聖書:創世記12章1~4節・マタイによる福音書19章16~22節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』」(創世記12章1~3節)

「イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(マタイによる福音書19章21~22節)

 

今日はアブラハムの原点となった旅立ちの物語を読みました。「主はアブラムに言われた」という言葉で始まっています。何が始まったかというと、アブラハムの第二の人生が、主の言葉によって始まったのです。「アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」と書かれています。そう聞いて、おかしいじゃないか、75歳で第二の人生が始まるなんておかしいと思われた方もおられると思います。

確かにアブラハムは、その前に75年生きておりました。テラというお父さんがいて、サライという奥さんがいて、裕福な遊牧民の生活をしていたことが、創世記の11章の終わりに書いてあります。そういう生活を75年続けて、アブラハムは第二の人生に旅立った。本当の人生が始まった。それが75歳の時であったと聖書は語る。これは大事なことです。どうしてでしょうか。

その理由は12章の1節に書かれています。「主はアブラハムに言われた」と書いてあります。主なる神様が語りかけてくださった。アブラハムはそれを聞いた。これがアブラハムの人生を二つに分けた分岐点だったのです。

これは、アブラハムだけではない。私たちが本当の人生というものを考える時、大変に示唆に富む、大事な点だと思います。私たちは年をとると、もう自分は体も弱った。もう私の人生も終わりが近いと、つい思いがちですが、本当にそうなのかと聖書は問いかけている。ひょっとしたら、今日のこの礼拝から新しい人生が始まるかもしれない。神様が私たちに語りかけて、お前はおしまいではないぞ、今日から新たに出発するのだぞと背中を押してくださる。礼拝とは、本来、そういうことだと思うのです。

では、アブラハムを新しい人生へと送り出した神様のお言葉とは、どういうものだったのか。もう一度、味わってみたいと思います。

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

何が語られたかというと、まず何を措いても「私はあなたを祝福する」という一言に尽きる。聖書が証しする神様の祝福というのは、祝福を受けたその人だけが祝福に与るのではない。アブラハムが祝福を受けたというのは、彼が祝福の源になったということです。そういう大きな祝福をアブラハムは受けた。これは素晴らしいことだと思います。しかも神様はアブラハムに「祝福の源になりなさい」なんてことは言っておられない。神様は、ただ「あなたを祝福の源にする。あなたを祝福の源とする」と言われた。これは「なりなさい」という命令ではなく、約束です。アブラハムの人生は、この大きな約束に押し出されるようにして、変わっていきます。

具体的に、どういうふうに変わって行ったかと言いますと、「わたしが示す地に行きなさい」と言われています。「わたしが示す地」とは言っても、この時アブラハムは具体的な場所を示されたわけではないのです。「ここへ行け」と言われたのではない。つまり、アブラハムは行き先を知らないで出発した。この時のアブラハムの行動を、新約聖書のヘブライ人への手紙は、次のように述べています。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」

行き先も知らずに出発したと書いてあります。これがもし、自分が計画したのであれば、行き先は分かっています。けれども、アブラハムの場合は、そうではなかった。神様が示してくださる土地は、その時にならなければ、人間には分からないのです。その分からない所に向かって、あなたは出発しなさいと主なる神は言われる。これは理屈で考えたら、成り立たないことです。しかし、行き先が分からないで出発するというのは、信仰というものの本質を衝いていると私は思います。自分で何もかも分かったから、納得ずくで行くというのではない。分からないけれど、神様の約束を信じて行くというのが、信仰というものの大事な要素です。

それでは、神様が示してくださる地とは、いったい、どこのことなのか。そこが問題になって来ます。この問いのヒントとなる御言葉が新約聖書のヨハネ福音書の14章に記されています。主イエスが十字架につけられる前の晩に弟子たちにお語りになった御言葉です。主イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われた後で、こうおっしゃったのです。

