聖書:士師記7章2~7節・マタイによる福音書26章52節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主の御使いは彼に現れて言った。『勇者よ、主はあなたと共におられます。』」(士師記6章12節)

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」 (コリントの信徒への手紙二4章7節)

 

待降節の第三の主日を迎えました。この日、開かれている御言葉は、旧約の士師記第7章のギデオンの物語です。どうしてこの物語を選んだかと言いますと、私たちの人生には様々な問題や災難が起こってきます。そんな時、皆さんはどういうふうに行動を起こされるでしょうか。おそらく、多くの人は一生懸命に解決に向かって努力をします。自分で解決できない時には、人に助けを求めます。病気だったらお医者さんに相談しますし、法律の問題なら弁護士を頼りにします。

しかし、それでもダメだったら、どうでしょう。「これだけやってもダメだったのだから、諦めよう」ということになるでしょうか。まあ、これが普通の人の生き方だと思います。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。一生懸命にやった。あとは天命を待つばかりだというふうに使います。これは、もとは昔の中国の漢詩の言葉だそうですが、日本でこの言葉が有名になったのは、1910年、広島湾沖で起った潜水艦の沈没事故によります。潜水艦は潜航中に事故に遭い、なんとか浮上しようと、あらゆる手立てを尽くしたのですが、どうしても浮上出来ずに、全員が死亡しました。この潜水艦の艦長は佐久間勉という人物ですが、彼は潜望鏡から漏れるわずかな光で沈没までの2時間40分の記録を詳細に手帳に書いていた。艦が引き上げられた時、佐久間の胸ポケットからこの記録が発見されました。その最後に記されていたのが、この言葉です。佐久間はクリスチャンでしたから、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を記しながらも、神様の御手に委ねるという信仰をもって、この人は亡くなったのでしょう。ところが、佐久間の行動が世間で称賛され、修身の教科書に掲載されるに及んで、彼がキリスト者であったことが抹消されて、あの言葉も「一生懸命にやったんだから、あとは運命だ」というような感じで使われるようになりました。まあ、それが一般の人の生き方であろうと思います。

しかし、信仰を持って生きる者にとって、行き詰まりとか絶望というのは、じつは非常に大事な時です。使徒パウロが書いたコリントの信徒への第二の手紙の中に、こんな言葉があります。

「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」

人間の常識から言えば、もう絶望しかないと思われる時が、神様を信じて生きている者にとっては、取り消されることのない救いを与えられる悔い改めの時なのだとパウロは言うのです。悔い改めと言うと、日本ではいまだに、悪い事をした人間が回心し、後悔することだと思われていますが、本当はそうではない。悔い改めとは、一言で言えば「生き方が生まれ変わる」ことです。目の前に厚い壁があって、もうどうしようもない、これでもう終わりかと思っている、その時に、忽然と目の前が開かれて、気付かされる。何に気付かされるかというと、神は生きておられる、そのことに気付かされる。苦難の時にも主は共におられる。ここに目が開かれることが悔い改めです。そこで今日は、この「悔い改め」の道をギデオンの物語を通して確認し、私たちも同じ道を歩みたいと思います。

このギデオンの問題が起こったのは、今から3千年以上前のこと。ダビデ王が国を安定させるよりも、さらに2百年ほど前のことでしょうか。そんな大昔の話を聞いて、何の意味があるのかと訝しく思われるかもしれません。しかし、私はここが聖書のメッセージの肝心なところだと思うのですが、ギデオンに働きかけ、ギデオンを導いた神様が今も生きておられて、私たちに働きかけ、導いておられる。そのことに気付くことが大事です。「昔いまし、今いまし」という讃美歌の歌詞がありましたが、昔おられた神様は、今も生きて働いておられるのです。

この時、ギデオンが置かれていたのは、どういう状況であったかと言うと、モーセに率いられて荒れ野の旅を経験し、やっとのことでカナンの地に入りはしたものの、なかなかカナンの地に根を下ろすことが出来なかった。先住民族との争いや周辺民族との闘いに明け暮れて、大変に苦労した時期です。ギデオンの時代のイスラエルはミディアン人という荒々しい敵に攻められて、危機的な状況にありました。それで、イスラエルの人たちは山に逃げ込んで、洞窟の中に身を潜めて暮らしていた。その時に、ギデオンは、必要に迫られて、酒船の中で小麦を打っていました。ギデオンという人は、特段優れた人とは言えない。どちらかと言えば、臆病で、弱さを抱えた人です。そんなギデオンが酒船の中で麦を打っていた、そこへ神様の使いが現れて、こう告げました。

