聖書:創世記22章1~14節・ヘブライ人への手紙11章17~19節

説教:佐藤 誠司 牧師

「イサクは言った。『お父さん、火と薪はここにありますが、子羊はどこにいるのですか。』アブラハムは答えた。『我が子よ、焼き尽くす献げ物の子羊は、きっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。」(創世記22章7~8節)

「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22章12節)

 

今日は創世記22章の物語を読みました。おそらく、創世記のアブラハム物語の頂点をなす物語が、今日の物語であろうと思います。物語は、次の言葉で始まります。

「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。」

ここに「試された」という言葉が出ております。以前の口語訳聖書ですと、ここは「試みて言われた」となっていました。「試す」とか「試みる」という言葉は、じつは聖書の隠れたキーワードです。この言葉は「誘惑」という意味を持って、創世記3章のヘビの誘惑のお話に出て来ます。ヘビがエバに向かって「この木の実を食べたら死ぬというのはウソですよ。本当はこれを食べたら神様のように賢くなれますよ」と言って誘惑します。

また新約聖書ですと、福音書に荒野の誘惑のお話があります。主イエスが荒野で断食をして、空腹を覚えられた。そのとき、悪魔がやって来て「あなたが神の子なら、この石をおパンに変えて食べたらどうですか」と言って誘惑します。これが「試す」「試みる」ということです。

私たちは「試みる」とか「試す」という言葉を聞きますと、「試験をする」とか「試してみる」という意味に理解してしまいます。出来るか出来ないか試してみて、その結果、やるかやらないかを判断するという具合です。ところが、聖書がいう「試す」「試みる」という言葉は、もちろん、そういう意味もあるのですが、じつはもっと強い意味のある言葉です。どういう意味かと言いますと、ただ試すというより、「ある方向へ積極的に誘う」「強く引っ張って行く」という意味がある。あのヘビの誘惑が、まさにそうですね。あのヘビは、エバが食べるか食べないか、じっと見て試しているのではない。食べる方向へ食べる方向へと積極的に誘っている。罪へと誘い込んでいる。引っ張り込んでいる。あれが聖書の言う「試す」「試みる」ということなのです。

さあ、そうしますと、神様はアブラハムを誘惑なさったのかと思われる方もおられるかも知れません。しかし、もちろん、そうではないですね。「試す」とは、先ほども言いましたように、「ある方向へと強く誘う」ことです。ならば、神様はこのことを通してアブラハムをどちらの方向へと導いておられるのか。どういう道へと誘っておられるのか? その一点がこの物語の焦点になってまいります。

そこで、物語に入る前に、アブラハムとイサクの関係を今一度洗い直してみたいと思います。イサクは、アブラハムがもう年をとって、もう子供は生まれない、自分の後を継いでくれる者は無いと諦めていたときに、神様が「いいや、私はお前に跡継ぎを与える。そしてその跡継ぎを通して、子孫が空の星のように増える」と約束をしてくださって、その約束の成就として与えられたのがイサクです。年を取ってから出来た子供というのは、誰にとっても可愛いものです。「目に入れても痛くない」という言い方がありますが、まさにアブラハムはイサクを目に入れても痛くはない。まさに掌中の珠のように愛したのです。

ところが、それがアブラハムの信仰にとって、一つの危機だったのです。どういうことかと言いますと、イサクを愛するあまり、イサクを抱き締めている、すがり付いている。そういう関係の中で、アブラハムは神様から受けた信仰の祝福というものをイサクにちゃんと受け継がせることが果たして出来るのか? アブラハムがイサクをこよなく愛している。その愛には確かに偽りは無いのだけれど、どうでしょう。アブラハムがイサクを本当に愛するというのは、神様が生まれないはずのイサクを生まれさせてくださった、その目的、ご計画、そういうものを真正面から受け止めて、そこに立ってイサクを愛するという事にならなければ、本当に愛することにならない。愛するというのは、厳しいことなのです。

アブラハムにとって何が大切かと言えば、イサクを自分の手から神様に捧げるということ、自分のものではない、神様のものだという、その一点を心に刻むことが、どうしても必要になってくる。それは理屈の上ではアブラハムだって分かっていたでしょう。「イサクは私のものではなくて、あなたのものです」と、アブラハムだったら、そう言えたに違いない。

