聖書:イザヤ書42章1~4節・ルカによる福音書24章13~35節
説教:佐藤 誠司 牧師
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」(ルカによる福音書24章30~32節)
夕暮れ間近いエマオへの道を、二人の弟子たちが歩んでおります。その歩みに、ピタリと寄り添うように、復活の主イエスが歩んでくださり、道々、聖書を説き明かしてくださる。さらに主イエスは二人に乞われて、共に食卓を囲んでくださる。この光景が古来、多くの画家たちの心を捕らえて、優れた作品を世に送り出しました。レンブラントの「エマオの晩餐」が有名です。
週の初めの日のことです。主イエスが甦られた日、最初のイースターの日です。しかし、エルサレムからエマオに逃げるように道を急ぐ二人には復活の喜びはありません。17節に「二人は暗い顔をしていた」と書かれています。暗い顔。それは悲しみの顔であり、困惑の顔です。何が彼らを悲しませ、困惑させていたのでしょうか? 14節にこう書いてあります。
「この一切の出来事について話し合っていた。」
一切の出来事とは、この一週間の間に起こったすべてのことという意味です。この日は週の初めの日。ちょうど一週間前に主イエスはエルサレムにお入りになった。小さなロバの子に乗って、柔和な王、まことの王としてお入りになったのです。人々は歓呼の声を上げて歓迎しました。ところが、人々の期待は裏切られて、期待は憎しみに豹変し、歓呼の声は嘲りの声に一変した。
「十字架につけろ、十字架につけろ。」
そして主イエスは十字架の上でむごたらしい最期を遂げられた。この出来事を、彼らは道々、論じ合っていたのです。暗い顔つきになるのも、当然です。
すると、そこに一人の人物が近づいて来て、彼らと一緒に歩き始めるのです。ここでルカは注目すべき語り方をしています。15節と16節です。
「話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」
ルカはこの人物が主イエスであることを私たち読者に明かしているのです。しかし、二人の登場人物はそれを知らない。主イエスであることを知りません。この謎の同伴者は二人に影のように寄り添いながら、こう問いかけます。
「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」
すると、二人は立ち止まる。そして二人のうちのクレオパという人が、こう答えるのです。
「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存知なかったのですか。」
ずいぶんきついことを言ったものだと思います。あなただけが知らなかったとは、信じられない。そんな感じです。イエスというお方のことはエルサレム中の人々が知っているのに、あなただけが知らないなんて。彼らの呆れ顔が目に浮かぶようです。ところが、この同伴者は動ずることなく、さらに問いかける。
「どんなことですか。」
この言葉に促されて、二人の弟子たちは語り始める。歩みを進めながら語るのです。
「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。」
ここまでは事実関係を語っているのですが、ここから先へ行くと言葉の調子が変わってくる。これこれこういうことが起こったという事実関係ではなくて、彼らが主イエスをどのように思っていたのか。また一連の出来事によって彼らがいかに大きな衝撃を受けたか、いかに戸惑ったかが語られていく。いわば彼らは自分たちの心の内面を、問わず語りにこの同伴者に向かって告白していくのです。
「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」
彼らは主イエスの弟子ではありますが、これを読みますと、やはり彼らも他のユダヤ人とあまり変わらない望みを主イエスに対して抱いていたことが分かります。
つまり、主イエスの弟子とはいっても、主イエスに対して抱いていた期待は、普通のユダヤ人と何ら変わりはなかった。ということは、主イエスが何のために来られたか、何のために死なれたのか、その肝心要の一点に、未だ思いが至っていなかったということです。さて、彼らの言葉はさらに続いて、この日の朝の出来事へと及んでいきます。
「ところが、仲間の婦人たちが、わたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
ここに至って、なぜ彼らが悲しげな顔をして途方に暮れていたのかが明らかにされます。彼らは主イエスが殺されたから途方に暮れていたのではなかった。いや、それも彼らの心を暗く悲しいものにしてはいただろうけれども、途方に暮れるというところまではいかない。むしろ、彼らを戸惑わせ、途方に暮れさせていたのは、主イエスの復活の出来事だったのです。
これは、私たちが復活の物語を読むときに、いつも心に留めなければならないことだと思います。主イエスの復活の知らせを受けて、エルサレムで一番戸惑ったのは、ほかでもない、主イエスの弟子たちだったのです。婦人たちが天使の告げた言葉を彼らに伝えているのです。
しかし、それでも彼らは信じられなかった。いや、むしろ、主の復活の知らせが、弟子たちを困惑の極みに突き落したと言ったほうが正鵠を得ているかも知れません。彼らの最後の言葉がそれを証明しています。彼らはこう言ったのです。
「あの方は見当たりませんでした。」
見当たるという言葉を使っていますでしょう? 見当たらないって、どういうことでしょう。皆さんは、いったいどういう時に「見当たらない」という言葉をお使いになるでしょうか? 例えば、こういう場面を想像してみてください。メガネが無い。うっかり者の私のことだから、きっとどこかに置き忘れたに違いない。そう思って探します。さあ、そんなとき、どういう所を探しますか? 身に覚えのある所、すなわち「心当たり」のある所を探すのではないでしょうか? ところが、心当たりを探しても、見つからなかった。そういうときに、こう言いますね。
「いくら探しても、見当たらなかった。」
これが「見当たらない」ということです。ここにあるに違いない。そういう心当たりに結び付くのが「見当たらない」という考え方です。でも、その場合の「心当たり」って、何なのでしょうか? 先入観なのです。彼らは無意識のうちに先入観を持っていたのです。どういう先入観でしょうか? あのイエスというお方は殺されてしまわれたのだから、墓の中に遺体となって横たわっておられるに違いない。葬られた場所におられるに相違ない。これが彼らの先入観でした。だから、天使は言ったのです。
