聖書:詩編3編1~9節・ヨハネによる福音書16章33節
説教:佐藤 誠司 牧師
「主よ、わたしを苦しめる者は、どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい、多くの者がわたしに言います。『彼に神の救いなどあるものか』と。 (セラ
主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高く上げてくださる方。主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。 (セラ
身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。
主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち、神に逆らう者の歯を砕いてください。
救いは主のもとにあります。あなたの祝福が、あなたの民の上にありますように。(セラ」(詩編3編2~9節)
今日は旧約の詩編の第3編を読みました。この詩編には、小さな文字で標題が記されています。昔の文語訳聖書と口語訳聖書は、この標題を本文に入れていなかったのですが、新共同訳聖書は標題を重んじて、この標題から詩編の本文が始まるのだと理解をしました。ですから、口語訳聖書と新共同訳聖書では、時に節の数え方が違う、なんてことも起こってくるわけです。今日の詩編第3編も、そうです。
「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」と記されています。この詩編の標題は、必ずしも歴史の事実を映し出したものではないと言われますが、それでも、この詩編第3編を読む時に、この標題が説明している詩編の背景を考え合わせることは、この詩編を理解する上で大事なことだと思います。
ダビデがアブサロムを避けて逃れたことは、旧約のサムエル記下の15章以下に記されています。アブサロムはダビデが最も愛した息子です。ダビデは最愛の息子に背かれて、攻められたのです。突然、襲撃されて、ダビデは命からがら逃げて行きました。連れているのは、わずかな手勢です。大急ぎでヨルダン川を渡るのですが、その時のダビデの状況を考え合わせますと、この詩編の2節、3節で言われていることの意味が、よく分かります。
「主よ、わたしを苦しめる者は、どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい、多くの者がわたしに言います。『彼に神の救いなどあるものか』と。」
私たちは、ダビデ王と聞きますと、絶対的な力のある強い王を連想しますが、実際はそうではなかったことが分かります。ダビデという人はユダ族の出身です。イスラエル民族は後に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しますが、じつはその前から、この民族は二つの勢力に分かれていました。そのほとんどの勢力が北のイスラエルであって、ダビデの前の王様サウルはイスラエル出身でした。そういう状況でダビデが王に即位したものですから、みんながダビデ王に忠誠を誓っているわけではなかったでしょう。
アブサロムは、そういう不平分子を誘って味方につけ、体制を固めた上で反旗を翻したのです。自分に敵対する者がいかに多いか、ダビデはその時に思い知らされたと思います。3節にあります「彼に神の救いなどあるものか」というのは、敵がダビデをののしって言っているというより、これまでダビデの側に着いていた人たちの中からも、「もうダビデはダメだ」と。そういうことを平気で言う人たちが出て来たということです。これは軍隊としては末期的な状況です。全く絶望的な状況だったということが、この2節と3節で浮かび上がってきます。
これは、じつはダビデだけの話ではありません。四面楚歌という言葉がありますが、そういう絶望的な状況というのは、私たちの人生においても、起こり得ることだと思います。そういう時に、どのようにして私たちは、それを克服することが出来るか。これは私たちの人生にとって、大変に重大なことです。これが、少々の難儀であれば、なんとか努力し、工夫をして、難局を切り抜けることも可能でしょう。しかし、万策尽きた、もう絶望だと、そういう思いになった時に、私たちはどう生きて行ったら良いだろうか。これは私たちにとって、大事な問題です。その大事な問題を、この詩編は私たちの前に差し出しているのです。
2節、3節で、大変に絶望的な状況が語られていることは、今、お話ししたとおりです。ところが、続く4節と5節は、どうでしょうか。
