聖書:創世記3章1~19節・ローマの信徒への手紙5章20~21節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものとする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。』神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで、お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る。』」(創世記3章16~19節)
「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマの信徒への手紙5章20~21節)
今日は創世記の第3章の御言葉を読みました。ここは楽園が出て来たり、ヘビが誘惑をしたりと、なんだか御伽噺のように思われるかもしれませんが、じつは人間の罪の真相を、非常に深く、鋭く語っている稀有な物語であると思います。
アダムとエバは、エデンの園に住んでおりました。このエデンの園は、食べる事、着る事、住まいの事はもちろん、その他のいろんな人生の悩み・苦しみというものが一切無い。文字通りの楽園でした。ところが、そこに罪が入って来たことで、あらゆる苦しみが入って来たのです。16節に、神様がエバに言われた言葉があります。
「お前のはらみの苦しみを大きなものとする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」
ここに男女の性別が、本来持っていた祝福を失って、呪いの下に置かれてしまったことが語られています。さらに17節以下には、アダムに対して神様が言われたことが記されています。
「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」
何が言われているかと言いますと、人間がその中で生きている環境と人間との間に、呪いの関係がある。その環境の中で人間が生きる糧を得るためには、非常な苦しみを経なければならなくなった。人はこうして苦労して生きていくわけですが、その結果、人はいったい、どうなるか。それが19節に言われています。
「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで、お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る。」
苦労して生きて来た結果、良いものは何も残らない。ただ労苦と災いだけが残った。これは本当にわびしいことだと思います。創世記はこれが罪の結果であると教えている。しかも、この定めはアダムとエバだけでなく、アダムとエバに始まるすべての人間に入って来た定めなのだと聖書は言う。ですから、人間の問題というものを、とことん追い詰めていきますと、罪ということに帰って行きます。人間のあらゆる問題は罪の故なのだと。罪のために、こうなった。だから、罪の解決がなければ、ほかにどんなことをしても、本当の解決にはならない。
では、罪とはいったい何かということになります。よく「キリスト教は人を見たら罪人だ罪人だと言うので嫌いだ」と言う人がおられますが、そういう人は、罪というのは何か特定の人たちだけにある特別なことというふうに考えているようです。
昔、植村正久牧師が福沢諭吉と対談をしたことがありました。その中で、罪ということに話が及んだ時、二人の間で話が全く噛み合わなかったというエピソードが残っています。福沢は「私は清廉潔白で、品行方正だ。私に罪は無い」と言って憤り、罪ということを全く理解しなかったのです。
聖書が言う罪は、そういう特別なことではありません。すべての人間が心の根っこに持っているものです。根っこですから、目には見えない。だから厄介なのです。じゃあ、罪とはどういうものかと言いますと、神様なしでやっていく。それが聖書が言う罪の本質です。ヘビがエバに言った言葉が、まさにこの一点に狙いを定めています。ヘビはこう言ったのです。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
何を言っているかというと、神様のほかに自分がもう一人の神になることを、ヘビはそそのかしている。自分が人生の一人主人公になる。なんだか素敵です。いかにも魅力的です。しかし、これが罪の本質なのです。ですから、私たちは、自分が今立派なことをやっている、信仰深い生活をしていると思っているその時に、じつは心が神様から離れて罪の底に沈んでいる。そういうことが、ままあるわけです。
この神様から離れてしまったという事から、先ほど言ったような様々な問題が起こってくる。生きていくことが祝福でなくなる。男女の性が祝福でなくなる。子どもを産むこと、食べ物を得ることすら、苦しみとなる。そして、そんな人生を生きた果てに何が残るかと言えば、何にも残ることがない。土に返るのみ。塵に返るのみ。
聖書というのは、いちばん最初に天地創造があり、それから人間が造られたと語っていますが、これは話の順序としてそういうことを言わねばならなかったわけでして、聖書が本当に言いたいのは、じつに人間の、この深刻な現実と言いますか、人間がこんなに苦しみ、悶えあがいて生きながら、ついには何も残らないで土に返ってしまうこの人生。人間の性(さが)、空しさがどこから来ているのか。そして、どうすれば、この苦しみと虚しさから救われるのかという大問題を引っ提げて、聖書というのは私たちの前にその姿を現わしてきたのです。その問題を提起しているのが、この創世記の第3章です。人間のすべての問題は、人間の罪から来ている。だから、罪の解決なしには、人間の救いはあり得ない。どうしたら人間は罪から救われることが出来るだろうかという大きな問題を、一見、御伽噺のような素朴な物語の中で語っているのが、創世記第3章の物語です。この第3章の15節以下に、神様がアダムとエバに言われた呪いの言葉、罪に対する罰の言葉が語られていきますが、これらは皆、人間が神様から離れた、神様なんか要らないと考えるところから来ている。神様なんか無くったって、私の人生結構うまくやって行ける。そう考えている人は、たくさんいると思います。けれども、私たちの人生がいよいよ終わりに近づいて、自分の一生が、ただ空しいあがきに過ぎなかったということを思う時に、いったい私たちはどこへ行けば良いだろうか。自分が生きているというその根拠、意味。何のためにこんなに苦しむのか。なぜ額に汗を流して生きなきゃならないのか。自分が生きていることの意味は、いったい、どこにあるか。そういうことを思わないでしょうか。じつは、これが聖書が提示している問題です。
