聖書:ゼカリヤ書8章12~13節・ヨハネによる福音書15章1~10節

説教:佐藤 誠司 牧師

「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。わたしは、この民の残りの者に、これらすべてのものを受け継がせる。ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたたちは、かつて諸国の間で呪いとなったが、今やわたしが救い出すので、あなたたちは祝福となる。恐れてはならない。勇気を出すがよい。」(ゼカリヤ書8章12~13節)

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことが出来ない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書15章4~5節)

 

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

この有名な言葉によって幕を開けるヨハネ福音書の15章は、主イエスと弟子たちの最後の交わりを描いた章です。次の日には、イエス様はもう十字架につけられる。死が迫っている。別れが迫っているのです。その一点を心に刻み付けて読みますと、ここで言われていることの尊さが、なお一層よく解ると思います。つまり、イエス様は「別れ」を前にして、互いにつながることをお求めになったのです。ということは、どうでしょう? イエス様がおっしゃる「つながり」というのは、死が引き裂くことの出来ないものということになります。普通「つながり」と言えば、夫婦のつながりであれ、親子のつながりであれ、死によって終止符が打たれてしまいます。いかに愛していようとも、死を超えてなお夫婦の愛を貫くことは出来ません。親子の関係も、そうでしょう。

ところが、イエス様は死によっては引き裂かれない「つながり」があるのだとおっしゃる。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことが出来ない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

いかがでしょうか? 「つながる」という言葉が畳み掛けるように出て来ていますが、その登場の仕方に一つの特徴があることに、皆さん、お気づきでしょうか? 最初は「命令」として、次に「約束」として出て来ています。最初の「私につながっていなさい」。これは命令です。次の「私もあなたがたにつながっている」。これはもう「命令」ではありません。「約束」です。じつは、これがイエス様の命令の大きな特徴なのです。イエス様というお方は、命令だけを下すようなお方ではありません。命令と共に必ず「約束」をお語りになる。一つ例を挙げますと、マタイ福音書の最後の場面、28章の最後をご覧になってください。復活された主が弟子たちを派遣なさる場面で、イエス様はこう言われます。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

これらはすべて「命令」です。ところが、そのあとで、イエス様はこうおっしゃるのです。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

これは、もう「命令」ではない。「約束」です。しかも「私はいつもあなたと共にいる」という約束です。この「約束」を伴う「命令」は、もはや単なる「命令」ではありません。聖書はそれを「ミッション」と呼びます。「ミッション」とは約束、それも「私があなたと共にいる」という約束を伴う「命令」のことなのです。

皆さんの中にはミッションスクールを卒業された方がおられるでしょう。ミッションスクールを卒業するというのは、与えられたミッションに生きるということです。さあ、皆さんのミッションとは、何でしょうか? ミッションとは約束を伴う命令のことなのだと言いました。ならば、自分のミッションに気づくためには自分に与えられた「約束」に気づくことが大切です。さあ、皆さんに与えられた「約束」とは、どんな約束でしょうか? その一点を心に留めていただいて、もう一度ヨハネ福音書15章のイエス様の言葉に帰りたいと思います。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」

私もあなたがたにつながっている―。これが私たちに向けられた「約束」です。イエス様は「私につながっておれ」と命令するだけのお方ではありません。ちゃんと約束を添えて与えてくださる。その約束に気がついた時に、人生は変わります。人生の意味が変わるのです。実を結び始めるからです。この関係をイエス様は「ぶどうの木」とその枝に譬えて語ってくださいました。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

間違ってはいけないことがあります。枝が木を支えるのではありません。木が枝を支え、養い、実を結ばせるのです。この一点を勘違いしますと、おかしなことになります。例えば教会には様々な働きや奉仕を担う人たちがいますが、枝が木を支えるのだと思い込みますと、自分の働きが教会を支えているのだと思い込んでしまう。そして愛と謙虚さを失ってしまう。

しかし、本当は逆なのです。枝が頑張って実を結ぶから、ぶどうの木が栄えるのではない。私たちが頑張っているから、教会が盛んになるのではないのです。木が命をもって枝を支え、養っている。それと同じように、教会が私たちを支え、養っていてくれるから、私たちの働きが用いられ、豊かに実を結ぶことも出来るのです。そこを間違ってはいけないと思います。ぶどうの木とぶどうの枝の関係。それはあくまで、ぶどうの木が枝を養うということです。逆は絶対にありえません。ぶどうの木が命をもって枝を養い、その命が枝に行き渡って、枝に実を結ばせるのです。