「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高く上げてくださる方。主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。」
いかがでしょうか。先ほどまでの絶望的な状況とは打って変わって、希望に満ちた信仰の言葉が語られています。これは、ここだけを見ると、素晴らしい言葉であり、とても感動的なのですが、正直言うと、なんだか繋がりが不自然と言いますか、そんなに急変しても良いの? という思いが拭い切れません。この繋がりは、いったい、どういう意味を持つのでしょうか。
ところで、皆さんは詩編を読んでいて、ところどころ、本文の下のほうに、小さい文字で「セラ」と書いてあることに気づいておられるでしょうか。この「セラ」というのは、今もって意味がよく分からないのです。しかし、分かっていることも、ある。どういうことが分かったかと言いますと、この「セラ」というのは、「一旦止まれ」ということではないかと。「一旦止まれ」などと聞きますと、なんだか交通信号のようですが、詩編というのは元々、神殿の礼拝で祭司と会衆が交互に歌うように朗誦していたものです。ところが、朗々と朗誦していきますと、だんだんとテンポが速くなる。そこで、ここは大事なところだぞ、という決定的な言葉の谷間で「セラ」と書いて、朗誦が一旦停止した。停止しただけではありません。祭司と会衆が沈黙の中、御言葉を思い巡らせた。祭司は言葉を発せず、会衆も沈黙を守っている。いったい、どのくらいの沈黙が続いたのかは分かりません。しかし、この沈黙の意味は大きいと思います。
「セラ」の前と後は、まさしく真逆、180度違います。セラの前には深い絶望が語られ、セラの後には神からの希望が語られています。これがすんなり繋がるはずはないのです。絶望と希望の間には深い谷があって、この谷を越えるには、どうしても信仰の戦いが必要になってくる。セラの谷間にある、あの沈黙は絶望が希望を生み出すための信仰の戦いだったのです。この戦いを経て初めて、詩人はあの希望の言葉を告白することが出来たのです。
「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高く上げてくださる方。主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます。」
私たちが深い絶望に襲われた時、この希望の言葉を告白することが出来るか。これが私たちの信仰の課題です。そこには長く辛い信仰の戦いがあります。絶望に襲われた時、信仰の無い人は絶望に負けてしまいますが、信仰に生きる人は、絶望に直面した時、信仰の戦いがある。あの「セラ」の谷間に起こった沈黙は、御言葉を思い巡らす信仰の戦いだったのです。
こうして見ますと「セラ」という詩編独自の間合いが深い意味を持っていたことが分かってきます。先にも言いましたように、これは意味的には「一旦止まれ」ということですが、一旦止まって沈黙を守る。その沈黙には信仰の戦いという深い意味があったのです。
その「セラ」が、この後、もう一度、出て来ます。詩人が「主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます」と言った、その後で、再びセラの沈黙が流れます。沈黙を破って出て来たのは、次の言葉です。
「身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。」
まことに何気ない表現のように見えます。床に伏して眠った。そして朝が来て、目覚めた。ただそれだけです。私たちも経験がありますが、心は不安で、心配事が絶えない時というのは、なかなか眠りに就くことが出来ないものです。しかし、この詩人は眠ったと言うのです。それは、心に平安を得たということです。そして、朝が来て、目を覚ました。何も特別なことではありません。私たちも一年365日、普通にやっていることです。ところが、この詩編の詩人は、その当たり前のことに、主なる神様の慈しみを見ているのです。平安の内に眠りに就き、健やかに目覚める。この一見当たり前の生活の中に、神の慈しみを見る。これは大事なことです。
この詩編の4節と5節に書かれている信仰の告白と6節に記された生活の出来事は、じつは私たちの信仰生活において大変に大事なことです。どういうことかと言いますと、私たちが信じるということは、ただ心の問題ではない。その信仰が毎日の生活の中で、どのように実を結んでいるかということが大事なのです。私たちには神の恵みが少ないのではありません。しかし、それを神の恵みとして実感し、感謝して受け取り、御名を賛美することが、いかにも少ないのではないでしょうか。この詩編の詩人がやっているのは、そういうことなのです。この詩人は、眠りに就き、目覚めるという当たり前のことの中に、神の恵みを見て、神様を賛美している。この賛美も「セラ」の谷間の沈黙の中で生まれました。
