聖書:創世記12章1~4節・ローマの信徒への手紙5章9~10節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』」 (創世記12章1~3節)

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ人への手紙11章8節)

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマの信徒への手紙5章10節)

 

今日は創世記12章が伝えるアブラハムの旅立ちの物語を読みました。これまで何度も取り上げてきた物語ですが、それだけ奥の深い物語でもあります。そこで今日は、アブラハムの旅立ちを、私たちの信仰との関わりの中で見ていきたいと思います。そのために、まず、この旅立ちの出来事を、新約聖書がどのように伝えているか。その一点を見ておきたいと思います。ヘブライ人への手紙の11章に、こういうふうに書かれています。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」

私たちが非常に強い印象を受けるのは「行き先を知らずに出発した」という言葉です。まあ世の中には、いろんな冒険の旅がありますが、どんな冒険でも、大抵は行き先が決まっています。ところが、アブラハムは行き先を知らないで出て行った。常識的に考えれば、ずいぶん無茶なことのように思います。しかし、改めて考えてみますと、私たちの人生というのは、やはり、行き先を知らない旅ではないかと思います。ですから、アブラハムが行き先を知らずに出て行ったというのは、アブラハムだけのことではなくて、じつは私たちの人生を象徴している。そう言っても良いと思うのです。

行き先を知らずに出て行ったと、それだけを聞きますと、大変に無謀な冒険のように思います。そして、アブラハムという人は大変に勇気のある、勇敢な人だなあと考えますが、これはじつは間違いです。ついすると私たちは信仰による歩みというものを、そういう冒険とか勇敢な行いのように考えてしまいますが、そういうふうに考えますと、信仰によって生きるということは特別な人にしか出来ない偉業のようになってしまう。そして、私たち普通の人間には到底無理な話だと思ってしまいます。

しかし、それは「行き先を知らずに出て行った」ということの上辺だけを見ているから起こる誤解です。アブラハムがこの決心をするのには、元があるのです。それは、主なる神様がアブラハムに語りかけ、アブラハムはそれを聞いたということです。その神様の語りかけが書いてあるのが、今日の箇所です。

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

ものすごい祝福が語られています。これは一言で言えば、「あなたと私は一つだ」ということです。あなたを祝福する者を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う」と言っておられる。これはすごい約束です。この約束をアブラハムは信じたのです。この約束がまずあって、その上で「私はあなたのために住む所を用意している。そこへ行きなさい」と言われた。この神様が用意しておられるのは、どこなのか。それが全く分からない。そして、そこへ行って、どんな目に遭うか、全く分からない。具体的なことは、何も分かっていない。しかし、祝福されているということだけが、確かな事です。アブラハムは、その一点だけを信じて旅立ちました。

神様が祝福してくださる。だから決して悪いことはない。ある意味、非常に単純なことなのです。しかし、信仰というのは、煎じ詰めれば、そういう非常に単純な事ではないでしょうか。神様が私を祝福してくださっている。だから絶対に間違いはない。これが信仰の本質だと思います。最後の最後は、ここなのです。先週の礼拝で久しぶりに賛美歌630番を歌いました。あの讃美歌の2節は、こんな歌詞が付いています。

「行く末遠く見るを 願わず。よろめくわが歩みを 守りて。ひと足 またひと足 導き 行かせたまえ。」

芝居の台本みたいに最初から最後まで分かっている人生なんて、ありません。「ひと足、またひと足」で良いのです。神様の約束に応えるひと足だからです。アブラハムはこの約束を信じて、決断をしました。「生まれ故郷を捨てて、父の家から離れて、わたしが示す地に行きなさい」というお言葉に従いました。今まで自分を支えてくれていたすべてのものに別れを告げて、新しい生活に入って行ったのです。これが、今まで頼りにしていたものを捨てずに、ずっと持って行くのなら、これは新しい生活とは言えません。捨てなきゃならないものが、あるのです。イエス様も「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と言われました。そこにはハッキリとした区別があります。今までは世間並みにいろんなものを頼りにして生きてきた。けれども、今日からは、そういうものを頼ることなく、神様の約束だけを頼りにして生きて行く。これが信仰の決断です。

ところで、アブラハムの物語で、どうしても気になる点が、どなたにもあると思います。それは、どうしてアブラハムはこれほど大きな祝福を受けたのか。これは聖書を読んでも、何も書いていない。まさに謎のブラックボックスなのです。ただ「主はアブラムに言われた」とだけ書かれている。アブラハムが立派な人だったとか、信仰熱心だったとは一言も書かれていない。どういうわけか、神様はアブラハムを祝福の源にしようと決心された。祝福の源というのは、アブラハムだけでなく、多くの子孫、多くの民族がアブラハム故に祝福を受けるということです。これも凄い事だと思います。

じゃあ私たちは、どうなのか。アブラハムは祝福されたけれども、これはアブラハムだけのことであって、私たちには関係ない。私は、そんな大それた資格はないと、そんなふうに感じられるのではないでしょうか。聖書が語っていることと自分との間に壁を作ってしまう、おなじみの考え方です。私たちは、聖書のメッセージに触れる時に、すぐ自分には資格があるかないか、そういう事を考えがちです。

ところが、この私たちの祝福について、これは新約聖書の中で見なければならないと思いますが、エフェソの信徒への手紙の1章4節に、こういうことが書いてあります。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者しようと、キリストにおいてお選びになりました。」

