聖書:詩編22編2~9節・マルコによる福音書15章33~39節

説教:佐藤 誠司 牧師

「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。」(イザヤ書53章4~5節)

「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか』という意味である。」(マルコによる福音書15章34節)

 

マルコによる福音書は紀元70年頃、ローマで成立したと考えられます。でも、なぜユダヤから一歩も外の出ることのなかったイエス・キリストの歩みを伝える福音書が、よりによって、ローマで成立したのか。疑問に思われる方も多いと思います。パレスチナにあるユダヤとヨーロッパ世界のローマは、地理的に遠く離れているだけでなく、文化的にも全くかけ離れた存在です。

どうして福音書がローマで成立したのか? この疑問に深い示唆を与えるのは、二人の人物の名前です。一人は主イエスの一番弟子であった使徒ペトロです。ペトロは、エルサレム教会を出て、キリストの福音を伝えるために地中海世界を広く旅したようです。その伝道の旅の最後に、ペトロはローマに行き着きました。ペトロがローマで、ローマ教会の人々と交わりを持ったことは想像に難くありません。

ペトロは、こうしてローマに滞在するのですが、ペトロとローマ教会の人々との交わりは、紀元64年に突然、断ち切られます。有名な皇帝ネロによる大迫害が起こって、ペトロは捕らえられ、逆さまに十字架につけられて殺されてしまうのです。ローマ教会の人々は、福音のさらなる前進のために、ペトロをローマから脱出させる努力をしたようです。ペトロも、一旦は彼らの勧めに従ってローマを脱出するのですが、ペトロの身に何が起こったのか、彼は炎が燃え盛るローマに引き返すのです。そして捕らわれて十字架刑に処せられるのですが、主イエスと同じ十字架につけられるのは申し訳ないと、自ら逆さに十字架につけられることを望んで、殉教の死を遂げました。

そして、もう一人、ローマとマルコ福音書を繋ぐ人物は、ローマ書の16章にその名前が記されています。そこをもう一度読んでみたいと思います。ローマ書16章の13節です。

「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」

そしてこのルフォスの名前が、マルコ福音書の15章21節に出て来るのです。そこを読んでみたいと思います。

「そこへ、アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理にかつがせた。」

ルフォスの父シモンは、あの時、偶然通りかかった道で、十字架を背負う主イエスと出会ったキレネ人シモンだったのです。このあと、ルフォスの父シモンも、その妻もキリスト者になりました。そして、やがて彼らの息子ルフォスも洗礼へと導かれるのです。パウロはルフォスのことを「主に結ばれている、選ばれたルフォス」と述べていますが、ルフォスの父シモンは、まさに主の十字架に結ばれて、主に選ばれて、その十字架の重さを身をもって味わった人だったのです。自ら進んでイエス様の十字架を背負ったのではありません。イエス様を自分の救い主と信じていたわけでもありません。偶然通りかかっただけ。しかも、無理やりかつがされただけ。ただそれだけの事が、シモンの生き方を根底から変えたのです。

シモン夫妻は、やがてローマへと導かれ、ローマ教会の一員となります。まことに不思議な導きであると思います。そして、そこでペトロとの出会いが備えられて、二人が伝えるキリスト像が、やがてマルコ福音書として実を結んでいくのです。

ペトロとキレネ人シモン。この二人が語って止まなかった主イエス像は、やはり十字架のキリストであったと思われます。主イエスを三度まで否認し、弟子として全くどん底に落ちてしまった。この普通なら再起不能の状態から立ち直らせていただいたのがペトロです。そのペトロと、主イエスの十字架を目の当たりにしたシモンが、互いに補い合うようにして語ったのが、十字架のイエス像だったのです。ですから、マルコ福音書は、全体の分量の半分近くを受難物語が占めるという、特異な構成になっています。他の三つの福音書のように、主イエスの教えやお言葉に多くの紙面を割くのではなく、ただひたすら十字架に向かう主イエスのお姿を語っている。主イエスの教えではなく、十字架に向かう歩みを淡々とした調子で語っている。それがマルコによる福音書の大きな特徴です。