しかし、そう言いながら、心の中ではイサクにすがり付いているその手を離すことが出来ない。それが人間ですね。神様だって、そういう人間の弱さは重々承知しておられたと思う。「そうかそうか、人間は弱い者だから、仕方ないな」と、神様が苦笑して放っておかれたら、もうアブラハムとイサクは、ただの親子になってしまう。

しかし、神様にはアブラハムを祝福の源にするというご計画が、厳として、あるのです。ということは、イサクを祝福の跡継ぎにするという計画もあるということです。そこで、神様は思い切った仕方で、しがみ付き、抱き合っている、この親子の真ん中に割って入って、こうおっしゃったのです。

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山に上り、彼を焼き尽くす献げ物として捧げなさい。」

この声を聞いたとき、アブラハムがどう思ったか、そういうことを聖書は語っていません。だから、私たちもそういうことに深入りはしませんが、しかし、まあ、苦しんだには違いない。苦しんだ末に、アブラハムは、ああ、これは確かに神様が言っておられることなのだと分かった、そのとき、彼は「お従いします」と言ったのです。そして自分の手で一切の用意をした。薪を割り、刃物を研いで、イサクに薪を背負わせて、モリヤの山に向かって歩みました。彼らは三日の間、歩いています。ということは、後戻りする時間は十分あったわけです。一歩、一歩、確実に我が子の死に向かって歩んでいる。しかも、途中でイサクが言うのです。

「お父さん、火と薪はここにありますが、子羊はどこにいるのですか。」

胸がつぶれる思いがしたことでしょう。アブラハムは答えています。

「我が子よ、焼き尽くす献げ物の子羊は、きっと神が備えてくださる。」

これは、もちろん、神様が山の上に子羊を用意しておられるなんてことをアブラハムが期待したわけではない。このイサクこそが、神が備えたもう犠牲の子羊なのだと、彼は心底思い到ったと思います。そして二人は、なおも歩いて行きます。この一歩一歩歩んで行くというところに、私は味わい深い聖書のメッセージがあると思います。

どういうことかと言いますと、キリスト教の信仰というのは、ある意味、単純明快なものですから、頭で考えている時は、割と簡単なのです。ところが、その単純明快な信仰が、人生を一歩一歩歩んで行く中で、どうなっていくか。私たちが信仰をもって、いざ人生を生きて行こう、歩んで行こうとするとき、思いもよらない波乱や葛藤、苦しみを引き起こすことがあります。これはもう、皆さん、日常生活の中で、経験なさっておられることだと思います。そういう時、信仰が無かったなら、どれだけ楽だろうと思うことすら、ありますね。

しかし、その人生の一歩一歩の中、辛い試練の中に、信仰というものが、じつは明確な形をとって現れて来る。信仰に中身が詰まってくるのです。それがご利益宗教ではないキリスト教信仰の大きな特徴です。痛みや葛藤を伴うことかも知れません。しかし、そういうことが無かったら、私たちが口で告白している信仰の中身が結局、分ぼやけてしまう。そういう痛み、葛藤の只中で、神様はなぜ、信じて生きている私に、こういう理不尽なことをなさるのか、試みることをなさるのかと。これは信仰者にとって切実な問題であり、課題であると思います。しかし、ここが私たち信仰者にとって、勝負どころであり、肝心要の部分です。

新約のヤコブの手紙を見ますと、神は人を誘惑なさるようなお方ではないと書かれています。誘惑は人間の情欲から来るのだとヤコブ書は言うのです。神様がなさるのは、誘惑ではなくて、試みです。人をある方向へと誘い導くのが「試み」です。悪魔の試みは、言うとおりにしたら、必ず滅びる。しかし、神様の試みは違います。どんなに痛みを伴っても、必ず良い方向へと導かれる。アブラハムの場合が、まさにそうでした。

アブラハムがいかにイサクを大事に思っていても、本当にイサクがアブラハムの祝福の子となり、祝福の跡継ぎになるためには、どうしてイサクを神様に捧げなければならなかった。握り締めている自分の手を離さなければならなかった。「これは私の子」と思っている自分の手を本当に離さなければならない。そうすれば、神様はイサクをもう一度、返してくださる。その、返って来る時のイサクは、元のイサクではない。これこそ、本当にアブラハムの祝福を受け継ぐ祝福の子として返って来る。しがみ付く手を離すというのは「神様、あなたにすべてお委ねします」ということです。お委ねしますと口では言っても、今自分が手を離したら、死ぬことになるのではないかと、いろんな恐れや不安が胸をよぎります。