何が言われているかというと、要するに、神様は天地が造られる前から私たちを選んで、神の子となるよう定めてくださったというのです。これは考えてみれば、凄いことだと思います。私たちは信仰というと、やっぱり自分の中に何か条件や資格というものを考えがちです。熱心さとか、真剣さとか、そういうものを資格や条件にしたがる。ところが、ここでパウロが言っているのは、「あなたがたが選ばれたのは、天地創造の前からですよ」ということです。天地が造られる前ですから、当然、私たちは存在しておりません。存在しないんだったら、選びようがないではないかと言われるかもしれませんが、神様は私たちを選んでおられるのです。どうやって選んだのかと言いますと、「キリストにおいて選んだ」。これが大事なことです。

キリストにおいて選ばれるとは、どういうことなのでしょうか。ローマの信徒への手紙の5章に「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」という文言があります。私たちの周りには、いろんな人がいますが、いちばん厄介なのは敵だと思います。悪意をもって立ち向かって来るのが敵です。私たちは、神様にとって、そういう敵だった。その敵を、神様は滅ぼそうとはならさずに、御自分のものにしようとなさった。そのためにキリストを送った。そして、敵を愛し、敵を救い、敵を御自分のものとするために、キリストにおいて和解を与えてくださった。ですから、誰一人「自分はダメだろう」とは言えない。どんなに熱心ではなくても、どんなに心が離れていても、神様の祝福からはねられることはない。神様の選びとは、そういうことなのです。

人間の選びは、そうではない。入学試験でも入社試験でも、選抜をします。これは気に入った。これは要らんと。ハイスペックな人間だけを選びます。しかし、神様の選びは、そうではない。どんなダメ人間でも、神様は天地創造の前からキリストにおいて神の子にしようと決めておられる。

この救いの事実を「これはあなたのために起こったことですよ」と言って告げられるのが「福音」です。私たちは、主の日の礼拝で「福音」を聞きます。福音が該当しない人は、一人もいません。この人は福音に当てはまるが、あの人はそうではない、なんてことはないのです。

ではいったい、どこで問題が起こるかというと、福音を聞いて、それを信じて受けるか受けないか。そこだけなのです。福音を聞きます。その時に、「あ、これは私に言われている、私に向かって語られている」と思う心の高鳴りがあるでしょう。もちろん、福音を聞いて、一発で心が決まるとは限らないでしょう。何度も聞くうちに、心が開かれていくことのほうが多いかもしれません。しかし、本質的に、信仰とは、聞いて受け取ることです。福音を聞いて、これは私の事だと思って受け取るのです。礼拝では、誰もが福音を聞いています。しかし、その時に「そんなバカなことがあるか」と言ってしまえば、もうそれだけの話です。

けれども、ここが大事なところです。アブラハムは、それを信じて受けたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。あなたは祝福の源となる。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と神様が言われた時、アブラハムは「そんなバカなことがあるか」とは言わなかった。「そんあ当てにならん所には出て行かん」とも言わなかった。彼は信じた。そして、それをすぐさま行動に移したのです。

そうしますと、当然ながら、今までとは全く違う生活が始まった。そりゃ、そうでしょう。今まではハランに定住して、隣近所の人たちと同じ価値観を持って、同じような生活をしていた。親類縁者とつながって、同じような考えを持って生活を守っていた。地縁と血縁の中で、それらに囚われた生活をしてきたわけですが、それらを全部捨てて、見知らぬ土地に出発するのですから、全然違う生活が始まるでしょう。そして、これはアブラハムだけのことではないのです。日本という国にキリスト者として生きる私たちもアブラハムと同じ決断を迫られることが、ままあります。

パウロはローマの信徒への手紙の中で「あなたがたはこの世に倣ってはならない」と言いました。この「倣う」というのは「型にはまる」ということです。地縁・血縁の中で生きるというのは、この世の型にはまることです。この世の圧の中でがんじがらめになることです。アブラハムだって、そうだったのです。しかし、アブラハムは神様の言葉を聞いて、それを信じた。信じて一歩を踏み出したのです。信じて、一歩を踏み出す。この世に倣うのではなく、アブラハムに倣う者でありたいと思います。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

11月10日(日)のみことば

「(主は)虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。」(旧約聖書:詩編146編7節)

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる。」(新約聖書:使徒言行録16章31節)

今日の新約の御言葉は最初期のキリスト教の伝道の有様を伝えています。フィリピの町で福音を語ったがために投獄されたパウロとシラスが看守の一家に洗礼を授ける物語です。看守は真夜中だというのに、家族みんなを起こして来て、家族揃って御言葉を聞いて洗礼を受けます。あの物語の最後は、こうなっています。

「この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」

家族揃って真夜中の食卓を囲んで、パウロたちと共に喜び祝ったのです。福音は、まさに「あなたと家族を救う言葉」として伝えられていたのです。これは、現代の私たち日本の教会、日本のキリスト者にとっても示唆に富むことです。福音とは本来的に個人的なレベルに留まるものではなく、たとい個人の救いから始まったとしても、そこに留まることなく、救われたその人を通して福音はさらに働いていく、そしてその人の家族をも救いに導いていく。私たちは、そうした福音のダイナミズムに、もっと信頼して身を委ねても良いのではないかと思います。