聖書:イザヤ書53章11~12節・マルコによる福音書15章42~47節
説教:佐藤 誠司 牧師
「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」(イザヤ書53章11~12節)
「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。」(マルコによる福音書15章46~47節)
今日開かれております御言葉は、十字架の物語の最後、主イエスの埋葬の物語です。こういうところを読むにつけ、つくづく、福音書とは不思議な書物であると思います。主人公の死を描く文学は多いのです。殊に、主人公が劇的な死を遂げる場合、多くの文学はその死をクライマックスにして物語を展開します。しかし、主人公の埋葬を描くなどという作品は、あまり例が無いのではないかと思う。しかも、新約聖書に収められた四つの福音書すべてが主イエスの埋葬を丁寧に語っているのは、どういうわけなのか。使徒信条だって、そうですね? 「十字架につけられ」という文言だけで、主イエスは確かに死なれたことは誰の目にも明らかなのに、そのあとに、わざわ「死にて葬られ」という文言が続いている。これも考えてみれば、不思議なことですね。これは、いったい、どういうことなのか? 皆さんはなぜだと思われるでしょうか。
一つ、こういうことが考えられます。キリスト教の歴史を振り返りますと、意外なことですが、主イエスを神の子と崇めまつる思いが思い高じて、そこに一つの誘惑が入り込んできたという事実があります。それはどんな誘惑かと言いますと、主イエスは神の子であり、神と等しいお方なのだから、死んでしまうのは、おかしい、と。神の子が人間の姿をとられたのは、言ってみれば仮の姿であって、十字架の死すらも、仮の死であったのだ、死んだように見えただけであったのだと、主イエスを神の子と崇めたい一心から、そういう主張をする人々が現れたのです。
キリスト教会は結局、この考え方を異端として退けるわけですが、皆さんは、どう思われるでしょう。主イエスを神の子と崇めまつる思いそのものは、決して間違ってはいない。むしろ純粋な信仰のように見える。ですから、主イエスの死は、本当の死ではなかった、仮の死であったと思いたい、信じたい。そういう思いは人間的には理解できると、そのように思われた方もあるかと思います。しかし、キリスト教会は結局、これを退けました。間違っていると判断したのです。なぜか? 主イエスが十字架につけられて死なれた。殺されて死なれた。それは本物の死であって、仮の死などではなかった。私たちと同じように死んでくださった。そして墓に葬られてくださったのです。死んで葬られるというのは、ここだけは神様抜きで、言ってみれば人間だけが主人公になり得る、人間の専売特許だと思っていたところに、主イエスが「私もあなたがたの仲間入りをする」と言って、入って来てくださったのです。だから使徒信条は「死にて葬られ」と告白しますし、四つの福音書は主イエスの埋葬までを丁寧に語る。
ここに、一人の人物が登場します。名はアリマタヤのヨセフ。おそらく、このとき既に老人であったと思われる。議員であったと書かれていますが、これはユダヤの最高法院の議員ということでしょう。いうまでもなく、最高法院は、主イエスの死刑を求めて総督ピラトに食い下がった人々が主流派を占めていました。しかし、ヨセフは善良な人であって、同僚の決議や行動には同意しなかったと言われています。
私たちも、しばしば経験するところですが、会議や話し合いが、ある方向に向かって一気に突き進むときというのは、たといその方向に反対の意見を持っていても、正面から反対意見を述べることは難しいものです。内心では反対したい、反対したいのは山々だ。けれども、反対できない、しかし、同意もしたくない。ヨセフは狂ったように主イエスの死を求める最高法院にあって、そういう微妙な立場にいたと思われる。で、結局、思いに反して、主イエスは死刑に処せられてしまった。ヨセフは自分の無力を、嫌というほど味わったに違いありません。しかし、彼は議員なのですから、今さら主イエスの死に責任がないとは言えない。ヨセフ自身、主イエスの死に責任を感じていたと思われる。加担はしなかったけれども、反対できなかったからです。ヨセフにはほろ苦い後悔の念があったと思います。
で、ヨセフはどうしたかと言いますと、勇気を出してピラトにところへ行き、主イエスの遺体を引き取ったのです。
この埋葬の有様を遠くから見ていた人たちがいます。主イエスを慕う女性たちです。この婦人たちの多くは主イエスと一緒にガリラヤから来た人たちです。どうして彼女たちは、なすすべもなく、遠くから見ていたか。彼女たちも、主イエスの遺体を心を込めて葬りたかったに違いないのに、どうして見ているだけだったかと言いますと、彼女たちはガリラヤから来た人たちです。彼女たちは旅人であり、このエルサレムに墓を持っていなかったということです。墓は自分の土地でなければ建てることが出来なかったのです。
