聖書:詩編2編1~12節・マルコによる福音書1章9~11節

説教:佐藤 誠司 牧師

「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。」 (詩編2編1~2節)

「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り、憤って、恐怖に落とし、怒って、彼らに宣言される。『聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。』」(詩編2編4~6節)

 

 

今日は詩編の第2編を読みました。

「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。」

ここを読みますと、これは今の世界の状況を映し出した御言葉だなあと、つくずく思わされます。世界のあちこちに戦争があり、争い、いさかいが絶えません。神を畏れる心というものが全く見られない。神を畏れない心というのは、果てしなく続く自己正当化です。自分の正しさを主張し、お互いにその主張がぶつかり合って血を流しています。

それに対して、この詩編の詩人は4節以下で、こう述べています。

「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り、憤って、恐怖に落とし、怒って、彼らに宣言される。『聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。』」

ここにはこの詩編を書いた詩人の願いが正直に現れています。権力ある人間の思いやたくらみ、そういうものは神様の一言によって打ち砕かれてしまう。本当にこの世界を支配しておられるのは、主なる神なのだと。もろもろの王は互いに覇権を競い合っているが、神様はまことの王を聖なる山シオンに立ててくださる。

この詩編は、おそらく、イスラエルの王の即位の時に歌われた詩編だろうと言われています。そう考えますと、これはこの詩人だけではない。すべてのイスラエルの人々の願いが映し出された詩編と言えると思います。それほどに、当時のイスラエルは、周辺の大国同士の争いにさらされて、危機に瀕していたのです。

しかし、この願いは、歴史の中で一度でも叶えられたでしょうか。叶えられなかったのです。イスラエルに力ある王が現れることは、一度もなかった。それどころか、イスラエルの国は滅ぼされてしまった。じゃあ、この詩編の詩人が歌ったことは、嘘だったのか。夢幻だったのか。「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた」という、あの御言葉は、詩人の妄想だったのでしょうか。

いや、そうではなかった。あの御言葉は、この詩編の詩人すら思いもよらない仕方で実現した。それがイエス・キリストの到来です。キリストは王として来られたのです。その王に対して神様が言われた言葉が7節に記されています。

「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ、わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く。」

これが、その聖なる王に対する神様のお言葉です。いかがでしょうか。確かに素晴らしい言葉ではありますが、ちょっと違うのではないか。ここに言われていることは、実際のイエス様の御生涯とは違うのではないかと思われたかもしれません。ここには、絶大な力を持って人間の様々な企てを打ち砕いて行く王の姿が語られています。しかし、実際のイエス様は、そうではなかった。「屠り場に引かれて行く仔羊のように」という言葉のとおり、何も抵抗することなく、十字架の上で殺されてしまった。詩編の言葉とは、まるで正反対のような印象を受けます。

しかし、じつは、一見全く違うと思えるこの詩編の言葉は、主イエスの御生涯を本当の意味で現わしている言葉です。どういうことかと言いますと、9節に「お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く」と言われています。私たちはこの言葉を読みますと、大きな力をもって人間の様々な企てを打ち砕いて行く。そういう感じを受けるのですが、じつはそういうやり方というのは、本当の勝利ではない。主イエスがゲッセマネの園で捕らえられる時、弟子のペトロが剣を抜いて抵抗しました。その時に、イエス様は、こうおっしゃった。

「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」

こう言って、イエス様は黙って捕らえられました。これは、この場面だけではない。イエス様が生涯、貫かれた姿勢です。剣を持って剣を制す、人間の様々な悪行を力でもって鎮圧するというのは、本当の解決にはならない。力で制圧した者は、また別の力に制圧される。そして、争いは果てしなく続いて行く。このことは人間の歴史を振り返れば、たちどころに分かることです。一時はもう誰も逆らうことが出来ないほどの隆盛を誇って天下を制していた者が、あっという間に倒れて行く。そうして何が残ったかというと、何も残っていない。何も解決していない。なぜか。初めに権力を持って暴虐の限りを尽くしていた者も、後から力を持ってそれを制圧した者も、どちらも何者かに踊らされているからです。本当に彼らを動かしているのは、彼らの内に潜んでいる悪魔的な力、すなわち罪なのです。

罪に踊らされている人間というのは、いつも自分は正しいと主張します。相手が悪いと主張する。そして「天に代わりて不義を打つ」と言って、いろんなことをやります。この心の奥底に何があるかというと、自分が神のようになりたいという罪の根っこがある。この罪の根っこが断ち切られない限り、どんなに上辺で悪い者を倒しても、根っこが生きているのですから、手先は変わっても、あるじは一緒。そういうことを人間の歴史は繰り返してきました。

それに対して、それとは全く違う、本当に神によって立てられ、神様の御心を行う王が現れた。それがイエス・キリストです。ですからイエス・キリストは偉い王様のような権力を持って悪い奴らを征服するという形で問題を解決しようとはなさらなかった。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と主イエスは言われました。主イエスは、この言葉のとおりに、人間の奥底に潜む罪の根っこを打ち砕いて、神様のご支配を打ち立てられました。

7節に「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」と言われています。これは今日読んだマルコ福音書の第1章、主イエスが洗礼を受けられた場面を思い起こさせます。イエス様が洗礼を受けて水から上がられると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのです。ここから主イエスの公の歩みが始まったのですが、イエス様はその生涯の中で一度でも、敵をやっつけることをなさったでしょうか。なさらなかったのです。イエス様がなさったのは、神様の御心を忠実に行い、十字架への道を歩むこと。ただそれだけでした。だから神様は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」と言われたのです。