「わたしは、あなたがたのために場所を用意しに行く。」

この時、主イエスは既にご自分の死を見据えておられる。捕らえられ、殺されることを見据えた上で語っておられる。イエス様の死は、死んだらおしまいになるのではなくて、その死の向こうで、ちゃんと人々のための場所を用意しに行く。そういう目的のある死なのだと言われた。そして「場所を用意したら戻って来る。戻って来て、あなたがたを迎える」と言われた。だから、主イエスは「心を騒がせるな」と言われたのです。これは言葉を替えて言うと「安心しなさい」ということです。私たちは死んだことがありませんので、死後の世界を知りません。知らないのだけれど、イエス様の言葉を信じています。「場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを迎える」と言われた言葉を信じている。信じて旅立つ、まさに「行き先を知らないで旅立つ」のです。アブラハムと同じです。

アブラハムの旅立ちには、もう一つ、大事なことがあります。神様がアブラハムに、こう言っておられるのです。

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」

私たちは、長く聖書に親しんでおりますので、今ここを読んでも、それほどの驚きはないかもしれません。しかし、これは大変なことが言われている。アブラハムはお父さんのハランと共に歩んで来て、親類縁者もたくさんいたでしょう。遊牧民ですから、膨大な家畜を養うには、土地の人々とのお付き合いも大事です。土地の問題、井戸の問題、牧草の問題があり、その一つ一つに土地の有力者との人間関係がからんで来る。おそらく、アブラハムはその人間関係を、かなりの線まで造り上げていたことでしょう。人間関係が、アブラハムにとって、一つの財産になっていた。そういう人間関係の上に、アブラハムの生活は成り立っていたのです。

ところが、アブラハムは、それらすべての関係を捨てて、誰も知った人の無い、全くの見ず知らずの土地に出かけて行くことを求められた。これは大変なことです。しかし、神様が備えてくださる所へ行くというのは、じつは、そういうことをちゃんと中に含んでおります。

今日はアブラハムの旅立ちの物語に合わせて、マタイ福音書の「金持ちの青年」の物語を読みました。こんなお話です。一人の若者がイエス様のところにやって来て「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねました。そうすると、イエス様は、十戒の戒めを守りなさい。そうすれば天に宝を積むことになるとお答えになった。すると、青年は「ああ、そういうことなら小さい頃から全部守っています」と答えています。真面目な人なのです。この言葉を受けて、イエス様は青年にこう言われます。

「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである、というお話です。でも、この青年のお話とアブラハムの旅立ちのお話の、いったい、どこに接点があるのでしょうか。神様はアブラハムに、全財産を手放しなさいとか、持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさいと言われたわけではありません。彼は多くの家畜や僕たちを引き連れて、豊かなまま旅立ったのです。悲しみながら立ち去った青年とは、随分と事情が異なります。

では、この二つの物語の、どこが接点になるかというと、自分が今まで本当に頼りにしていたもの、自分が生きて行く上で、ほかのものは無くなっても、これさえあれば大丈夫と思っていた、その大事なものを、あなたは手放しなさいと神様は言われるのです。

アブラハムの場合、父の家を出て、親族と別れ、これまで築き上げて来た人間関係を捨てることが、それだった。青年の場合は、たくさんの資産・財産の上に生活と人生を築いて来た。その大事なものを、パッと手放しなさいと主エスは言っておられる。そうすれば天に宝を積むことになる。祝福を受けることが出来る。

しかし、ここは読み方に注意が必要です。こういう物語を読む時、私たちは、無意識のうちに、見返りとかご褒美という考え方に囚われてしまうからです。アブラハムは、そういう大きな犠牲を払ったが故に、その見返りとして、ご褒美として、神様の祝福を頂いたのだと、勝手に理解をしてしまう。この見返りとかご褒美の思想は、神様が言っておられることとは全く正反対なのですが、私たち人間の心に、驚くほど根深い影響力を持っています。実際、あの青年が立ち去った後で、いつも一言多いペトロが、やっぱり言ったですね。