創世記の23章に、アブラハムが最愛の妻サラを失って、埋葬する場面が出てきます。遠い外国の地です。アブラハムはサラを手厚く葬ってやりたいのですが、墓を建てることが出来なかった。そこで、彼はその土地の人々と交渉をしまして、土地を買い取り、そこにサラを葬ったと書かれています。ガリラヤの女性たちも、そうだったのです。主イエスを手厚く葬りたい、しかし、それは叶わぬことだった。そこで彼女たちは、ヨセフが主イエスを葬るその一部始終を遠くから見守るよりほかなかったのです。
先ほど私は、ヨセフは後悔の念に駆られて、自分のなし得ることだけをしたと言いましたが、それは決して容易なことではなかったと思います。ヨセフ自身、大きな犠牲を払って、主イエスの遺体を引き取り、葬ったと思われる。それはどういうことかと言いますと、46節に、こう書いてあります。
「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。」
ヨセフはわざわざピラトのところまで行って、遺体を引き取ることを願い出た。っているのです。これは勇気の要る行為だったと思います。そして、主イエスの遺体を十字架から降ろし、自らの手で遺体を清め、亜麻布に包み、自分のために用意していた新しい墓に、埋葬した。ユダヤでは遺体に触れることも汚れを意味しましたから、彼がこのことによって過越しの食卓に着けなくなったのは容易に想像が出来ます。ヨセフは、ユダヤ人としては当然の恵みであった、過越しの食卓という犠牲を払って、主イエスを葬った。心を込めて葬ったのです。なぜでしょうか? 43節に「この人も神の国を待ち望んでいたのである」と書かれています。彼は、主イエスを信じていたのです。
神の国を待ち望んでいた。この記述は、私たちに、ある物語と人物を思い起こさせます。それはルカ福音書が伝えるクリスマスの物語の最後に出て来るシメオンの物語です。シメオンも、ヨセフと同様、すでに老人でありました。またシメオンも、ヨセフと同様に神の国を待ち望み、イスラエルの慰められるのを待ち望んでおりました。つまり、彼らは共に救い主の到来を心から信じて待っていたのです。そして、この二人の老人は、自らの手で、主イエスの体を抱いています。一人は生まれたばかりの幼子イエスの体を抱き、もう一人は命が絶えたばかりの主イエスの体を抱いている。福音書はこれによって何を語っているのでしょうか?
今日のお話の初めのところで私はこんなことを申し上げました。キリスト教の歴史の中で、主イエスの死をめぐって誤った考えが入り込んできた。その考えとは、主イエスは神の子であるので、その死はまことの死ではなかった。仮の死であった。また主イエスは神の子であられたので、人となって生まれてくださったのも、じつは仮の姿であったのだと、このような考えが入り込んだのです。
福音書はそういう誤った考えに対して、降誕物語と受難物語を結び付けて答えたのではないでしょうか。まことの救い主の到来を信じ、神の国を待ち望む二人の老人に抱かれているこの小さな体を、あなたがたも見なさい。シメオンに抱かれている幼子の体、ヨセフに抱き抱えられている傷だらけの体を見よ。この方こそ、まことの救い主ではないか。この方こそ、まことの神であり、まことの人ではないか。まことの神が、まことの人となって生まれてくださり、まことの神がまことの人となって命をささげてくださった。私たちと共に歩むために。私たちを購い出すために。ここに福音がある。シメオンは幼子を抱いて、こう言いました。
「わたしはこの目であなたの救いを見たのですから。これは万民のためにあなたが備えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
ヨセフも今、主イエスのお体を抱いて同じ思いを強めていたのではないでしょうか。墓の前での出来事です。まだ誰も葬られたことのない、新しい墓です。ヨセフが、やがて訪れる自分の埋葬のために用意していた墓だったことが、これで分かる。そこに、主イエスが入り込んでくださったのです。「死にて葬られ」と、使徒信条は告白しています。死んで葬られること。これだけは神様には出来ないこと、人間が神様を押しのけて主語になれる。主人公になれるところであると、誰もが疑わない。そこに主イエスが「私も仲間に入る」と言って入って来てくださったのです。一緒に葬られるために入って来られたのでしょうか? 違います。墓を命に通じる門とするために、入って来てくださったのです。
キリスト教では墓前礼拝を行います墓参りではなく、礼拝なのです。お墓の前で賛美を歌い、感謝の祈りをささげ、主の御業を仰ぐ御言葉を聞きます。なぜそんなことが出来るのか? お墓の持つ意味が、主イエスによって変えられたからです。復活の望みの門となったお墓の前だから、感謝の礼拝が出来るのです。それは主イエスが生きておられるときに、すでに言っておられたことです。ヨハネ福音書の11章、兄弟ラザロの墓の前で嘆き悲しむマルタに向かって、主イエスはおっしゃった。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」
もし信じるなら、神の栄光が見られる。これが墓の前で語られた主イエスの約束でありました。私たちキリスト者は、この約束に生きることを始めた人間です。主イエスの命によって贖われ、主のものとされた人間たちが、感謝をもって命に向かって歩み始める。それが私たち教会の姿です。