これは、私たちから見ると、いかにもはがゆく見える。頼りなく見えるのです。悪に対しては、もっとずばっと力を持って戦ってくれれば良いのにと思ってしまいます。イエスというお方は、黙って死んでいかれたお方です。犠牲の死というのは、ほかにもあるのです。あの人が死んだから国が助かったとか、人柱になって死ぬとか、そういうのは、ほかにも類はあるのです。日本にも特攻隊というのがありました。多くの若者が、まさしく死ぬために飛び立った。なぜ飛び立つことが出来たか。自分の死が国のためになる。愛する家族のためになると、そう信じたから、飛び立つことも出来たのでしょう。

しかし、イエス様の死は、そうではない。イエス様が死んだからローマ軍が撤退したというわけではない。言ってみれば、何の役にも立たない死に方だった。この何にも役に立たない死に方をイエス様がなさったということが、じつは非常に大事なことです。なぜ、イエス様はそうなさったのか。答えは一つです。父なる神様が「そうせよ」と望まれたからです。主イエスはそれをゲッセマネの園で示されました。神様がなぜ、こんな死に方をせよと言われるのか。その御心は、私たちには分からない。けれども、神様がそれを求めておられることだけは、ハッキリしている。イエス様は、父なる神に従順であるという、そのたった一つのために、死なれた。それが大事なのです。こんな無駄死には、人間には出来ないことです。誰も、そういう道は歩けない。その道をイエス様は歩まれたのです。何の役にも立たない死を、神の独り子が引き受けて死ぬ。その時に初めて、人間をその奥底で捕らえていたあの不従順、理屈が通らなければ従わないという、あの人間の不従順が打ち砕かれた。そういう道を主イエスは行かれた。これが、今日の詩編にあります「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた」ということの意味です。

私たちはこの詩編を読んで、特にその初めの部分を読んで、本当にこの詩編は今の世界を批判しているのだなあと、これは文明批判の詩編だなあと、そこで終わっていたなら、私たちは本当に聖書を読んだことにはならないでしょう。世相を批判するということは、自分をその世相の外に置くことです。いわば他人事です。自分を外に置いて、「今の世の中はけしからん」と憤慨している、その自分はどうなのか。じつは、この詩編の1節、2節に言われているのは、確かに世界全体の姿ではありますが、その中に、じつは私たちもいる。これは私たちの姿なのです。「なにゆえ、わたしは騒ぎ立ち、わたしはむなしく声をあげるのか」と言い換えても、少しも不自然ではないことに、改めて気が付きます。私の生活、私の心は、まさしくこのとおりです。

しかし、だからこそ、神様は「聖なる山シオンで、あなたの心に、私は自ら、王を即位させた」と言われる。イエス・キリストを私たちの中に、王として立ててくださったのです。

この詩編の7節の言葉は、福音書の中で、もう一度出て来ます。それは主イエスがペトロとヤコブ、ヨハネを連れて山に登られた時、イエス様の姿が変わってモーセとエリヤが現れた。あの時も、天からの声が聞こえた。

「これはわたしの愛する子、あなたがたはこれに聞け。」

私たちは、とかく理屈をつけて、自分は正しいことをやっていると思っています。けれども、イエス様に心底従っていた弟子たちさえも、本当はイエス様に従ってはいなかった。自分の野心や自分の理想、理念といったものを、イエス様によって実現しようと思っていた。それに対して、神様は「あなたがたはこれに聞け」とおっしゃったのです。

私たちも同じです。私たちはクリスチャンですから、神様の御心を知っていて、それに従っていると思いがちです。けれども、じつは、いつの間にか安心をして、いつでも主イエスにお聞きして、その御心に従って行く、そういうことが、ついお留守になっていることが多いのではないかと思います。そんな私たちに、神様は「あなたがたはこれに聞け」と言われる。絶えずイエス・キリストに聞くことが、求められているのです。なぜなのでしょうか。

イエス様を通して私たちに示される御心というのは、常に新しく私たちが聞いていかなければなりません。私はもうこれで十分というわけにはいかない。常に新しく聞いて行くと、どうなるでしょうか。御言葉に聞くところには、いつも驚きがあります。はっと目を覚ませられる瞬間があります。御心に従ってやっているつもりだったけれど、いつの間にか間違った道に入っていたなあ、なんてことが起こってきます。そういう驚きや反省の繰り返しが、信仰生活の豊かさであり、醍醐味ではないかと思います。絶えず御言葉を聞いて、打ち砕かれ、主の前にひれ伏して、そこからまた遣わされて行く。私たちには、そういう幸いが与えられていることに、改めて感謝したいと思います。

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

7月7日(日)のみことば

「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」(旧約聖書:ゼカリヤ書9章9節)

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ福音書12章13節)

今日の新約の御言葉は、主イエスがエルサレムにお入りになった時に人々が口にした歓呼の言葉で、ユダヤの人々が王を迎える時に歌った詩編の言葉です。つまり、エルサレムの人々は主イエスを自分たちの王として喜んで迎えたのです。この頃のユダヤは、すでに独立国ではなく、ローマ帝国の属州です。しかし、ユダヤの人々はそんなローマの支配を打ち破って自分たちに真の自由をもたらす王の出現を待ちわびていた。人々は、イエスこそその王なのだと口々に歌っているのです。

身勝手な期待と言えるかも知れません。今喜んで主イエスを王として迎えている人々が、ほんの数日後には主イエスに失望し、敵意を募らせて、ついには次のように叫ぶようになる。

「十字架につけろ。」

イエス様は、そんな人々の心を見抜いておられたはずです。今は喜んで迎えている人々が、1週間もしないうちに心変わりをしてしまう。そんな心を誰よりも鋭く見抜いておられたのは、主イエスであったに違いないと思います。しかし、主イエスは敢えて、王としてエルサレムに入られた。まことの王として来られたのです。