「あの方はもうここにはおられない。」
これは言葉を換えて言えば、あの方はあなたがたの先入観の中にはおられない、ということです。先入観のあてが外れたときに、人は戸惑います。そして途上に暮れるのです。しかし、そこに主イエスの声が響く。
「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
主イエスの言葉に注目してください。「栄光に入るはずだったのではないか」と言っておられる。この「はず」と翻訳されたところは、原文ではもっと強い表現が使われています。こんな感じです。
「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入らねばならなかったのではないか。」
主イエスの言葉の中に「ねばならない」という言い方が出て来るときは、必ずと言ってよいほど、父なる神のご意思を表すときです。こうなるのが父なる神の御心ではなかったかと、そう言っておられるのです。父なる神の御心は、どこに現されているか? 聖書でしょう? だから、このあと、この同伴者は二人の弟子に聖書を説き明かすのです。こう書いてあります。
「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」
一歩一歩、歩みを共にしながら、聖書を説き明かしてくださったのです。なんという幸いであろうかと思います。すると、夕闇が迫るころ、ついに彼らはエマオの村に到着します。ところが、この同伴者は、なおも先に行こうとしている。別れが来たのか、と、そう思った瞬間、彼らの口から言葉が飛び出します。
「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから。」
一緒に泊まってください、一緒にいてください。ひょっとしてこれは、キリスト者の誰もが最後の最後に抱く願いではないでしょうか? 目的地に着いて、人生の歩みが終わろうとしている。これまで共に歩んでくださったお方は、さらに先へ行こうとしておられる。そのとき、思わず出る言葉がある。
「主よ、わたしと共にいてください。」
すると、この同伴者は、彼らの願いを聞き入れて家に入るのです。おそらくここは彼らの家です。大急ぎで食卓が整えられたことでしょう。さあ、彼らがこの客人を食卓に招こうとしたそのとき、ちょっとした異変が起こります。客人であるはずの、この人が、なんと主人の座に着くのです。真ん中が主人の席です。真ん中におられる主がパンを裂いて、二人に手渡してくださった。「取って、食べよ」と言って。今日のお話の冒頭に紹介したレンブラントの作品は、まさにこの場面を描いています。
すると、彼らの目が開かれるのです。悲しみに閉ざされていた目が開かれて、主イエスであることが分かった、主イエスが一緒にいてくださることが分かった、その瞬間、その姿が見えなくなったのだと、ルカは語ります。
なぜでしょうか? 姿が消えた、見えなくなった瞬間に、解ったからです。主イエスというお方は、こういう仕方で共にいてくださる。こういう仕方で共に歩んでくださる。主イエスは生きておられる。自分たちは、その生きておられる主イエスと出合ったのだ、と、それが解ったのは、主イエスの姿が見えなくなった時だったのです。
これが信仰ということではないでしょうか。見えるから解るのではない。見るから信じるのでもない。肝心なのは見えなくなった時に、主イエスが共にいてくださることが解る。それはもう、信仰以外のことでは解らない真実ではないでしょうか? 彼らはついに、それが解った。すると、彼らは互いに顔を見合わせて、こう言い合うのです。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」
燃えるとは、どういうことでしょうか? 燃え尽き症候群という言葉がありますが、ここで言われているのは、もちろん、そういう燃え方ではない。深く、静かに、しかし確実に燃え続けている。あの燃えた炎が、今もずっと、自分自身を暖かく照らし、周りをも照らしている。平安の光となっている。
エマオに向かう二人の弟子たちが、絶望に捕らわれて、悲しみの歩みを続けていたとき、歩みを共にしてくださって、道々、御言葉を説き明かしてくださった。あのとき、彼らの心は本当の意味で燃えたのです。
復活の恵みとは何でしょうか? それは復活の主が共に歩んでくださるということ。エルサレムを失意のうちに去らねばならなかった二人の弟子たちが悲しみと落胆の歩みを進めたとき、主イエスはすでに共に歩んでいてくださいました。悲しみながら歩んでいるとき、既に主イエスは共に歩んでいてくださったのです。
私たちもそうではなかったでしょうか。悲しみの一歩、失意や落胆の一歩を孤独のうちに踏み出したその一歩一歩を、このお方は共に歩んでくださる。だから、キリストの復活の恵みというのは、私たちの一歩一歩の中にある。今日のこの礼拝から送り出されて歩む一歩一歩のうちにあるのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
3月31日(日)のみことば
「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。」(詩編126編1節)
「婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。」(ルカ福音書24章22~23節)
福音書が口を揃えて語るのは、キリスト復活の最初の証人とされたのは男の弟子たちではなく婦人たちだったということです。彼女たちは週の初めの日の朝早く、主イエスの遺体が納められた墓へ行くのですが、遺体は見当たりません。そこに天使が現れて「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げます。
ところが、彼女たちはそれを弟子たちに告げる際「主は復活なさった」ではなく「主は生きておられる」と告げたのです。「主は復活なさった」というのは事実を告げる言葉ですが、「主は生きておられる」というのは事実とは違う。福音を告げる言葉です。そして、彼女たちが告げた福音の言葉が、そのまま、教会が宣べ伝えるメッセージになりました。「主は生きておられる」。今も変わらないキリスト復活の福音のメッセージがここにあります。