問題もない、むしろ当然のことのように思います。私たちだったら、「ああ、それもそうだな、じゃあ腹ごしらえしてから頑張ろうか」と考えます。それが普通の人間の考え方でしょう。

ところが、イエス様は何と言われたかというと、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と言われた。神様が言われるとおりに生きるのだと、イエス様はハッキリ言われたのです。

そして、フィリポ・カイザリアで主イエスが御自分の受難についてお語りになった時、弟子のペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って、イエス様をいさめたことがありました。このペトロの言葉も、人間の常識から言えば、真っ当な言い分です。ところが、主イエスはペトロに「サタンよ、引き下がれ。あなたは神の事を思わず、人の事を思っている」と言われました。そして、自分は神様の示される道を行くのだと言われた。そして、最後にあるのが、ゲッセマネの祈りです。

「父よ、御心ならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、御心が成るようにしてください。」

この祈りに、主イエスの歩みのすべてが凝縮されていると思います。この救い主の姿が、旧約のノアの生き方の中に芽生えていると思います。ノアは、来るべき救い主の予告のような存在だったのです。

ノアは神様がお命じになったとおりに箱舟を造ります。その時、神様が言われた言葉が6章の17節以下に記されています。

「見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。」

ここに、箱舟に入る人、救いに入ることの出来る人たちが誰なのかが記されています。ここでちょっと考えていただきたいことがあります。ノアは確かに神に従う正しい人だったわけですが、ノアの家族はどうだったでしょうか。ノアの家族。それは必ずしもノアのような神様に忠実な人たちではなかったと思います。それなのに、どうして、ノアの家族がノアと一緒に救われたのでしょうか。考えてみれば、不思議ですが、私はここに、キリストによる救いの、一つの象徴を見ることが出来ると思うのです。

使徒言行録の16章に、パウロとシラスがフィリピの町で投獄された時、牢獄の看守とその家族にバプテスマを授けるお話が出て来ます。あの時、看守はパウロたちに「先生方、救われるためには、どうすべきでしょうか」と尋ねました。すると、パウロが即座に、こう答えました。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

そして、看守は、自分だけでなく、家族と共にバプテスマを受けて、神を信じる者になったことを家族ともどもに喜んだと書いてあります。あれも、信じたのは看守一人だけでした。しかし、これはただの一人ではない。一人がキリストを信じてキリスト者になるというのは、家族全員が救いに与るということです。しかも、それは血縁による家族ではない。キリストが新しい絆となって、神の家族を誕生させる。その神の家族の原型が、あの箱舟に入ったノアとその家族たちだったのです。

さらにノアの物語を見て行きますと、人間だけではなく、動物たちが皆、箱舟に入っています。なんだか御伽噺のようで、ここは幼稚園の子どもたちも大好きなお話ですが、私は、これは大事なことが言われていると思います。パウロはローマ書の8章で、こういうことを言っております。

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる。」

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っている。」

そのうめき苦しんでいる被造物は、人間が救われて神の子として出現するのを苦しみながら待っているのだとパウロは言うのです。そして神様はノアとノアの家族を救う時に、いろんな動物たちを一緒に入れられた。どういうことかと言いますと、この動物たちは世界を表している。神様は古い世界を滅ぼすと共に、新しい世界を造ろうとしておられるのです。

そして、この先を読み進めていきますと、神様は清い動物だけでなく、清くない動物も見捨てることなく、箱舟に受け入れておられることが書いてあります。これはとても含蓄の深いことだと思います。これは動物の事だけを言っているのではないからです。

使徒言行録の10章に、ペトロとローマ人コルネリウスの出会いの物語があります。あそこに「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という言葉が出て来ます。あれも動物のことを言いながら、じつは人間のこと、神を知らない異邦人のことが言われている。こういうふうに読んで行きますと、ノアの物語はキリストによる救いを象徴している物語として読むことが出来ると思います。

「ノアは神と共に歩んだ」と言われています。これまでお話してきたように、これはノアが特別に優秀だったから、神と共に歩むことが出来たということではありません。私たちが神と共に歩むためには、神様が私たちの所へ来て、私たちの歩みと歩調を合わせてくださる。そういうことが、どうしても必要になってくる。幼い子どもと一緒に歩く時には、誰もが子どもの手を取るでしょう。手を取って、子どもに歩調を合わせます。黙って歩きはしません。愛の言葉をかけながら、共に歩む。それを成し遂げてくださったのが、私たちの主イエス・キリストです。

共に歩むというのは、ただ単に歩くことを言っているのではありません。全能の神様が人間として地上に生まれてくださった。私たちと同じように悩み、苦しみ、喜び、悲しんでくださった。歩調を合わせてくださったのです。「私はあなたと共に歩むために来たのだから、私と一緒に歩みなさい」と声をかけてくださる。共に歩むとは、そういうこと。人生を共に歩むことです。今日は創世記のノアの物語をとおして、そこに秘められているキリストの救いの御業をご一緒に味わいました。主の年2025年が明けました。この年も、主イエスと共に歩んでいきたいと心から願います。

 

 

 

 

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

1月5日(日)のみことば

「すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。」(旧約聖書:詩編18編31節)

「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」( 新約聖書:マルコ福音書1章31節)

ペトロの義母の癒しが語られています。何気ない表現ですが、大事なことが語られています。この「手を取って起こす」というのは、手を引っ張って無理やり起こすということではない。敬愛するイエス様が見舞いに来てくださった。その姿を見て、この母親は自ら起き上がろうとしたのです。イエス様は、起き上がろうとする母親の手を、そっと取られた。そして、彼女はイエス様に手を取ってもらって、起き上がった。すると、熱が去っていたのです。

熱が下がったから起き上がったのではないのです。イエス様に手を取ってもらって起き上がった。すると熱は去っていた、そんなニュアンスです。この「起き上がる」という言葉は、新約聖書の中では特別に大切な言葉です。ただ単に身を起こすということではない。それまでこの人を捕らえていた悪い力から解き放たれて、立ち上がる。健やかに立ち上がる。そういう意味のある言葉です。