聖書を読んでいますと、人生経験の浅い人には浅い人なりの、深い人には深い人なりのメッセージというものが感じ取れると思います。ならば、深いメッセージがどこから来るかというと、文字としては書かれていないところから来る。そういうことがあるのです。例えば、今日の箇所、創世記の第3章には「罪と罰」ということが書かれています。文字として書かれているのは「罪と罰」です。しかし、皆さんは、この書かれていることの向こう側から聞こえてくるもう一つのメッセージをお聞きにならないでしょうか。
じつは、神様は、人間の罪に対する罰を語られた時、人間をこのまま呪いと滅びの中に打ち捨ててしまおうとは、考えておられなかったのです。土の塵から造られた人間ですから、塵に返る。それだけで放置されても、まあ文句は言えないわけです。ところが、神様は、神様なんか要らないと言って、御自分に背いた、この滅ぶべき人間を惜しんでくださった。「捨てない」と言われたのです。この御心が、じつは聖書が生まれてくる理由だった。罪を犯したから、もう捨ててしまえということだったら、聖書は生まれなかったでしょう。ところが、この滅ぶべき人間を神様が惜しんで、救う。この決断によって、聖書が生まれてきたのです。イザヤ書の43章の冒頭に、こんな御言葉があります。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」
ここに「わたしはあなたを贖う」と言われています。この「贖う」というのは、本人が自分が犯した不始末に対して何もすることが出来ないのを、ほかの人が犠牲を払って始末をつける、ということです。ここから贖いの儀式が生まれました。人々の罪を、人々に代わって犠牲の子羊が殺されて、その血によって人々の罪が赦されたのです。しかし、これはあくまで儀式です。儀式というのは本物ではありません。本物の形だけをなぞった影のようなものです。
私たち人間は神様に対して罪を犯しました。その罪によって冒涜された神様が、罪を犯した私たちに代わって罪の償いをしてくださる。これが本物の贖いです。この神による贖いが何を引き起こしていったか。それはもう皆さん、ご存じであろうと思います。聖書は、ここで旧約から新約へ一気に跳躍します。神の独り子が人となってくださって、私たちの身代わりとなって十字架の上で死んでくださったのです。
ここまで行き着く神の御心に立って、創世記第3章の物語は書かれています。あそこには人間の罪というものが、じつに鋭く指摘されていました。あれは、人間が悪いやつだから、捨ててしまえと言う意味で、人間の罪を暴き、断罪していたのではない。こういう罪にまみれた人間を、私は贖うのだ、という神の決意・御心を知らせるために、この創世記第3章は書かれなければならなかったのです。
私たちは、人間の罪がいかにして贖われているかということを通して、神様というお方をだんだん深く知っていきます。私自身、振り返りますと、若い頃は、神様に頼らなくとも、なんとかやって行けると、そこそこの人生は歩めるだろうと思っておりました。しかし、やがて教会に導かれ、聖書を読みながら歩むことを知ってから、人生の意味が変わりました。私の失敗、私の不始末、そういうマイナスの要素を通して、神様の贖いの恵み、慈しみというものが、この私の人生の上に現わされていることを知ったのです。そして、私などは、まだまだそこまでは行ってはいませんが、人間の愚かしさや罪の思い、取り返しのつかな失敗を通して、神様の愛や真実が現わされていくのが、人生の醍醐味なのだと分かっていく。それこそが、あの創世記第3章が語っていた、あの人生の苦しみの本当の意味なのだと解る。
これと同じことを、パウロはローマ書の中で、「罪が増し加わったところには、恵みはいっそう満ち溢れた」と言いました。人間の罪が深く、しぶとくなるにつれて、それを贖う神の恵みというものが、いよいよ深く、明らかになっていく。そういう人生に、私たちは生かされている。もうそこでは、私たちが絶望したり、やけくそになったりすることはない。どのような挫折の中にあっても、失敗の中にあっても、それを贖う神の恵みというものが、私たちを支えて生かしている。そのことをしっかりと心に刻みたいと思います。創世記の第3章には、一見、罪と罰しか書かれていないかに見える。しかし、本当はその背後に、どんなに深い神の恵みの真実が語られているか。また、私たちの人生に対する、どんなに深い希望が約束されているか。そのことを忘れないようにしたいと思います。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
1月7日(日)のみことば
「目を高く上げ、だれが天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方を。」(イザヤ40章26節)
「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいことはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。」(第一コリント書4章3~4節)
キリスト者には、こんな生き方がある、とパウロは言います。それは自分で自分を裁かない生き方です。他人を裁いてはいけませんというのは、それが出来ているか否かは別問題として、我々日本人にも馴染みがあります。ところが、自分で自分を裁かない生き方は、どうでしょうか? 北陸学院短期大学でキリスト教の授業を受け持っていたとき、毎年、学生たちにアンケートに答えてもらいました。その中に「あなたは自分が好きですか」という質問があるのですが、多くの学生さんが「嫌い」と答えました。自分が裁判官になって、自分自身に有罪の判決を下しているのです。私は、これは不幸なことだと思う。
しかも、この風潮は若い人々に止まらない。学校の先生、わけても校長先生の自殺が相次いだことがありましたし、国政を預かる大臣の自殺もありました。死んでお詫びを申し上げるとは、よく言われることですが、死んでお詫びが出来ますか? 死んで責任がとれますか? 神不在の日本人の不幸は、ここにあると私は思います。私を裁くお方は天におられる。このメッセージが大切です。