聖書:イザヤ書52章7~10節・ルカによる福音書2章22~38節
説教:佐藤 誠司 牧師
「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。」 (イザヤ書52章7節)
「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。(中略)シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』」 (ルカ福音書2章25~32節)
2024年最後の主日を迎えました。ルカ福音書の2章が伝える老人シメオンの物語を読みました。ここは昔から一年の終わりの主日礼拝で読まれてきた物語です。一読して、疑問に思われた方もあるかもしれません。生まれたばかりの幼子イエスがエルサレムにおられることです。幼子イエス様がどうして、はるばるエルサレムまで行かなければならなかったのでしょうか。こう書いてあります。
「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主にささげるため、エルサレムに連れて行った。」
清めの期間と書いてあります。これはどういうことかと言いますと、律法によれば、女性が出産すると、40日の間は汚れているとされたのです。
その40日の期間が明けますと、女性はささげものを用意して、神殿の祭司から清くなったことを宣言してもらうのです。そのささげものは、本来は羊であったようですが、貧しい人の場合は山鳩、あるいは家鳩のつがいで勘弁してもらえたようです。24節にまさに「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽」と書いてありますから、ヨセフとマリアが貧しい夫婦であったことが分かります。
でも、それなら、神殿に行くのはヨセフとマリアだけでも良かったはずです。どうして幼子イエスを伴って行かなければならなかったのか? 律法に、もう一つの規定があったからです。23節にこう書いてあります。
「それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。」
ユダヤでは、長男は本来、神様のものとされたのです。それで、長男は神にお返しする。具体的にいえば、長男を神殿に仕える祭司にするのです。
ところが、そうしますと、どこの家にも長男がいなくなる。跡取りが無くなってしまいます。そこで、父親と母親は長男を連れて神殿に詣でて、幼子を一度、祭司の手に委ねるのですが、そのあと、長男を祭司から返してもらう。そのために両親は長男の命の代価を献金としてささげた。つまり、両親は自分たちの長男を代価をもって贖い戻したのです。
さらに言いますと、両親のもとに贖い戻された長男の代わりに祭司となって神殿に仕えたのがレビ人といわれた人たちなのです。ですから、レビの一族はユダヤのすべての家の長男の身代わりになって神殿に仕えたということで、両親がささげた代価はレビ人の生活を支えるために神殿からレビ人たちに支給されたのです。
こういう事情のあったことですから、このとき、ヨセフとマリアは貧しい中から幼子イエスを贖い戻すための代価を携えていたはずです。代価を祭司に支払ったはずなのです。
ところが、今日の物語には、どこを探しても代価は出てきません。そればかりか、祭司も出て来ないのです。どうしてでしょうか? 羊をささげることが出来ずに、山鳩や家鳩で勘弁してもらわなければならないような貧しい親子に目を留める祭司は一人もいなかったのかも知れません。
実際、当時の神殿というのは、私たちから見れば、神様を礼拝する場というより、儀式が行われる場であり、祭司たちは莫大なささげものをする金持ちの周りを我先に取り囲んで、貧しい人々に目を留めることは少なかったようです。祭司たち、とりわけ、上級の祭司達は事実上の貴族階級であり、その中でもサドカイ派と呼ばれる人々は後に主イエスと鋭く対立していくことになる。サドカイ派から出た大祭司や祭司長たちが主イエスをピラトに訴え出ることになるのです。
ですから、このとき、貧しいヨセフとマリアに目を留めた祭司はいなかったと思われる。しかし、祭司に代わって幼子イエスを腕に抱いた人物があった。それがシメオンという名の老人です。25節にこう書いてあります。
「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」
いかがでしょうか? ずいぶん詳しくシメオンについて語っています。これだけを見ても、シメオンがこの福音書のなかで重要な位置を占める人物であることが分かります。どうしてシメオンが重要人物なのか?
