聖書:エゼキエル書34章11~16節・ルカによる福音書19章1~10節

説教:佐藤 誠司 牧師

「わたしは失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする。」 (エゼキエル書34章16節)

「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」(ルカによる福音書19章9~10節)

 

今日はルカ福音書が伝えるザアカイの物語を読みました。ユダヤの人々というのは、まあ日本でもそうですが、親が子どもに名をつけるとき、特別な思いや願いを込めます。ザアカイの場合も、そうでした。ザアカイとは「正しい人」という意味です。日本でいえば「正男」とか「正」という感じでしょうか? おそらく彼の両親が祈りと願いを込めて付けた名前だったに違いありません。ところが、この人は、長じて、その名にそぐわぬ人物になってしまいました。「正しい人」どころか、町一番の嫌われ者になってしまったのです。なぜなら、彼は徴税人の頭になったからです。

徴税人とは、読んで字のごとく、税金を徴収する人のことですが、これがただの税金ではなかった。ユダヤの国を支配していたローマ帝国に納めるための税金です。ローマ帝国のやり方はじつに巧みでありまして、その税金の取り立てをユダヤ人にさせた。徴税人になろうとする人は、ローマに高いフランチャイズ料を支払って、いわば徴税人の権利を買い取る形でこの仕事に就いた。税金を取られて喜ぶ人は、まずいません。まして憎き敵国であるローマに貢ぐための税金です。その取立て役を同じユダヤ人がやっている。こういう場合、人々の憎しみは、ローマ帝国よりも、そのお先棒を担いで税金の取立てをしている同胞に向けられることが多いです。裏切り者だからです。

徴税人のほうも、同胞から憎まれるのですから、面白くはない。腹いせに不正な取立てをして私腹を肥やす者がいたとしても不思議ではありません。第一、高いフランチャイズ料を払っているのですから、もとを取らねばなりません。ザアカイは、そのような徴税人の頭だった。親分だったのです。もうそれだけで、この町に於けるザアカイの立場が分かろうというものです。人々の憎しみと蔑みを一身に受けていた。そして、誰も彼の名前を呼ばなかったのです。どうしてでしょうか?

ユダヤの人々は、名前を呼ぶことを、とても大切にします。相手の名前を呼ぶことは、その人を祝福することでもあったからです。相手を祝福するときに、その人の名前を呼びました。創世記の49章に老人となったヤコブが12人の息子たちを祝福する場面がありますが、ヤコブは一人一人の名を呼んで祝福しています。相手の名を呼ぶことは、神の祝福を祈ることだったのです。これは教会の中に、今も名残を留めています。例えば、洗礼を受けるときや結婚式のとき、牧師が名前を呼びます。しかも、「何々さん」というような敬称を付けずに、名前だけを呼ぶ。あれには祝福の意味があったのです。

さあ、ひるがえって、今の日本の社会はどうでしょうか? 私の名は誠司といいますが、幼い頃、父や母、祖母からよく名前を呼ばれました。褒められる時も、叱られる時も、ご飯の用意が出来た時も、必ず名前が呼ばれました。幼稚園や小学校でも、先生が必ず名前を呼んでくれました。先生の質問の答えが分かったとき、手を上げる。すると、先生が名を呼んで当ててくれた。嬉しかったです。反対に、手を上げられなかったときに名を呼ばれたこともある。ドキッとしたけれど、不思議に心に響いたのを覚えています。

しかし、大人になった今、私たちは、名前を呼んでもらう機会がどれだけあるでしょうか。大人になると、子ども時代に比べて、名を呼ばれる機会は格段に少なくなります。愛情を込めて名前を呼んでくれた父や母もすでになく、名前が呼ばれる唯一の場所は病院の待合室になってしまった、などというお年寄は案外多いのではないかと私は思う。名目を呼ばれたときの、あの嬉しさ、晴れがましさを忘れて、すでに久しくなっている。孤独なのです。

しかし、本当に名前を呼んでくれるお方はいないのか? 私たちの名前を、心からの愛と祝福をもって呼んでくださるお方は、いないのか? その一点が今日の物語の肝心要になってまいります。

ザアカイ―。それは「正しい人」という意味の名前なのだと言いました。名前を呼ぶとは、その人の上に神の祝福を祈ることなのだとも申し上げた。ならば、この町のいったい誰が、ザアカイの名を呼んだでしょうか? 呼ばなかったのです。

