聖書:エレミヤ書29章1~14節・マタイによる福音書5章43~45節
説教:佐藤 誠司 牧師
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ書29章11節)
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一10章13節)
使徒パウロがローマ教会の人々に宛てて書いた手紙の中に、こんな言葉があります。
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」
これを見ますと、パウロは苦しみというものを否定していないのが分かります。これはじつはパウロだけではありません。聖書の信仰そのものが、苦しみや悩み・不幸を否定しないのです。これは日本人の宗教感覚では考えられないことだと思います。日本では古来、「これを信じたら苦しみは無くなりますよ」というのが宗教の売りの文句になってきたからです。苦しみが無くなることが、御利益なのです。しかし、聖書は悩みや苦しみを否定しない。なぜなのでしょうか。今日は、その一点を心に留めていただいて、エレミヤ書29章の物語に入って行きたいと思います。まず1節を見ますと、こう書いてあります。
「以下に記すのは、ネブカドネザルがエルサレムからバビロンへ捕囚として連れて行った長老、祭司、預言者たち、および民のすべてに、預言者エレミヤがエルサレムから書き送った手紙の文面である。」
ネブカドネザルというのはバビロニア帝国の王です。このバビロニア帝国が紀元前587年にユダ王国を滅ぼして、主だった人々を捕虜としてバビロンに連行した。これが有名なバビロン捕囚です。国が滅ぼされて、捕虜として異国に連れて行かれる。それだけでも大変な不幸ですが、イスラエルの人々の不幸はそれだけではなかった。それは何かと言いますと、今まで自分たちが拠り所としてきた信仰が、ガラガラと土台から崩れてきたのです。自分たちの先祖はエジプトから神の御手によって救われて、約束の地カナンに導かれて、神の民とされた。ところが、その神の民であるはずのイスラエルが、こともあろうに異邦人のバビロニア帝国に滅ぼされた。もう自分たちは神様に見捨てられたのだろうか。神様は本当におられるのだろうかと、そういう信仰の土台を揺るがす疑問が、人々の中に起こってきたのです。
これはイスラエルの人々だけのことではないと私は思います。私たちは平素は神様を信じて信仰生活を送っていますが、あまりに深刻な問題に直面しますと、イスラエルの人々と同じように、神様はおられるのだろうかとか、ひょっとして神様は我々を見捨てられたのかとか、そういう思いが心の中に起こってくる。そういう意味で、今日の物語は決して他人事ではない。現在の私たちともつながった出来事、信仰の危機を語っていると思います。このままだと信仰が無くなってしまう。そういう危機に、神様はエレミヤを通して語りかけてくださった。それがエレミヤが書き送ったこの手紙です。
どういうふうに、神様は語りかけられたかと言いますと、4節に、こう書いてあります。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。」
いかがでしょうか。冒頭から凄いことが言われています。この時、イスラエルの人々は、神様は自分たちを見捨てたのではないか、神様はおられないのではないかと疑い、迷っていたのです。その心を見抜いたように、神様は「私はイスラエルの神だ」と言われたのです。これは言い換えますと「私は今もイスラエルの神だ」ということです。
驚くべき言葉は、さらに続きます。「エルサレムからバビロンへ捕囚として送った」と言っておられるのです。これは「私があなたがたを捕囚としてバビロンに送った」ということです。これはイスラエルの人々にとってみれば、衝撃的な言葉だったでしょう。
では、なぜ神様はイスラエルの人々を、こともあろうに異邦人のバビロンに引き渡されたのか。この不幸を巻き起こした神様の御心は、どこにあったのか。「私は今も、あなたがたイスラエルの神である」と言われる神様が、よりによって、どうしてこんな不幸を引き起こされたのか。まさに、そこが問題になってきます。
この、とてつもなく大きな問題が、少しずつ解き明かされていくのが、この手紙の続きの部分です。11節の言葉を読んでみます。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
いかがでしょうか。今は確かに大きな不幸と苦しみの中にある。しかし、これは神様の御計画の中にある不幸であり、苦しみなのだと。これはどういうことかと言いますと、イスラエルの人々は今、大きな試みの中に置かれているということです。今、現在は不幸と苦しみの中にある。しかし、将来が備えられている。そのことを信じることが出来るか。今、イスラエルの人々は、不幸の只中で希望を持つことが出来るか否か、その瀬戸際で大きな試みを受けているのです。
「試み」というのは、私たちが聖書を読む上でキーワードになる言葉です。聖書は旧約にしても新約にしても、人間の言葉で書かれていますので、同じ単語であっても、それが人間について言われている時と神様について言われている時とでは意味が違ってくることがあります。「試み」という言葉が、まさにそうでありまして、人間が神様を試みることは固く禁じられているのに対して、神様が人間を試みることは、しばしば「鍛える」という意味を持っています。神様がアブラハムを繰り返し試みられたというのが、その典型です。アブラハムは、行く先々で苦労が絶えなかった。エジプトまで追いやられたこともありました、挙句の果てに、神様はアブラハムに愛する独り子イサクを犠牲にささげることをお求めになった。これらはすべて試みですが、この試みによって、アブラハムの信仰は鍛えられ、練り上げられたのです。
今、バビロン捕囚という試練、もうこれ以上は無いとさえ思える苦しみによって、神様はイスラエルの人々の信仰を鍛えようとしておられる。それは明らかなことです。あとは、イスラエルの人々がバビロン捕囚を神様が与えた試練と理解するか、それとも、ただの不幸・苦しみと捉えるか。そこが生死を分かつ分岐点になります。
さて、エレミヤ書の29章に戻りますと、10節に、こうあります。
「主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」
70年経てば、神様はイスラエルの人々をカナンの地、ユダの国に連れ戻すと約束しておられるのです。約束だけではありません。神様は、イスラエルの人々がこの辛い苦しみと試練の時を、どう過ごしていけば良いか、ここにちゃんと示しておられるのです。それが4節以下に記されています。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」
