聖書:イザヤ書42章1~7節・マタイによる福音書11章28節

説教:佐藤 誠司 牧師

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」(イザヤ書42章1~4節)

 

今日はイザヤ書42章の御言葉を読みました。イザヤ書は、1章から66章までがイザヤ書として伝えられているのですが、40章から55章までは、じつはイザヤが書いたものではなく、イザヤよりも約200年ほど後に出た預言者が記したものです。彼の名は分かっていません。そこで便宜上、彼の名を「第二イザヤ」と呼ぶことになっています。

この第二イザヤに「主の僕の歌」と呼ばれる御言葉がいくつか出て来ます。今日読んだ御言葉も、じつはその一つでありまして、これは第二イザヤで最初に登場する「主の僕の歌」なのです。いつの代にか、主の僕が現れて、主なる神の御心をことごとく成し遂げていく。主の僕の歌は、その有様を語るのですが、この主の僕がいったい誰のことなのか、それが昔から旧約の学問の世界で問題になってきました。

第二イザヤはバビロンに連行されたユダヤの人々に預言を語りましたから、この僕はバビロニア帝国を滅ぼしてユダヤの人々を解放したペルシャの王様クロスのことだろうと主張する学者があります。また、それとは反対に、この主の僕というのはユダヤの人々のことを言っているのでないかと言う学者もいます。また、第二イザヤが自分のことを主の僕と呼んでいるのではないかと主張する学者もあります。

このように、学者の言うことは、確かにどれも説得力がありますが、どれも決め手に欠けると言いますか、決定的な答えは出なかった。というわけで、主の僕がいったい誰なのかという問題は、学問的には大変に難しい、厄介な問題です。

ところが、私たちキリスト教会がこの主の僕の歌を読む時には、この僕が誰なのかという問題は、すでに解決を見ています。この僕は、私たちの主イエス・キリストであるという視点から、私たちは第二イザヤの御言葉を読んでいるからです。

使徒言行録の第8章に、伝道者のフィリポがエチオピア女王に仕える宦官に御言葉の手引きをしてやるお話があります。あの時、馬車に乗った宦官が大きな声で朗読していたのが、第二イザヤの主の僕の歌です。ところが、宦官は御言葉の意味が分からない。馬車に追いついたフィリポは宦官に「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねます。すると宦官は「手引きをしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答えます。宦官は主の僕が誰のことなのかが分からなかったのです。そこでフィリポは、この僕は主イエス・キリストのことなのだとハッキリ教えてやる。そして、宦官はキリストを信じて洗礼を受けるという物語です。あの物語は、初代キリスト教会が誕生した直後から、イエス・キリストこそ主の僕なのだと明確に語っていたことを証ししています。

私たちが聖書、特に旧約聖書を読む時に、一つ、心しておかなくてはならない点があります。それは聖書の学者が聖書を文献として読む態度と、私たちが聖書を読む姿勢は全く違うということです。

皆さんは、出エジプト記の第3章、モーセが神様と出会う場面をご存じのことと思います。あの時、神様は御自分のことを「わたしはあなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。アブラハムやイサク、ヤコブというのは、モーセにとってみれば、過去の人たちです。しかし、アブラハムを選び、イサクを導き、ヤコブを導いて来られた、その同じ神様が今、モーセに語りかけておられる。時の経過と共に、人は移り変わって行きますが、神様は変わることがない。同じ主なる神様が、歴史を貫いて、現在の私たちに語りかけてくださるということを、あのモーセの物語は語っていると思います。

私たちが旧約聖書を読む時も、これと同じです。例えば第二イザヤを書いた預言者がいます。彼がその時に何を考えていたかというのは、過去のことです。しかし、この預言者を通して語りかけてくださった神様は、過去のお方ではない。神様は今も生きて、私たちの神様となってくださっている。そして今日、私たちは、この礼拝においてイザヤ書42章の御言葉を読みましたが、これはただ「昔むかし、こういうことがありました」というふうに、過去の文章として読んでいるのではない。主なる神様は、この聖書の言葉を通して、今現在、私たちに語りかけておられる。そういうことを明確に心に刻んで、私たちはイザヤ書42章の御言葉を読んでいるわけです。