そこに、イエスというお方が来られるという噂が広まった。エリコの町は、エルサレムに向かう街道沿いの町でしたから、街道を行き来する人々を通して様々な噂が届きます。「噂は千里を走る」と言います。イエスというお方が故郷のガリラヤを出て、ヨルダン川に沿って南へ降りて来られる。あれはきっと、エルサレムを目指しているに違いない。ならば、エリコの町を通られるはず。人々の期待は膨らんでいきました。主イエスがなさる奇跡の噂は、人々の噂の的になっていたのです。

ザアカイだって同じです。一度でいいから、イエスが見たい、会いたいのです。しかし、どうしても一歩を踏み出す決心がつかない。町の人たちと一緒になることに戸惑いがあったのです。しかし、期待のほうが勝った。主イエスがついにエリコに来られたと聞いて、ザアカイは意を決して家を出ました。一目でいい、一目だけでもいいから、主イエスを見たいのです。

ところが、ザアカイの願いは無残にも打ち砕かれます。すでに街道は黒山の人だかりで、ザアカイが入り込む余地はなかった。彼は背が低かったのです。ザアカイは必死で懇願したでしょう。しかし、嫌われ者のザアカイのために場所を空けてくれる人など、いなかった。一人もいなかったのです。ザアカイは自分の置かれた現実を嫌というほど突きつけられた。居場所がない―。これがこの町におけるザアカイの現実だったのです。

しかし、ザアカイも負けてはいません。主イエスがエルサレムを目指しておられることはザアカイも知っていた。だったら、街道を先回りすればよい。だがしかし、ザアカイは本当に主イエスが目指しておられる所を知っていただろうか? 確かに、主イエスはエルサレムを目指しておられたのです。その意味でザアカイの読みは正しかった。しかし、何を成し遂げるために、主イエスはエルサレムに向かっておられたのか? このときのザアカイは、そこまで先回りをすることは出来なかったのです。

さて、主イエスが歩んで行かれる先に、一本の木が立っていた。ザアカイはその木を目指して走った。いちじく桑の木であったと書かれています。この木はよく街道沿いに植えられたのです。なぜかと言いますと、この木は、幹の低い所から枝が横に伸びる性質があって、旅人に心地よい木陰を提供することが出来たのです。ということは、背の低いザアカイにはうってつけです。枝から枝へ、彼は登った。そしてじっと息をひそめて、主イエスの来られるのを待ったのです。

おそらく、ザアカイは無意識のうちに枝に身を潜ませたのでしょうが、私はこういうところに、ザアカイの孤独な心がよく現れていると思う。「木の間隠れ」と言いう言葉がありますが、木の上からだと、下はよく見えるのに、下からは見られにくいのです。見たいんだけれども、見られたくない。ザアカイの心境は、まさにそうだったのです。

しかし、ザアカイの願いは、思いもよらぬひと言によって打ち砕かれる。イエス様が近寄って来られた、そのとき、主イエスは突然に上を見て言われたのです。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい。」

名前が呼ばれたのです。これまで彼は「あの徴税人」と呼ばれたり「裏切り者」と呼ばれていた。ザアカイ・正しい人と呼んでくれる人はいなかったのです。それが、今、呼んでもらえた。主イエスによって呼んでいただけたのです。ザアカイは、すぐに木から降りて、主イエスを家に迎えたでしょう。突然の来客です。訪れる客など一人もいなかったザアカイの家に、客人が訪れた。客をもてなす用意など、してはいません。文字通り、身一つで、彼は主イエスを迎えたのです。ザアカイの浮き立つような喜びが伝わってきます。

ところが、町の人々が不平をつぶやいた。

「あの人は罪深い男の所に行って、宿を取った。」

しかし、ザアカイはすくっと立ち上がって、主イエスに言いました。

「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何か騙し取っていたら、それを四倍にして返します。」

何ということでしょうか? 驚くべき変貌です。ザアカイの心の中で、いったい何が起こったのか? ザアカイは今、自分の罪を認めて告白しているのです。しかも強いられてではなく、自ら進んで告白している。どうしてそれが出来たのか? これまでもザアカイは、町の人々から、同じようなことを言われてきたのです。あの男は罪人だと言われ、罪深い裏切り者だと繰り返し言われてきた。しかし、そのときには、ザアカイは自分の罪を認めることはなかった。認めるどころか、かえって、ますます頑なに心を閉じた。それはちょうど、海の貝ががさつに扱われると貝殻を閉じるのと似ています。

