聖書:詩編23編1~6節・ルカによる福音書15章1~7節
説教:佐藤 誠司 牧師
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り、恵みと慈しみは、いつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23編1~6節)
アドヴェント・クランツに1本目の灯りが灯って、今日が待降節の第一の主日であることを告げています。また、新しい一年が始まります。
今日は詩編の第23編の御言葉を読みました。おそらくこれは、全部で150ある詩編の中で、最も広く愛され、親しまれた詩編であろうと思います。ここには、たとえばパウロの手紙にあるような神学的な議論や教えというものはありません。ただひたすら、神様への信頼が素朴な形で歌われています。大変素朴な信仰と言えるでしょう。
そういうことから、私は、若い頃は詩編というものを、あまり重んじませんでした。「信仰によって義とされる」とか「十字架の贖いによって救われる」といった神学的な骨格がないので、詩編というのは、なんだか物足りない、ただの歌ではないかと思っていました。
ところが、信仰生活を続けて、今改めてこの詩編を読みますと、大変に素朴な信仰の言葉の中に、生き生きとした命があるなあと、つくずく思わされます。例えば、この詩編の語り方です。こういう場面を想像してください。私たちがキリスト者でない人に神様のことをお話するという時、私たちは天地の造り主である神様とか、全能の神様という側面から神様を説明すると思いますが、そういう場面で、私たちは神様をどう呼ぶでしょうか。きっと「神は」とか「神様というお方は」というふうに、三人称単数で呼ぶのではないかと思います。これは神様というお方と、その御業を出来得る限り冷静になって、理性的に説明をする試みでありまして、大変に大事なことです。
信仰生活を続けていますと、いろんな問題や悩みに遭遇します。そういう時に、私たちは神様のことに思いを馳せるわけです。神様というお方は、こういうお方なのだと、いろいろ考えます。これは、言うなれば信仰生活の骨組みみたいなものでありまして、これが、じつは神学という営みの入り口になります。神学というと、何か無味乾燥で、信仰とは関係がないと思って毛嫌いする人もいますが、神学的に物事を考えることは、教会にとっても私たちの信仰にとっても大切なことです。神学的な筋道を立てて物事を考えることの出来ない教会と言うのは、筋道がないわけですから、いきおい、教会の判断は人間の気分や感情、熱心さに押し流されてしまう。ですから、神様を三人称単数で「神はこういうお方だ」「神はこういうことをなさった」というふうに、冷静に受け止めることは、教会の営みとして、とても大事なことです。
しかし、これもやはり人間の営みですから、欠点があります。それはどういうことかと言いますと、神様が物事を考えるための一つの符号のようになってしまう点です。これでやって行きますと、神様のことを語っているのだけれど、それが信仰の言葉にならないということが起こってきます。これは礼拝の説教において、しばしば起こることです。いわゆる教育的説教というのが、これです。
そこで、これを補うのが、もう一つの姿勢です。それは神様を「あなた」とか「あなた様」と呼ぶ信仰の姿勢です。「あなたは」と言う。「あなた」と呼び掛ける。これはもはや三人称単数ではありません。二人称単数です。二人称単数というのは必ず一人称単数とペアになって出て来ます。「あなた」と「わたし」の関係です。神様と真向き合いになって、直接話しかける姿勢です。これが、じつは信仰においては非常に大切になってきます。
この姿勢が最もハッキリと現れてくるのが、祈りです。祈りの言葉というより、祈りの姿勢ですね。そこには神様との生きた交わり、人格的な交わりがあります。これが無いと、信仰生活というものが、生きていけない。続かないのです。この「あなたと私」の関係が成り立つ源泉は、私たちのほうからではなく、神様のほうから私たちに語りかけてくださる。働きかけてくださる。それが「あなたと私」の関係の源泉です。
聖書には何が書かれているか。これを一言でいうのは難しいのですが、無理を承知でいえば、「神は語られた」ということに尽きるでしょうか。万物の造り主である神様が、私たちを愛し、語りかけてくださった。そのことが土台となって、「あなたと私」の関係が成り立って行く。この関係の中で引き起こされて行くのが「信仰」なのです。