「勇者よ、主はあなたと共におられます。」

これは聞きようによったら、ずいぶんと皮肉な言葉です。臆病者の見本のようなギデオンに「勇者よ」と呼び掛けているのですから、これは皮肉だと思うのは当然です。しかし、神の御使いが皮肉を言うわけがないので、これは本当のことなのです。

勇士とか勇者と聞きますと、私たちは、誰と戦っても勝つ、武術が優れているとか、そういう猛者を連想しますが、神様が「勇者」と呼ばれるのは、そういう見た目の勇者ではない。自分の弱さというものを本当に知っている。そういう人を神様が選んで、御用のためにお立てになる。その時に、その人は勇者として用いられる。ですから、勇者というのは、その人の素質ではなくて、神様がその人を勇者とするべく選んでくださったという出来事なのです。ところが、ギデオンにはそんな神様の御心が分からないものですから、彼はこう答えています。

「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」

これは注目すべき言葉です。御使いが「主があなたと共におられます」と言うと、ギデオンは「そんなことはない」と言い返しているのです。ギデオンの言い分は、こうです。主なる神様が共にいてくださるなら、今のような惨めなことにはならないではないか。こんな惨めな状態になっているのは、神様が私たちを見捨てられた証拠ではないかと。そう言ってギデオンは御使いに食ってかかっているのです。

神様に対するこういう思いは、ギデオンだけでなく、信仰を持って生きている人間に必ずと言って良いほど、芽生えて来る思いだと思います。神様が共におられるなら、どうしてこんな辛い目に遭うのか。これは神様が私を見捨てておられるからではないかと、そういう思いが募ってくることは、私たちの信仰生活の中で、しばしば起ってくることです。この問題は、じつは信仰を持って生きて行く上で、大変に重要な問題です。重要な問題なんだけれど、多くの人は、そこを曖昧にして、突き詰めることをしない。ところが、ギデオンは、そこを曖昧にすることなく、神様に真正面から食ってかかっているのです。私は、これは大事なことだと思うのです。

もう一つ、ギデオンが言っていることがあります。ギデオンは「私たちの先祖が『主は我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えたあの御業はどうなってしまったのですか」と言っております。ギデオンという人は、昔から語り伝えられた神の恵みの御業を聞いて知っているのです。今流に言えば、聖書をよく読んで神様の御業を知っている、そんな感じです。昔、私たちの先祖が奴隷であった時に、神様は先祖をエジプトから導き出してくださった。海を二つに分けて渡らせてくださった。荒野で食べ物が無いときに、天からマナを降らせて養ってくださった。水が無くなったら岩から水を出して潤してくださった。そういう、イスラエルの人々が経験した不思議な御業を、ギデオンは聞いて知っているのです。しかし、ギデオンは「その御業はどうなってしまったのですか」と言っています。神様は私たちを見捨てておられるじゃないですかと。これがギデオンの言い分です。

どうでしょう。私たちも聖書を通して神様の御業を知っております。ところが、その聖書が語っていることと、現在自分が直面している問題の解決が、分離している。聖書は、神は私たちを助けてくださる、救ってくださると語っている。けれども、私の問題はちっとも解決しないではないか。これがギデオンが言っていることです。

こういう本音を持って神様に食ってかかったギデオンに、神様は何と言われたか。14節に、こう書いてあります。

「主は彼の方を向いて言われた。『あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことが出来る。わたしがあなたを遣わすのではないか。』」

いかがでしょうか。「神様は私を見捨てられた。私なんか役立たずで、何の力もない」と言っている人を、神様は「あなたを選んで遣わすのだ」と言っておられる。これは注目すべきことだと思います。神様は力と自信に満ちた人を選んで遣わすのではない。むしろ、力も自信も無く、自分は見捨てられた人間ではないかと悩んでいる人を選ばれる。なぜでしょうか。神様がお選びになるのは、器なのです。中身がぎっしり詰まった器を神様は選ばれません。いつも空っぽの器を、ご自分のために選ばれる。だから、パウロは言いました。

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」

ギデオンは、いわば空っぽの器として選ばれた。中身を満たしていただくために選ばれたのです。しかし、それでもギデオンは「はい、そうですか」とはよう言わない。彼はこう言い返しています。

「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことが出来ましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」