イエス様はしばしば、私たち人間の生き方を木と実に譬えてお話しになりました。マタイ福音書の7章16節を開いて見てください。

「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、アザミからイチジクが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶことも出来ない。」

さあ、皆さんは、いったい、どんな実を結んでおられるでしょうか? 繰り返しますと、ぶどうの木に連なる枝はぶどうの実を結ぶのです。私たちがもし、おかしなものにつながっておれば、おかしな実を結ぶことになるでしょう。人がどんな実を結んでいるかを見れば、その人がいったい何につながっているかが解る。そういうものです。

ですから、私たちが実を結ぶその実りは、私たちの手柄ではありません。イエス・キリストが結ばせてくださる信仰の実りを、私たちはもらう。ただでもらうのです。だから、私たちが持っているものは、すべて「もらい物」です。使徒パウロは、驕り昂ぶるコリント教会の人たちに向かって、こう言いました。

「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているのなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」

さあ、私たちがもらっているものとは、いったい何なのか? 様々な答えが返ってくるでしょう。心の平安が与えられた方もおられるでしょう。柔和な心、愛に満ちた心が与えられたという方もいらっしゃるでしょう。何事にも屈しない勇気と生きる希望が与えられたという方もおられると思います。しかし、そこでもう一度、立ち止まって考えて頂きたいのです。それらは、いったい、どなたからのもらい物なのか?

イエス・キリストから頂いたのです。なぜ、頂くことが出来たのでしょうか? 私たちがイエス様につながっていたから、頂くことが出来たのか? 確かに、それもあるでしょう。しかし、それ以上に、イエス様が私たちにつながっていてくださったからこそ、豊かな恵みを頂くことが出来たのではないでしょうか?

私たちの教会では訪問聖餐式を行います。お年を召されて、礼拝にも祈祷会にも来ることが出来なくなられた方を訪問して、一緒にちいさな礼拝を守り、聖餐に与ります。その中で、いつも示されるのが、今日のイエス様の御言葉の真理です。もう教会に行くことも出来なくなったし、奉仕をすることも出来なくなった。つまり、自分の力でイエス様につながることが出来なくなったのです。

ところが、一緒に祈りを合わせていて、ひしひしと伝わってくるのは、あの「約束」の言葉です。

「わたしもあなたにつながっている。」

主が言われた「豊かに実を結ぶ」とは、こういうことなのだと思わされました。私たちが実を結ぶのではない。主が共にいてくださって、何も出来なくなってしまった私たちを、なおも養い、生かし、そして用いてくださる。これが私たちと主イエスとの関係です。今日はヨハネ福音書と併せて、旧約のゼカリヤ書の御言葉を読みました。

「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。わたしは、この民の残りの者に、これらすべてのものを受け継がせる。ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたたちは、かつて諸国の間で呪いとなったが、今やわたしが救い出すので、あなたたちは祝福となる。恐れてはならない。勇気を出すがよい。」

ここにも「約束」が語られています。「私が救い出すので、あなたたちは祝福となる」。これが私たちの姿です。ぶどうの幹につながって、実り豊かに生きる私たちの姿です。イエス・キリストにつながって実り豊かに生きる。私は、これが私たちに許された最も尊い生き方であると思います。

 

 

                   トリカブト

 

 

 

 

カブ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

10月22日(日)のみことば(ローズンゲン)

「心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。」(旧約聖書:詩編61編3節)

「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。」(新約聖書:ルカ福音書11章21~22節)

今日の新約の御言葉で、主イエスは何を言っておられるのでしょうか? 強い人が武装して家を守っているというのは、心を頑なに閉ざして身を守っている人のことです。ところが、もっと強い人がやって来る。主イエスがもっと強い人としてやって来られる。そして頑なに閉じられた心の中に入って来て、武具を奪い取り、家財道具を全部掻っ攫っていく。主イエスはここで御自分を強盗に譬えておられるのです。

あなたの心、頑なに閉じられたあなたの心にも、私は押し入って行く。あなたの心の扉を開き、あなたの心の只中に私は入って行く。悪霊を追い出し、聖霊を主人として住まわせるにふさわしい家に作り変える。聖書において「家」という言葉は、しばしば人の心の象徴として出て来ます。ここもそうです。だから、主イエスは家に押し入る強盗にご自身を譬えて語っておられるのです。主イエスのユーモアがここにあります。