初めにお話ししたように、私たちにとって、これは、イエス様の到来を預言している言葉です。この預言者は、神様がいつの日か、救い主を送ってくださると預言しました。ただ預言者は、それが誰で、どういう形で来られるかは、まだ知らない。知らないまま預言したのです。だから、旧約聖書の預言は、ベールがかかったように、どこか漠然としています。

しかし、私たちは、それがイエス・キリストという形で実現し、イエス様はこういうことを語り、こういう御業をなさったという、具体的なお姿を知っております。福音書を通して、知っているわけです。そういう意味で、福音書に書かれているイエス様のお姿は、第二イザヤが漠然とした形で語った救い主の姿を、明確に語っています。

さあ、そうしますと、福音書には救い主としてのイエス様のお姿がこの上なく明確に語られているので、私たちはもう旧約聖書なんか読まなくても良いのではないかと、つい思ってしまいます。この点を、皆さんは、どう思われるでしょうか。

確かに福音書に書かれたイエス・キリストのお姿というのは、語られたお言葉も、なされた御業も、明快でクリアカットです。旧約の預言書のような漠然とした感じは、全くありません。ベールに包まれた感じは、全くありません。ですから、福音書に書かれた主イエスのお姿はハッキリしています。しかし、福音書には具体的な様々なことが書かれているがために、逆に、イエス様というお方が私たちにとって、どういうお方なのかという点が、ちょっとわかりにくいという感じが致します。

そういう時に、旧約の預言書を見ますと、あれほど漠然としていた預言の言葉が、ベールを脱ぎ捨てて、光を放って来る。イエス様はどういうお方か、どういう定めを背負って来られたのかということが、かえってハッキリするように思います。そういう意味で、旧約聖書と新約聖書は、互いに照らし合っている関係と言えると思います。そこで今日は、イザヤ書42章の預言の言葉を通して、私たちの主イエス様がどのようなお方なのか、その一点を心に刻みたいと願っております。まず1節に、こう書いてあります。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」

これは、神様が私たちに僕を紹介しておられる言葉です。「私が選んだ我が僕を見なさい」と紹介をしておられる。「僕」というのは「奴隷」のことですが、神様が「僕」と呼んでおられるのは、必ずしも奴隷身分の人間のことではなくて、ご自分の御心に適う人のことを「僕」と呼んでおられる。ですから、神様はここで「私の御心に適うこの人を見なさい」と言っておられることになります。

この言葉は、じつは福音書の中にも、類する言葉が出て来ます。例えば、主イエスがヨハネからバプテスマを受けられた時に、「これは私の愛する子、私の心に適う者である」という声が天から聞こえたと言われています。また山上の変貌の物語の中で、イエス様のお姿が光り輝いた時に「これは私の愛する子、私の心に適う者である。あなたがたはこれに聞け」と、天からの声が聞こえた。あの出来事も、イザヤ書42章の御言葉を思い起こさせる言葉です。

では、その救い主としての僕は、どのようなお方なのか。それが続けて語られていきます。1節から4節までの間に「裁き」という言葉が三度、出て来ます。1節には「彼は国々の裁きを導き出す」とありますし、3節には「裁きを導き出して、確かなものとする」というふうに出て来ます。そして4節には「この地に裁きを置くときまでは」とあります。

「裁き」と聞きますと、私たちは神様が下される天罰のようなものを連想しますが、じつはここに言う「裁き」というのは罰のことではなく、神様の御心のことです。つまり、神様はここで、こう言っておられることになります。

「わたしの僕は、わたしの御心をこの地上に確立する。」

いかがでしょうか。これを見ますと、福音書に記された主イエスのお言葉と御業のすべてが、ここから出ていることが、明らかになったのではないでしょうか。これは、預言の言葉を通して、救い主の姿が少しずつ見えてきた、ということです。

旧約聖書には、モーセがイスラエルの人々をエジプトから脱出させたというような、華々しい、なるほどこれは神様の御業だと誰もが思うような出来事が出て来ます。しかし、第二イザヤが語るこの僕は、どうでしょうか。2節と3節に、こういう言葉があります。