これまで5回に渡って、マルコ福音書が伝える十字架の物語を読み継いでまいりました。その中でありありと示されたことは、私たちが頂いている罪の赦しとか、私たちが信仰と呼んでいるものは、すべて主イエスの命から来たということです。私たちは、罪に対して勝利した主イエスの戦いの、いわば戦利品として主のものとされたのです。そして私たちは今、主の教会のメンバーとされています。そのことの重みを、しっかりと受け止めていただきたいと思います。
アドベント第1日目
12月4日(月)のみことば
「わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。」(旧約聖書:詩編119編25節)
「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。」(ヨハネ福音書3章5節)
今日の新約の御言葉は主イエスがファリサイ派の議員ニコデモに語られた言葉です。「神の国」というのは「永遠の命」というのと同じです。「永遠の命」と聞きますと、いつまでも死なないことのように思ってしまいますが、それは間違いです。聖書はそういう不老不死ということに関心が無いのです。「永遠の命」とは、神様が私の中に生きてくださる。そして神様の命が私を生かしてくださる。そして私が神様の前に心安んじて立つことが出来る。それが「永遠の命」ということです。
そういうことが問題になっているのに、ニコデモにはそれが分からない。彼はファリサイ派ですから、自分の力で、律法を熱心に守って、正しい人間になることで救われると思っている。だから、イエス様の言われることが全然分からないのです。それに対して、主イエスは、人が自分の力で救われることは出来ないと言われる。じゃあ、どうしたら、人は救われるか、どうしたら「永遠の命」を得ることが出来るか。この問いに答えられたのが、今日の御言葉です。
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12月4日(月)のみことば
「わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。」(旧約聖書:詩編119編25節)
「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。」(ヨハネ福音書3章5節)
今日の新約の御言葉は主イエスがファリサイ派の議員ニコデモに語られた言葉です。「神の国」というのは「永遠の命」というのと同じです。「永遠の命」と聞きますと、いつまでも死なないことのように思ってしまいますが、それは間違いです。聖書はそういう不老不死ということに関心が無いのです。「永遠の命」とは、神様が私の中に生きてくださる。そして神様の命が私を生かしてくださる。そして私が神様の前に心安んじて立つことが出来る。それが「永遠の命」ということです。
そういうことが問題になっているのに、ニコデモにはそれが分からない。彼はファリサイ派ですから、自分の力で、律法を熱心に守って、正しい人間になることで救われると思っている。だから、イエス様の言われることが全然分からないのです。それに対して、主イエスは、人が自分の力で救われることは出来ないと言われる。じゃあ、どうしたら、人は救われるか、どうしたら「永遠の命」を得ることが出来るか。この問いに答えられたのが、今日の御言葉です。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
12月3日(日)のみことば
「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(旧約聖書:申命記6章5節)
「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこに留まって、その家から旅立ちなさい。」(ルカ福音書9章3~4節)
今日の新約の御言葉は、主イエスが72人の弟子たちを伝道に遣わされたときに、彼らに言われた言葉です。厳しいことが言われています。しかし、言われているのは明快なことです。明日のことを思い煩うなということです。ただの旅に出かけるのではありません。神の国の到来を告げる旅、福音を告げる旅に遣わされるのです。だったら、そこにすでに始まっている神のご支配に身を委ねて生きるのが、あなたがたの本来の生き方ではないかと主は言われるのです。
しかしながら、主イエスは食べ物や衣服は必要ないと言っておられるのではありません。主イエスご自身も、女性たちが黙々と奉仕をして提供くれる食べ物を喜んで食べられたし、彼女たちがしてくれる生活の様々な奉仕を喜んで受けておられました。福音を告げ知らせる人は福音によって生活をすべきことを主イエスご自身が実践しておられたのです。あなたがたが神のご支配を身をもって告げるなら、福音を身をもって告げるなら、その福音を受け入れた人たちが必ずあなたがたの衣食住の生活を支えてくれるはずだ。だから、その家に留まって、そこを拠点にしてそこから出掛けて行きなさい。主イエスはそう言われるのです。そしてこれが後の教会の原型となったのです。