そして、十字架の場面ですが、皆さんもよくご存知のように、イエスというお方は、十字架の上で七つのお言葉を発せられたと理解されております。讃美歌にもそのようなことを歌った曲がありますが、マタイ、ルカ、ヨハネの三つの福音書は、立場の違いこそあれ、十字架上の主イエスの言葉を大切に取り上げて記録しています。ところが、それらに対してマルコ福音書は、どうかと言いますと、他の福音書が大切に伝えている十字架上の主の言葉の多くを、カットしている。そぎ落としているのです。そして、マルコは、たった一つの言葉だけを伝えている。それが、今日の箇所の34節に記された、この言葉です。

「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか』という意味である。」

この括弧でくくられた部分は、今日、読みました詩編の22編の御言葉です。主イエスは十字架の上で詩編22編の言葉を叫ばれたのです。イエス様は神から見捨てられたことの深い嘆きと悲しみを詩編の言葉に託して叫ばれた。主イエスは神から見捨てられたことを心底悲しみ嘆いて、その苦しみのうちに死んでいかれたのだというのがマルコ福音書の主張です。

「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか』という意味である。」

この叫びは、詩編の暗誦などではない。父なる神に見捨てられた主イエスの深い嘆きと悲しみを、雄弁に語る言葉です。すると、これを聞いていた人々の中には「ああ、これは、エリヤを呼んでいるに違いない」と言う者もいた。これはイエス様を神の子だと信じている言葉ではありません。この男が本当に神の子だったら、エリヤが助けに来るに違いない。神が放置しておかれるはずはないと、そういう神と主イエスを試そうとする好奇心が言わせた言葉です。このイエスという男は、確かに不思議な奇跡を行った。だから、本当にこいつが神の子なら、こんな惨めな死に方で終わるはずはない。ところが、人々の好奇心に反して、主イエスは、もう一度、大きな声で叫ばれたかと思うと、すぐに息を引き取られた。つまり、十字架の周りにいた人々が聞いたのは、あの絶望の声だけだったのです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

これは明らかに主イエスの絶望の声です。嘆きの声です。神の子であるお方が、神に見捨てられて死んで行かれる。神の怒りを一身に受けて、呪われて、死んで行かれる。それを、神様は黙って見ておられたのです。ただ一つ、独り子の死を深く悲しまれた神様の御心を現す出来事が、短く記されています。それが38節です。

「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

この垂れ幕というのは、エルサレム神殿の一番奥にある至聖所と呼ばれる場所を隔てる幕のことでして、この至聖所には、その年の大祭司が年に一度だけ、贖罪の日に入って犠牲の血をささげる。それによって人々の罪を贖い取る。そういう儀式が行われたのです。従いまして、この垂れ幕の向こう側には、大祭司しか入ることを許されていない、まさに特別の場所なのです。その特別の場所と外の世界を隔てる垂れ幕が、裂けた。しかも、上から下に裂けたと書いてある。これは人の手によることではない。父なる神様の深い悲しみと怒りが、こういうところに現されたということでしょう。

そして、もう一つ、至聖所の垂れ幕が引き裂かれたことの背後には、マルコ福音書独自の神学的な意味が隠されていると思います。至聖所には年に一度、大祭司が入って、人々の罪を贖う動物の血を降り注ぎました。それは毎年、繰り返されました。一度だけではダメなのです。毎年、やらなければならなかった。つまり、これは、不完全ということです。

しかし、今や、イエス・キリストの十字架の御業によって、まことの贖いが成し遂げられた。これは完全な贖いです。毎年やらなければならない、などというものではない。完全な贖いが完全に成し遂げられたのです。だから、もう至聖所は必要が無くなった。そして、神と人とを隔てる垂れ幕も必要なくなった。だから、至聖所の垂れ幕は上から下に、神様の御心によって真っ二つに引き裂かれたのです。

さて、ここでもう一度、十字架の上で叫ばれた主イエスのお言葉を深く味わってみたいと思います。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

私たちが、この言葉によって深く心に刻まなければならないのは、父なる神様がご自分の独り子である主イエスを裁いておられる、見捨てておられる、ということです。なぜなのでしょうか。なぜ、神様はご自分の独り子を裁かれるのか、見捨てられるのか。ここで私たちが心に思い至るのは、クリスマスの出来事の真相です。神の独り子が人として生まれてくださった。私たち罪人と全く同じ肉体を持つ人間となって、この地上に生まれてくださった。それがクリスマスの出来事でした。なぜ、神の子が人とならなければならなかったか。それは、このお方が、すべての罪人の代表として、神に見捨てられ、裁かれて死んでいくため。イザヤ書53章の次の言葉が成就するためだったのです。