いかがでしょうか。私は、これは凄い言葉だと思います。国は滅び、捕虜となった。自分の国を滅ぼした敵の国に連れて来られて、もう自分たちは、どうなるかも分からない。昔のことを思い出しては悔やみ、先のことを考えては不安になり、生活は荒れてくるでしょう。
しかし、神様は、そういう神を知らない異邦人のような生活ではなく、神を信じる神の民の生活を求めておられる。ここに示された生活は、それこそ普通の生活、故郷にいて神の恵みの中を安心して生きていた時と全く同じ生活を求めておられるのです。そして、何より目を引くのは、あなたがたを捕囚とした町の平安を求め、その町のために祈れという言葉です。これは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というイエス・キリストのお言葉を彷彿とさせる、旧約では極めて珍しい言葉です。
この生き方が、いったい、どこから来るか。それは、この大きな不幸と苦しみを与えたもうたのは主なる神様だという信仰です。神様は、この不幸と苦しみを「試練」として与えておられる。神は私たちを鍛えようとしておられるという信仰です。12節を見ますと、こう書いてあります。
「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるなら見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」
これが試練・苦しみの中で与えられた神の約束です。肝心なのは、この約束の言葉は、苦しみの只中で与えられた言葉だということです。使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中で、こういうことを言っております。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
これは私たちにとって、とても大事な言葉ですが、読み方に注意が必要です。この「逃れる道」というのは、いわゆる「逃げ道」ではないということです。試練や苦しみから逃げるのではなくて、むしろ、試練の只中を行くのです。そのときに、試練に耐えられるよう、神様は御言葉を与えてくださる。
これは、あの辛い、苦しいことに出会った時に、そこをこう通り抜けたら、将来、祝福があるよ、ということではない。それだけだったら、特にそんな辛いところを通らなくても、最初からまっすぐ祝福へ行けば良いのです。けれども、じつは、この大きな悩み・苦しみというのは、この悩み・苦しみを通してでなければ得られないような、そういう祝福が、この悩みの中にちゃんと計画されている、ということです。そういう本物の祝福というものが、バビロン捕囚という不幸と苦しみの只中で準備されていたのです。
皆さんは「初めに、神は天地を創造された」という言葉で始まる創世記第1章の創造物語をご存じのことと思います。皆さんは、あの物語はいつ書かれたと思われますか。素直に考えれば、聖書のいちばん初めにあるので、やっぱりいちばん最初に書かれたのではないかと思われるかもしれません。しかし、聖書の研究が飛躍的に進みまして、この創造物語は、バビロンに捕虜となって連行されて行った人々が書いたということが分かって来た。捕虜となって、うなだれて生きる、どん底の生活の中で、彼らは、国が滅びたのは自分たちが神様から離れていたからではないかという徹底的な悔い改めが起こった。その時に、彼らは異教の地にあって、天を見上げて祈ることを始めたのです。イザヤ書の40章に、こんな言葉があったですね。
「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」
うなだれていた人々が、天を仰いで祈ることを始めた。もうダメだと誰もが思った信仰が、燃え尽きたかに見えた灰の中から、もう一度燃え始めた。この信仰が「初めに、神は天地を創造された」という創造物語を生み出した。ですから、あの創造物語は天地・宇宙の成り立ちを説明しているのではなく、信仰の告白、しかも灰の中から蘇った信仰の告白なのです。
「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるなら見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」
私は、このバビロン捕囚という苦しみ・不幸の中から蘇った信仰こそが、旧約の枠を乗り越えてキリストまで行く信仰だと思います。どん底から天を仰ぎ見る信仰が、ここにあります。パウロも、ペトロも、この道を往きました。私たちも、この道を往く歩みを、今日の礼拝から踏み出したいと思います。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月15日(日)のみことば
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(旧約聖書:詩編23編1節)
「ここに水があります。バプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」(使徒言行録8章36節)
今日の新約の御言葉はエチオピアの宦官が伝道者フィリポから洗礼を受ける物語の一節です。これは彼の心の叫びです。今までこの人は、神様を信じる思いをずっと養ってきたのですが、その思いは、いつまでたっても、思いのままでした。神様を信じる思いが信仰になるには、正しい手引きと解き明かし、そして何より礼拝の機会がなければなりません。ところが、宦官にはそれらが、ことごとく無かった、と言うより、許されていなかったのです。彼の今までの歩みは、神様を信じたいという思いはあっても、それを妨げる壁に取り囲まれての歩みでした。
しかし、今や、フィリポを通してキリストと出会った宦官の前には、妨げの壁は一切無かった。彼は車を止めさせると、フィリポと一緒に水の中に入って行き、フィリポは彼にバプテスマを授けました。異邦人が救われた記念すべき瞬間です。彼らが水の中から上がると、不思議なことが起こります。主の霊がフィリポを連れ去ったのです。宦官はもはやフィリポを見ることはなかったが、喜びに溢れて、旅を続けることが出来たと書いてあります。この「喜び」とは救われた喜びであり、かつ、礼拝の出来る喜びであり、聖書が読めるようになった喜びです。そして「旅」とは人生のことです。救われた喜び、礼拝が出来る喜び、聖書が読める喜びに溢れて、人生という旅を続けることが出来るようになったのです。