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」

華々しい姿など、微塵もない。これが神様が送ってくださる救い主だと、第二イザヤは語るのです。

「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことがない」と言われています。葦というのは、日本でも水辺に広く分布している植物です。まっすぐに伸びる性質がありますので、秤竿にしたり、杖にしたりします。ところが、これが傷つきますと、折れやすいのです。ですから、傷ついた葦はもう使い物にならない。邪魔になるだけです。だから、捨ててしまう。しかも、まだ完全には折れていないのに、それをぐしゃっと折って捨ててしまう。ところが、この僕は傷ついた葦を折ることをしない。

そして、この僕は暗くなっていく灯心を消すことをしない。灯心なんて、今の若い人は見たことがないでしょう。素焼きの小皿に油を入れて、そこに細長い灯心を入れて、灯心の半分は油から出しておく。その油から出た部分に火を灯して、灯りにするのです。ところが、しばらくすると、灯心が短くなって、バチバチと音を立てて、灯りが消えてしまう。「もうこんなの役に立たん。取り替えよう」と言って、さっさと捨ててしまう。

ところが、この僕は、暗くなってしまった灯心を消すことをしない。消えるがままに放置するのではありません。何とかしてもう一度燃やしてやろうと、懸命に苦心する。それがこの僕のやり方です。

傷ついて折れそうになっている葦。短くなって、消えかかっている灯心。これは、じつは私たちのことです。そして、傷ついた葦を包み込んで、もう一度まっすぐにしてくれる僕、暗くなっていく灯心を見捨てず、もう一度燃え立たせようと心を砕く僕は、私たちの主イエス・キリストなのです。預言書を読んで、ここに書かれている主の僕がイエス・キリストのことだと分かる。それが大事なことです。

確かに福音書を見れば、イエス様が実際に語られた言葉が書かれていますし、実際になさった御業も記されていますから、もう旧約聖書の預言書なんか読まないで、新約聖書の福音書だけで良いではないかと思われるかもしれません。しかし、福音書が語るイエス像というのは、具体的過ぎて、かえって今の私たちと主イエスとの関係が分かりにくくなる。そういうことって、あるのではないでしょうか。それが、旧約の預言書を見ると、ベールがかかったような表現が、かえって明瞭に、私たちとキリストとの関係を語っている。今日の箇所は、その典型です。

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。裁きを導き出して、確かなものとする。」

傷ついた葦とは、私たちのこと。暗くなっていく灯心も、私たちの姿です。どうしてそれが分かったのでしょう。イエス様が私を養い、傷を包んでくださったから。イエス様が消えかかった信仰の炎を再び燃やしてくださった。それが分かるということが、大事です。それが分かる場が、礼拝です。礼拝の中で御言葉に示されながら、救い主イエス・キリストと共に歩んで行く。それが大事です。ご一緒に礼拝者として歩みましょう。

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

8月4日(日)のみことば

「神は、追放された者が神からも追放されたままになることをお望みになりません。そうならないように取り計らってくださいます。」(旧約聖書:サムエル記下14章14節)

「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」(ローマ書5章18節)

今日の新約の御言葉は予型論と言って、アダムをきたるべき方であるキリストをあらかじめ指し示す存在として捉える考え方を示しています。私たちの信仰生活で、しばしば起こってくる問題は、自分は本当に救われているのだろうか。果たして、このままでいいのだろうかという不安だと思います。そういう自分の救いに対する焦りや不安というものが、しばしば信仰生活には起こってまいります。

この不安に対して、ローマ書がどういうメッセージを語っているか。それは私たちがすべてアダムの中に置かれているのと同じように、私たちはキリストの中に置かれている。あの人はアダムの末裔だが、この人はそうではない、なんてことはあり得ないわけです。すべての人がアダムの末である。それと同じように、すべての人がキリストの救いに与っている。誰一人として、この救いから漏れる人はいないのだ、と。そういうことを、パウロはここで語っているわけです。