さて、この詩人は、こうして「確かに神様が私を支えてくださる」という確信を持つことが出来ました。だから、この詩人は「いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません」と言い切ることが出来たのです。この信仰に立った時に、次の言葉が詩人の口から出て来ます。
「主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。」
これは祈りです。私たちは、祈ることは何でもないこと、すぐ出来ると思いがちです。しかし、本当に信じて祈るということは、なかなか難しいことではないかと思います。「神様を信じておれば、祈らんでも助けは来る」と理屈では言えるかもしれません。しかし、信仰の実際から言えば、本当に信じた時に祈りは出て来ると私は思います。
皆さんはヤコブという人をご存じと思います。お兄さんのエサウになりすましてお父さんのイサクを騙して祝福をだまし取った。悪い奴なのです。このヤコブが故郷に帰ろうとした時、お兄さんのエサウが400人の部下を引き連れて迎えに来るという話を聞きました。これは「迎えに来る」と言いながら、自分を攻めて来るに違いないと。そこでヤコブはいろいろと手を打ちます。しかし、いくら万全に手を尽くしても、心に平安が得られない。その時に、彼が祈った祈りの言葉が創世記32章に記されています。
「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。」
こういう祈りをヤコブは祈ったのです。彼がまず第一に言っているのは、自分に与えられた神の恵みがいかに大きいものであったか、そのことを身に余ることだと感謝しています。それなら、これから先のことは恐れることはないはずですが、彼は非常に恐れています。私は兄が恐ろしいのだと正直に言っております。
信仰生活というのは、ある意味、そういう矛盾したものだと思います。神様の恵みを心から感謝しているのです。その感謝に偽りは微塵もない。しかし、神の恵みを信じているから何も恐れないかというと、そうではない。敵を恐れている。神の恵みを信じる心と敵を恐れる心。この一見矛盾した心のはざまに、祈りが生まれてくる。その祈りが今日の詩編の9節に記されています。
「救いは主のもとにあります。あなたの祝福が、あなたの民の上にありますように。」
「救いは主のもとにある」と、この詩人は祈っています。救いは主のもとにある。私たち人間のもとにあるのではない。この真実に行き着いた時に、この詩人の祈りは変えられた。先ほどまで「敵の顎を打ち、神に逆らう者の歯を砕いてください」と祈っていたのが、「あなたの祝福があなたの民の上にありますように」と、民全体の祝福を祈る者とされている。私たちも、この詩人のように、苦難の中で沈黙し、神様の御言葉によって支えられ、立ち直って行く。そういう恵みを味わう者でありたいと思います。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
6月23日(日)のみことば
「わたしたちと共にいてくださるように。わたしたちを見捨てることも、見放すこともなさらないように。」(列王記上8章57節)
「朝早く、まだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ福音書1章35節)
立場も主張も違う四つの福音書が口を揃えて言うことが、一つ、あります。それは、主イエスが祈りの人であったということです。しかも、一人、寂しい所に退いて祈る主イエスの姿を、福音書は印象的に描いています。当時「祈りの人」と呼ばれて人々の尊敬を集めたファリサイ派の人々は、人目につく街中で祈りを捧げました。しかも、ご丁寧に、定められた祈りの時間きっかりに賑やかな街角に到着するよう、時を見計らって出かけたのです。
しかし、主イエスは、そんなことはなさらなかった。むしろ人々から逃れ、弟子たちからも離れて、一人、祈られた。その祈りの中で、メシアの秘密が明かされ、神の子の定めが明らかに示されたのだと、福音書は語っているのではないでしょうか。だから、この祈りはゲツセマネの園における祈りまで続くのです。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、あなたの御心のままに行ってください。」
メシアの秘密、神の子の秘密は、じつにこの祈りの中に示されています。