しかし、神様はそれを求めて来られたのです。そして、アブラハムはついに、イサクに刃物を振り下ろそうとした。なぜそんなことが出来たのでしょうか? 「たといイサクが死んでも、神はこのイサクを返してくださる」と、そこまで信じたからです。今日読んだヘブライ人への手紙の中に「アブラハムは死者の中からイサクを返してもらったのだ」と書かれていました。神は必ずイサクを甦らせて、返してくださると、アブラハムは信じたのです。

我が子は死ぬだろう、しかし、神は我が子を返してくださる。そう信じ得たとき、アブラハムは我が子に刃物を持った手を降ろすことが出来ました。そのときに、天からの声が響くのです。

「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」

「今、分かった」というのは読み間違えてはならない大事なところです。神様は今ごろ分かったのか、試してみないと分からないのか、と、そのように読んでしまいますと、これはもう、元も子もない。お話の表面を素通りするだけ。代わりの雄羊が見つかって良かった良かった、万々歳で終わってしまいます。この物語は、そういうことを言っているのではない。「今、分かった」というのは、「今の今まで分からなかった」ということではない。神様はこう言っておられるのです。

「今、あなたは本当に信じる者になった。かつて口で告白していた事が、あなたの人生の中で今、実を結んだ。あなたは、今、そういう者になったのだ」と、そう言っておられる。それが「今、分かった」ということの本当の意味です。これは言い換えますと、「あなたの信仰があなたを救った」ということでしょう? そういう信仰が、備えられていた。

私たちにも、同じ導きが向けられています。口で告白していた信仰が、人生の一歩一歩の歩みの中で、試練や葛藤、悩みと出会いながら実を結ばせていく。本物の中身を獲得していく。「主の山に備えあり」。神様が備えておられたのは、身代わりの雄羊などではない。そういうモノが備えられたのではなくて、本物の信仰が備えられていた。試練の果てに備えられたのです。

私たちの人生は、いつも試みの中にあります。試みとは、ある方向に強く誘うこと、引っ張り込むことなのだと申しました。これは悪魔の誘惑とは違います。悪魔の誘惑は、私たちを滅びへと引っ張り込もうとする。しかし、神様のなさる試みは違います。本物の信仰へ、揺るぐことのない信仰へと、神様は私たちの教会を引っ張ろう引っ張ろうとしておられるのです。

私たちが大きな試みに遭う時、神様に向かって「あなたにすべてをお委ねします」と言おうとした時に、私たちの心の中には、様々な不安や恐れが駆け巡ります。ああなるんじゃないか、こうなってしまうのではないかと、不安や恐れは心の谷間に山びこのように響きます。ひょっとすると、ダメになるのではないか。いろんな不安が起こってきます。

しかし、神様というお方は、そういう最悪の事態も含めて、「神様、あなたにすべてを委ねます」という信仰を求めておられます。しがみついている手を離すのです。

私たちには、それが出来るはずです。なぜなら、私たちは、嵐の中にも共にいてくださるイエス・キリストに支えられて信仰の闘いをしているからです。その闘いや試みの嵐の中で、ああ、これはダメかも知れないと思っても、私たちは嵐の中で御言葉を聞きます。その御言葉に押し出されて一歩を踏み出した時に、必ず道が開かれる。これこそ「主の山に備えあり」ということの本当の意味だと思うのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

1月28日(日)のみことば

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(旧約聖書:創世記2章7節)

「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい。」(マタイ福音書10章28節)

体を生かしている命があります。生物的な生命のことです。それに対して魂を活かす命があるわけです。その命とは、もはや生物的な生命のことではない。今日の旧約の御言葉が語っているのが、この命です。神様が命の息を吹き入れてくださった。それによって人は生きる者となったと書いてあります。この「生きる者になった」というのは、ただ単に生物的な意味で生きるようになったということではありません。神の呼びかけに応え得るようになったということ。平たく言えば、神様に返事が出来るようになったということです。

これは神様と真向き合いになっている、ということです。真向き合いになると、おのずと「あなたと私」と呼び合う関係になります。つまり、人間の本来の場所というのは、神様と真向き合いになって「あなたと私」と呼び合うことが出来る場所のこと、つまり、神様の前なのです。ここから外れていくことが「惑う」ということです。