「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。」

主イエスは、まさに私たちの代表者になってくださった。そして、身代わりになってくださった。神様に見捨てられて死ぬという、誰も耐えることが出来ない苦しみ、誰も担うことが出来ない重荷を、主イエスは負うてくださった。神に見捨てられて、惨めに死んでくださった。それが主イエスの十字架の真相です。

そして、このお方が息を引き取られた、その時に、何が起こったか。それをマルコ福音書は、次のように描いております。39節です。

「百人隊長がイエスのほうを向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」

主イエスの死の有様を見て、百人隊長は「本当に、この人は神の子であった」と言ったというのです。これが他の三つの福音書には見られない、マルコ福音書独自の特徴です。これは、主イエスが神の子であることと、主イエスが十字架で死なれたことを結び付けた初めての信仰告白です。主イエスの十字架こそ、私たち罪人の救いなのだと初めて告白したのがローマの百人隊長だったのです。百人隊長の務めは何であったか。それは刑の執行そのものは部下の兵隊たちに任せて、刑の執行にまつわる、すべてのことを最後まで見届けることです。つまり、主イエスの死の有様を最もつぶさに目撃したのは、この人だった。そして、彼は、主イエスの死の有様だけでなく、その背後に隠された真実を見抜いた最初の人になったのです。

さあ、百人隊長とは誰のことか? この人はローマ人です。異邦人なのです。つまり、どういうことがここで起こっているかと言うと、律法も預言書も知らない異邦人、しかもユダヤと敵対しているローマ人が、十字架の主イエスこそが神の子であると、信仰を告白した。そこにこそ、マルコ福音書が一番言いたいことが、ある。マルコによる福音書は、ここローマで成立をしたのだと言いました。ペトロがローマに導かれてやって来ました。そして、主イエスに代わって十字架を背負ったあのキレネ人シモンもローマに導かれました。そして、ペトロも、シモンも、共にローマ教会の交わりの中に導かれたのです。そして、そこに十字架の福音を語るパウロの手紙、ローマの信徒への手紙が届くのです。さあ、百人隊長とは誰のことか? もうお解かりの方もあるでしょう。十字架の主イエスこそ、神の子、救い主と告白する百人隊長は、私たち異邦人キリスト者・あるいは異邦人求道者の代表なのです。マルコ福音書は、私たち読者を、この百人隊長の信仰へと導くために書かれた書物です。この百人隊長の信仰こそが、この福音書の目標なのです。この福音書は第1章で、主イエスの言葉を語りました。

「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」

この言葉と百人隊長の信仰告白の言葉を結ぶ一直線を、マルコは語りました。私たちの歩みは、この一直線上にあります。主イエスと共に歩み続ける、その歩みが祝されますように、祈りましょう。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

11月26日(日)のみことば(ローズンゲン)

「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる霊を、神よ、あなたは侮られません。」(旧約聖書:詩編51編19節)

「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、躓きとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」(新約聖書:ローマ書14章13節)

今日の新約の御言葉でパウロが打ち出していくのは、知識と愛の問題です。知識だけではダメなのだとパウロは言うのです。これは近代の理性が未だに解決し得ないでいる問題です。古くて新しい問題と言ってもよいかも知れません。難問なのです。どうして難問なのか? 私たちは、どうしても、理性の側に身を置いてしまうからです。愛の中へと踏み込んでいかないのです。

知識偏重の現代に対する鋭い問いかけが、ここにあります。あなたの知識が兄弟を滅びに導くなら、果たしてそれを知識と言えるか。火薬を発見した天才的科学者は、それが戦争で人殺しのために用いられていく現実を目にして、自分の知識を投げ捨てて後悔しました。原子爆弾を発明した科学者は、自分の知識を呪いました。原子力の平和利用という美名のもと、原発開発に邁進した学者たちが、今、それと同じ道を歩んでいます。知識は大切です。有益なものです。しかし、もっと大切なことは、その知識が兄弟愛と結び付いているか、愛と一つになっているか、ということです。