今までは全然気が付かなかったけれど、神様がおられて、こんなにも深く私を愛し、救いの御業をなさってくださる。そのこと気が付いた時に、私たちはそれを何とかして言い表そう、感謝と喜びを言い表そうとします。それが信仰告白と呼ばれるものの本質です。今、私たちは礼拝の中で日本基督教団信仰告白を告白していますが、あの信仰箇条の中心になっているのが、教会が2千年前から受け継いできた使徒信条です。しかし、信仰の告白というのは、そういう整えられた信仰告白に限らないわけで、この詩編の23編も、この詩人の信仰告白です。では、この詩編を書いた詩人は、この詩編でどのような信仰を告白しているのでしょうか。
この詩編を初めから見て行きますと、はじめのうちは「主は羊飼い」というふうに、神様を三人称単数で呼んで、「神様とはこういうお方です」と説明しています。けれども、読み進めて行きますと、調子が変わってくる。3節の後半、「主は御名にふさわしく」までは神様を三人称単数で呼んでいますが、そのあとは、どうでしょう。
「あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」
いかがでしょうか。それまで神様を三人称単数で呼んでいたのが、その姿勢をかなぐり捨てて、「あなたと私」の関係で語っています。これは、どういうことかと言いますと。神様に対する信頼を、直接、神様に向かって言い表しているということです。これは大変に素朴な形ではありますが、私は、これは生きた信仰の告白だと思います。そこで、詩編23編を信仰の告白として、少しずつ振り返ってみたいと思います。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」
私たち日本人はパレスチナの風土を知りませんので、こういうところを読みますと、なんだかのどかな野の風景を思い浮かべるかもしれません。詩人は順風満帆の中で、この詩編を書いたと思われるかもしれません。しかし、実際はそうではない。この詩人は、この時、非常な苦境の中にあったと思われる。そういう厳しい状況の中で、この人は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言い切った。これは信仰の告白です。今は飢え渇いていても、神様は必ず私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴われるに違いない。彼はそう信じたのです。
「魂を生き返らせてくださる」という言葉があります。「生き返らせる」ということは、裏を返せば、今は死んだようになっているということです。この人は今、長く苦しい旅を続けているけれど、主が必ず青草の原に導いて、憩いの水のほとりに伴ってくださる。やがて私の魂は生き返る。今の苦しい旅は、そういう命に向かう旅であり、正しい道なのだ。主なる神様が羊飼いとして私を導いてくださる。
この道は命に至る道ではありますが、楽な道ではありません。その途中で「死の陰の谷」を歩むことだって、あるのです。神様を信じて信仰生活を始めても、何もかも順調に行くとは限りません。いや、むしろ、信仰をもって歩む時に、様々な悩みや苦しみが襲って来ることがあります。信仰の無かった時のほうが、楽だったのにと思うことも、しばしばあります。信仰が土台からぐらぐら揺さぶられることもあるでしょう。まさに信仰者としての死線を往く時がある。これが「死の陰の谷」と呼ばれるものです。しかし、その時にも、私は決して恐れないと詩人は言い切っている。その理由を、彼は次のように歌っています。
「あなたがわたしと共にいてくださる。」
「あなたと私」の関係が、その理由なのです。この慕わしい関係は、さらに続きます。
「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」
羊飼いは、群れから離れていく羊を守り、連れ戻すための杖と鞭を持っています。羊という動物は自分で道を開いて行くことをしません。自分の前にいる仲間について行こうとする性質があります。ですから、羊飼いが先頭に立っていると、全部の羊が羊飼いについて行くわけです。ところが、たまに、群れからはぐれて、迷子になってしまう羊がいるのです。そうなりますと、羊は自分で道を探し出すことが出来ないので、もう完全に迷い出てしまう。道に迷った羊は鳴くしかない。その鳴き声を狼が聞きつけでもしたら、大変です。
その時に、羊飼いは、迷い出た羊を群れに戻すために鞭を使います。鞭で打って羊を連れ戻すのです。鞭で打たれるのですから、羊にとったら迷惑な話ですが、羊飼いの鞭で打たれる痛みこそ、羊が生かされている証しです。羊飼いが共にいてくれることの証しでもあります。