じつはシメオンと言う人は、主イエスの使命を見抜いた最初の人物なのです。そして彼は主イエスがどのような生涯を生き、どのような死に方をするのかを見抜きます。聖霊によって見抜くのです。
シメオンは幼子イエスに目を留める。そして、まるで祭司が幼子を神にささげるようにして、幼子イエスを腕に抱き上げた。そして神を賛美して、こう言うのです。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
シメオンは、今こそあなたは安らかに私を去らせてくださると言って、神に感謝をささげているのです。やっと死ねると言っているのでしょうか? 違うと思うのです。シメオンが口にした「去らせてくださる」という言葉。これは世を去るというよりも「移って行く」という意味合いの濃い言葉です。この地上から別のところへと移って行くのです。どこへと移って行くのでしょうか? そう、天にある故郷へ、神の御許へと移されて行く。だから、シメオンは喜んで感謝をささげるのです。
日本でもターミナル・ケアというものがよく知られるようになりました。「末期医療」などというふうに呼ばれていますが、じつはターミナルという言葉には本来「末期」という意味はありません。末期ではなくて、「境目」という意味なのです。つまり、この地上の生活、地上の命から、別の所へと移って行くその境目に、本当の平安と救いの確信を与えて送り出そうというのが、本来のターミナル・ケアだったのです。
今、シメオンがたどろうとしているのが、その道です。彼は救い主を見るまでは決して死ぬことはないと聖霊の約束を受けていたのです。ということは、救い主と出会ったとき、彼は本当の平安と救いの確信を与えられて、地上の生活から天にある故郷へと居場所を移して行くのです。
ですから、今、シメオンが口にしている言葉は彼の遺言でもあります。シメオンの遺言。それは救い主と出会ったことの証しの言葉になりました。これを読みますと、シメオンが聖霊によって見抜いた救い主の姿が鮮やかに浮かび上がります。彼はこう言ったのです。
「わたしはこの目であなたの救いを見た。」
シメオンは、この幼子こそ救いだと言ったのです。この幼子の存在そのものが救いなのだ。この幼子の体、この体に流れている血潮、そしてこの幼子に宿っている心。そのすべてが救いなのだとシメオンは言うのです。
しかも、この救いは神が万民のために整えてくださった救いです。万民のための救いという言葉が、ここで初めて登場します。万民とは、すべての民ということです。ユダヤの民だけではない。民族の壁を越えて、すべての民に整えられる救いです。それをシメオンは次のように言い表します。
「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ。」
この救いは、どのようにして、すべての民にもたらされるのか? じつは31節でシメオンが口にした「整える」という言葉。以前の口語訳聖書では「備える」という翻訳になっていましたが、この言葉は大祭司が人々の罪を贖うための犠牲として動物を用意する。傷の無い羊を用意する。そのときに用いられる言葉なのです。つまり、シメオンは、こう言ったことになります。
「これは、あなたが万民のための犠牲として備えてくださった救いで、異邦人をも照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
ヨセフとマリアは驚いたに違いありません。すると、シメオンは彼らを祝福して、母マリアに向かって言います。
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
これは、明らかに受難予告です。のちに成人なさった主イエスが弟子たちに何度もご自分の受難を予告なさいますが、それよりもはるか前に、シメオンは幼子の受難を予告している。しかも、異邦人にも及ぶ万民のために成し遂げられる救いとして予告しているのです。あなたは母として、剣で心を刺し貫かれるような思いをするであろう。
しかし、その出来事は多くの人を倒れさせるだけでなく、やがては倒れたその人を立ち上がらせる。これは十字架そのものを予告する言葉です。多くの人たちが十字架につまずくのです。弟子たちすべてがつまずきました。しかし、主の十字架が私の罪を赦して、私をまるごと贖い取るためであったと知ったとき、彼らは立ち上がることが出来た。立ち直ったのです。弟子の一人であるペトロに向かって言われた主イエスのお言葉を思い起こします。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
立ち直るとは、一度倒れた人が、引っ張り上げられて立ち上がることです。この幼子は、やがて多くの人を倒れさせ、立ち直らせるであろう、とシメオンは予告したのです。
さて、ここに、もう一人の人物が登場します。アンナという名の女性です。女預言者であったと書かれています。若いときに嫁いだけれど、たった7年間夫と共に暮らしたあと、死に別れて、84歳になっていた。住む家も無かったのかも知れません。
しかし、彼女は希望を持って生き抜いた。彼女も救いを見るために、毎日神殿に来ていたのです。しかも、彼女が待ち望んだ救いというのは、エルサレムから始まる救いだったのです。古くから、救いはエルサレムから来ると信じられていました。今日読んだイザヤ書52章の言葉もエルサレムから世界へと及ぶ救いを預言したものです。
「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。」
イザヤがこのように預言したことは、やがて主イエスの歩みによって成就されていきます。シメオンの腕に抱かれた幼子は、じつはこのとき、すでに神にささげられたのです。万民のための犠牲の供え物として、ささげられた。そしてこの救いはエルサレムから始まって、異邦人を照らし、やがて私たちのところまで来てくださった。主イエス・キリストというお方は、そういうお方です。今、私たちは、このお方を救い主と信じて礼拝をしています。罪の赦しという救いをしっかりと受け取り、心からの感謝をささげる礼拝です。そのような礼拝が、ほかにあるでしょうか? 私は無いと思うのです。シメオンはそのような礼拝をした最初の人になりました。そして彼は私たちの先駆けになりました。犠牲をささげるのではなく、救いを受け取り、感謝をささげることが礼拝となった。今日の物語は、そういう私たちの礼拝の原点を示すものです。一年の最後に、このことが示されました。これはとても大きなこと、幸いなことだと思うのです。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
12月29日(日)のみことば
「人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。」(旧約聖書:詩編33編15節)
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになりなさい。」(新約聖書:ローマ書12章2節)
今日の新約の御言葉は示唆に富む御言葉です。自分を変えていただくとか、何が神の御心であるかを弁え知るというのは、大事なことだと思います。しかし、その大事なことが、どのようにして起こってくるかと言うと、「心を新たにすることによって」と書いてあります。この「心を新たにする」の「心」と訳されている言葉は、じつは「知性」という意味のある言葉です。信仰というと、私たちは知性とは違う、情熱的な熱い心、感情とか熱心ということを連想しますが、パウロはそうではなくて、むしろ「知性が新たにされる」ことが大事なのだと言っています。
知性というのは、ものの道理を考え、判断する働きのことです。信仰生活というものは、ちゃんと目を覚ましてものを考え、受け取り、判断をする。そういうことが私たちの信仰生活の中で必要になってくる。そうでないと、信仰そのものがヘンな方向に迷ってしまう。この世に倣うようになってくる。だから、知性を新たにすることが、どうしても必要になってくるのです。しかも、その知性というのは、世俗の知性ではない。礼拝という霊的な営みの中で、聖霊が働いて造り変えられる。すると、ものの見方や考え方が変えられていく。これがパウロの言う知性です。