「ご覧なさい。わたしたちは一切を捨てて、あなたに従いました。ついては何かいただけるでしょうか。」

ペトロたちは確かに一切を捨ててイエス様に従って来たのですが、心の奥底のどこかに、見返りを期待する思いが潜んでいたのです。しかし、神様がアブラハムや青年に望んでおられるのは、そういういちばん大事なものを捨てることなのかというと、そうではないのです。神様が、イエス様がいちばん望んでおられるのは、地位や財産を捨てることではなく、生まれ変わることなのです。目に見えるものを頼りにして生きてきた人生から、目に見えない神様を信じて生きる。神様の言葉を頼りに生きて行く。それが生まれ変わるということです。「わたしが示す地に行きなさい」と神様は言われました。ところが、そう言われても、その神様が用意しておられる地というのは、目に見えていません。こんな素晴らしい所だぞ、水も牧草も豊かにあるぞ、なんてことは何一つおっしゃらない。分かっているのは、ただ一つ。神様が「あなたを祝福する」と言われた。そのことだけが分かっている。考えようによっては、雲をつかむような話です。この世の目からすれば、全く当てにならない話なのです。しかし、そのあてにならない一点を問うのが信仰です。私に語りかけてくださり、私と共にいてくださる神様を信じるか。この神様に自分を委ねるかという決心。そういう選択を迫られる。それが、じつは信仰というものの本質なのです。

アブラハムは、この言葉を聞いた時、どうしたでしょうか。4節に、こう書いてあります。

「アブラハムは、主の言葉に従って旅立った。」

旅立ったのです。この「旅立つ」という言葉の背後には「後にする」という意味合いがあります。これまでの生活や人間関係、人生を支えてきたものを、すべて後にして、旅に出た。そこに聖書はもう一言、こう付け加えています。

「アブラハムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。」

75歳といえば、もう一つの人生が終わりに近づいた、そういう年になって、彼はまだ見たことも聞いたこともない、そして何の説明もない、新しい世界へ、ただ神様を信じて旅立った。これはアブラハムだけの話ではありません。アブラハムは、私たちの手の届かない偉人ではなく、私たち信仰者の模範なのです。

皆さんの中には、すでに老年に達した方もあるかと思います。もう自分の人生も、大事なことは全部終わったように思っておられる方もあるかもしれませんが、じつはそうではない。大事なことが、残されている。今日、主が私たちを召して、新しい出発をさせてくださる。信仰者のみに与えられた第二の人生を、私たちは主と共に歩むのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

10月6日(日)のみことば

「子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう。主への賛美、主の御力を。主が成し遂げられた驚くべき御業を。」(旧約聖書:詩編78編4節)

「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」(ルカ福音書10章1節)

今日の新約の御言葉は、主イエスが72人の弟子たちを伝道に派遣する物語の一節です。「先に遣わされた」と書いてあります。この「先に」というのは「私もあとで必ず行く」という約束を暗示するものでしょう。あとで私も必ず行くから、先に行っておいてくれ、と主イエスは言われたのです。「七十二人を任命し」と書いてあります。この人々は主イエスによって任命されたのです。これは読み過ごすことの出来ない、大事なことです。

私たちの教会でも任職式が行われますが、任職というのも「任命」と同じです。任職される、あるいは任命されるというのは、受け身なのです。自分であれこれ工夫して、自発的にやるのではない。主イエスが、「あなたは、これをおやりなさい」と言って任命してくださる。任職してくださるのです。時には、ああ、自分には出来ないかもしれないなと思うことがあるかも知れません。とてもじゃないが、私にはそんな力もないと思われるかも知れません。しかし、自分の力を診るのではなく、任じてくださるお方を信じて任職を受ける。この職務に必要な知恵と力は必ず主が与えてくださると信じて任職を受けるのです。それが今に続くキリスト教会の伝統になりました。