また、狼や盗賊が襲って来た時には、羊飼いは、持っている杖で闘います。ヨハネ福音書に「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」というイエス様のお言葉があります。主の十字架を連想させる言葉ですが、あの「命を捨てる」というのは、ただ単に命を捨てるのではなく、「戦う」という意味がある。羊飼いが杖を持って狼や盗賊と戦う、あの戦いが背景にある表現です。ということは、どうでしょうか。イエス様の十字架には、ただ無残に殺されていく犠牲の意味だけではない。まさに多くの人を贖うための「戦い」という意味があったことが、ここから分かります。つまり、この羊飼いは杖で敵と戦い、鞭で羊を導き、「正しい道」に連れ戻すのです。
次の5節からは、これまで語って来た羊と羊飼いの譬えを一旦離れて、別の譬えが始まります。
「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。」
打って変わって、宴会の譬えが始まります。しかも、この宴会は敵の前で繰り広げられる宴会です。普通、敵を前にしたら、余裕が無くなります。うろたえます。誰だって、そうです。ところが、神様が共にいてくださることが分かると、事情は一変します。うろたえるどころか、宴会の主賓のように香油を頭に注がれ、杯を満たされる。なぜ、そんなことが可能になるのか。それが最後の6節に書かれています。
「命のある限り、恵みと慈しみは、いつもわたしを追う。」
後ろから恵みと慈しみが追って来るというのです。だいたい後ろから追いかけて来るものというのは、ろくな者ではないのが普通です。借金取りが追って来るとか、旧約聖書で言えば、イスラエルの人々をエジプト軍の戦車隊が追って来るとか、皆ろくでもないのが追って来るわけです。
それが、この詩編ではどうでしょう。前には確かに敵が迫っている。しかし、主なる神様は敵の前で宴を設けてくださる。さらに後ろからは神の恵みと慈しみが追って来る。恵みと慈しみは私を捕らえ、両脇を挟むようにして、私を連れて行く。いったい、どこに連れて行くのでしょう。それを語っているのが6節の最後の言葉です。
「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」
主の家なのです。恵みと慈しみは、私を主の家に連れ戻してくれる。ここに至って、全く別の事を語っているかに見えた羊飼いの譬えと宴会の譬えが、一つに重なってきます。羊飼いの鞭と杖は、命の道からそれた私たちをもう一度群れに連れ帰すためのものでした。あの鞭と杖こそが、私たちを後ろから追って来る恵みと慈しみだったのです。
「主の家にわたしは帰る」と詩人は歌いました。この「主の家」というのは、私たちにとってみれば「教会」のことです。教会というのは、帰って行く所です。この恵みの場に、私は生涯留まる。だから、私の生きている限りは、必ず恵みと慈しみが私を追って来る。このような賛美をもって、詩編は終わっています。大変に素朴な信仰告白が、ここにあります。この素朴な信仰を、私たちも共に告白していきたいと思います。
第1アドベント
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
12月1日(日)のみことば
「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。」(旧約聖書:詩編16編5節)
「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」(新約聖書:第一コリント書9章25節)
今日の新約の御言葉は昨日の続きです。パウロは信仰の歩みを200メートル走に譬えています。走り出せ。途中で止まるな。ゴールを目指すのではない、ゴールの向こうに備えられている勝利の冠を目指して走れ。パウロはそう言うのです。このスポーツ祭典で勝利者に与えられる「賞」とは、決して物質的なものではなかったようです。金品が与えられるのでもなければ、地位財産が与えられるのでもなかったのです。では「賞」とは何であったか? それは物質以上の精神的なもの、すなわち名誉であり、栄光であった。その名誉、栄光の印が「冠」だったのです。
4年に一度アテネで開かれるオリンピア大会の冠はオリーブで編まれたものでした。それに対して、コリントの冠は松の枝葉で編まれていたといわれます。1年を通して緑の色を失うことのない松は、名誉と栄光の印にふさわしかったのでしょう。しかし、これとても、パウロの目には、いずれは朽ち果ててしまう冠にしか見えなかったようです。だから、パウロは「朽ちない冠」と言うのです。