ところが、今のザアカイは、イエス様の手のひらに置かれた貝のように、心を開いた。心開かれただけではない。自分は本当に罪深い人間なのだと、喜んで認めている。どうしてでしょうか? 名前を呼ばれたからです。イエス様が名前を呼んでくださった。そのとき、彼の心は開かれた。その隙間に、イエスというお方はスッと入って来られた。今、ザアカイの家では不慣れなもてなしによって、祝いの席が設けられています。もてなしの用意は何もなかった。しかし、喜びだけがあった。人が一人救われた喜びが、そこにはあったのです。主イエスはその喜びの到来を宣言される。

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

今ここで起こっていることは、こういうことなのだとハッキリ宣言しておられるのです。ザアカイの心は、失われていたのです。人々に憎まれ、蔑まれ、無視される中で、ザアカイは心を閉ざしました。貝殻のように、固く閉じた。そうしなければ、生きてはいけなかったのです。

イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」とおっしゃいました。「この人に」ではなく、「この家全体に来た」と言われたのです。おそらく、ザアカイにも家族はあったのでしょう。妻が、子どもがいたでしょう。しかし、彼らはひっそりと身を潜めるように暮らしていた。夫の仕事を、父との生活を恥じていたのかもしれない。いずれにせよ、大手を振って町を歩くことの出来ない人たちです。そんな彼らが、今、主イエスの前に共に集い、主の御言葉を聞いたのです。

「今日、救いがこの家を訪れた。」

翌朝、主イエスは旅立って行かれた。エルサレムを目指して旅立たれたのです。ザアカイも家を出た。騙し取った金を返すために、家を出た。ザアカイの新しい歩みが始まりました。一歩一歩、町の人々を訪ね歩いた。しかし、そのときにも、主イエスはエルサレムを目指して歩んでおられたのです。そして1週間後、ザアカイは初めて事の真相を知る。エルサレムで、主が十字架につけられて死なれた。このとき、ザアカイは知った。自分の罪の行方を知ったのです。イエスというお方は、あの朝、自分の罪を全部背負って旅立って行かれた。そしてその罪を十字架につけてしまわれた。自分の罪だけではない。すべての人の罪を背負って、この人は歩んでくださった。その一点に心が開かれたとき、ザアカイは本当の意味で救われたのだと思います。

今日はザアカイの物語と併せて、旧約のエゼキエルの言葉を読みました。これは、ザアカイの名を呼ぶ主イエスの声と、エルサレムに向かう主イエスの姿を鮮やかに浮かび上がらせる言葉です。

「牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを捜すように、わたしは自分の羊を捜す。」

「わたしは失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする。」

ここに私たちの主であるイエス・キリストの姿があります。牧者が自分の羊を呼ぶように、私たち一人一人の名を呼んでくださる。私たちの名を呼んで「今日、あなたの家に泊まるから」と言ってくださる。そして「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言してくださる。主の言葉が響きます。

「今日、救いがこの家を訪れた。」

私たちも、心を開いて主イエスを迎え入れたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

11月12日(日)のみことば

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(旧約聖書:出エジプト記20章8節)

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(新約聖書:マルコ福音書3章4節)

今日の新約の御言葉は、安息日の会堂で主イエスがファリサイ派の人々に語られた言葉です。厳しい問いかけの言葉です。主イエスはこれをファリサイ派の人々だけに向かって言われたのでしょうか? 私はそうではないと思います。今、ここで礼拝をしている人すべてに向かって問うておられる。安息日は何のためにあるのか? イエス様が問うておられるのは、そこです。

ファリサイ派の人々によれば、安息日とは何もしない日です。ファリサイ派の人々の教えが、そうさせてしまったのです。しかし、本当に神様はそういうことを望んでおられるのか? 神が私たち人間に望んでおられるのは、安息日に善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。二つに一つを問うておられる。真ん中の道はありえない。神の前では、善か悪か、どちらかです。