これはギデオンの実感だと思います。決して遠慮して言っているのではない。本当に無力な一族の、いちばん役立たずの人間なのです。これではとても神様の役に立つことなど出来ませんとギデオンは言うのです。しかし、神様はそんなギデオンをお選びになる。

後になって、ギデオンがミディアン人と戦う時に、「神様が我々を救ってくださるのだから、戦うために集まりなさい」と人々に呼びかけたら、3万2千人の人が集まりました。しかし、敵はもっと大勢いますから、ギデオンは「これは少ないなあ」と思っていますと、神様は「多すぎる。もっと減らせ」と言われる。そこで「帰りたい者は帰りなさい」と言うと、何と2万2千人が帰ってしまって、残りは1万人。こりゃ大変だと思っていると、神様はそれでも「多すぎる」おっしゃって、しまいには、とうとうたった3百人になってしまった。3百人と数万人とでは、初めから問題にならない。人間の考えから言えば、これでは戦いにならない。なぜ神様はそうなさったのか。

神様が御業をなさる時というのは、目的があるのです。それは、神がおられること、神が生きて働いておられることを、すべての人に示すためなのです。だから、神様は力の無いギデオンを選び、兵を3百人にまで減らしたのです。神様が生きて働いておられることが、誰の目にも明らかになる。そして神の御名が崇められる。人が崇められるのではなく、神様の御名が崇められる。これが大事なことです。

ですから、私たちが体が弱ってきたとか、何の力もないとか、もう神様のお役に立つなんて、とんでもないとか、そういうふうに思う時に、じつは神様はその人を用い始めておられる。ギデオンは「自分は役立たずだ」と言いましたが、役立たずの人間が神様の御用のために用いられていく。そういう世界があるのです。使徒パウロが第二コリントの中で「わたしは弱い時にこそ強い」と言いました。人間というのは、本当に自分の弱さを知らなければ、神様を求めません。

ところが、今の日本の社会はどうでしょう。今の日本は弱さを恥じる社会だと思います。弱さを出してはいけない。弱さはみっともないもの、人目に出せないものという考え方が社会全体に根付いています。

ところが、信仰というのは、自分の弱さを知るところから始まる。弱さを認めて、神様、どうぞお任せしますので、助けてくださいと、心から言う時に、あなたの信仰があなたを救ったと、お声をかけていただけるのではないですか。本当に自分が弱い者になって、役立たずになった時に、神様がこの役立たずの私を用いて栄光を現してくださるという、信仰のいちばん大事なところが現れて来るのです。

金沢の教会におりました時に、年配のご婦人を訪問して、病室でお話を聞きました。お若い頃は、教会の中心になって奉仕をし、ささげものをなさった。しかし、体も言うことをきかなくなって、「もう何も出来なくなりました」と彼女は言った。その時に、この人の信仰の姿がハッキリと誰の目にも明らかになって、輝きを放ち始めたのです。

これまで養い続けた信仰が、弱い体を通して、誰の目にも明らかになる。そういうことが起こってくるのが信仰の世界です。ギデオンは「あの御業はどうなってしまったのですか」と文句を言いました。私たちも同じような愚痴をこぼします。「神様の救いの御業はどうなってしまったのか」と不平を言います。しかし、じつは、神様の御業は、既に始まっている。不平の背後で、不信の背後で、神様の忍耐が、私たちの中に始まっている。御業が、私たちの弱さ、愚かさの中で始まっている。私たちの神様とは、そのようなお方。このお方に委ねて、弱さを恥じることなく、安心して年をとっていきたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

12月15日(日)のみことば

「主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。」(詩編146編8節)

「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。」(新約聖書:ルカ福音書24章45節)

聖書を悟らせるために、と書いてあります。何気ないような表現ですが、じつはここに大きなことが言われています。悟らせる。これは、私たちが主体となって聖書を悟るのではない、ということです。私たちが悟るのではなく、主が悟らせてくださる。どのようにして悟らせてくださるのか? 主が私たちの心を開いて、悟らせてくださるのです。

新共同訳聖書は「心の目を開いて」と訳していますが、原文には「目」という言葉はありません。ではどうして、新共同訳聖書はここを「心の目」と訳したのかというと、ここに使われている「心」という言葉は、普通の意味の「心」とは違うからです。私たちの心の一番深いところに、自分では開けない扉がある。いくら開こうと思っても、自分では開くことが出来ない扉があります。しかし、ここが開かれないままの心というのは、頑ななのです。この心の扉は自分では開くことが出来ませんので、誰かに開いていただかなくては、どうすることも出来ません。それを、主イエスは開いてくださるのです。