聖書:イザヤ書43章4節・ルカによる福音書15章1~7節
説教:佐藤 誠司 牧師
「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。」 (イザヤ書43章4節)
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカによる福音書15章4~7節)
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近頃、テレビでよく耳にする言葉に「かけがえのない○○」という表現があります。じつは、この言葉は昨今の日本では一種流行の言葉のように用いられています。そういえば「かけがえのない命」とか「かけがえのない家族」という表現が、新聞、テレビをはじめとするマスコミにも、しばしば登場しています。
けれども、その用い方をよく見ますと、どうでしょう。ほとんどが、人が人をどう見ているかという視点から用いられているのです。親子の間で、あるいは夫婦の間で、互いに相手をかけがえのないものと思う。あるいは、友人同士が互いにかけがえのない存在だと思う。それはそれで素晴らしいことではありますが、これは裏を返せば、人からどう思われているかを気にする日本社会の特徴をよく表しているのではないかと思うのです。
人からどう見られているか、どう思われているか、それが気になって仕方がない。確かに私たちには、そういうところがあると思います。子どもたちは、親や教師にどう思われているかを結構気にしていますし、逆もまた然りです。親だって我が子にどう見られているかをやっぱり気にしている。増してや夫婦の間だと、なおさらではないでしょうか? この人は私のこと、本当に大事に思ってくれてるのかしらと、ふと気にしてしまう。他人が自分をどう思っているか、自分がどう見られているか。そういうことに、私たちは案外、神経を尖らせているのかも知れません。
けれども、そこに完全に欠落している視点がある。神様が私たちをどう見ておられるか。神様が私たちをどんなに深く心にかけてくださっているか。その一点に、私たちは日頃、ほとんど気に留めることなく生きているのではないでしょうか? そんな私たちの心を高く引き上げて、私たち一人一人に天からの眼差しが豊かに注がれていることを鮮やかに示してくださったのが、私たちの主イエス・キリストです。
主イエスが語ってくださった譬え話が三つ、ルカ福音書の15章に記されています。「見失った羊」の譬えと「無くした銀貨」の譬え、そして「放蕩息子」の譬えです。これらが語って止まないのが、天からの眼差しがあるということ、そして天には私たち一人一人の上に大きな喜びが備えられていることです。いずれも有名な譬え話ですが、今日はその中の「見失った一匹の羊」の譬え話をご一緒に読んでみたいと思います。
主イエスの譬え話は、それが語られたときの状況をしっかりと弁えておくことが肝心です。さあ、譬え話は、いったい、どのような状況で語られたのでしょうか。冒頭の1節と2節に、こう書いてあります。
「徴税人や罪人たちが皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と、不平を言い出した。」
この徴税人や罪人たちというのは、言ってみれば、神の恵みの外に追いやられていた人々です。救いの蚊帳の外に捨て置かれていた人々と言ってもよいと思います。それに対して、ファリサイ派の人々というのは、神の恵みに最も近い人たちです。律法に忠実で、神の御心を一番よく知っていると自他共に認めていた人たちです。そのファリサイ派の人たちが、徴税人・罪人と呼ばれた人たちを排除した。蚊帳の外に締め出したのです。
ところが、蚊帳の外に締め出されたこの人々に、主イエスだけは心開いて接してくださった。彼らに御言葉を語り聞かせ、さらに食事まで共にして、喜んで交わってくださった。だから、このときも、彼らは主イエスの御言葉を聞こうとして近寄って来たのです。おそらく、主イエスも彼らを喜んで受け容れておられたことでしょう。ところが、その有様を見て、ファリサイ派の人々が不平をつぶやいたのです。
「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている。」
どうしてファリサイ派の人々は不平を言ったのか? 徴税人や罪人と呼ばれた人々への差別意識が不平を言わせたのでしょうか? 確かにそれもあるでしょう。しかし、差別意識だけなら、そこまでは言わないのではないでしょうか。彼らを救いの蚊帳の外へ締め出すだけで、事足りたはずです。しかし、ファリサイ派の人々の思いは、それだけでは治まりがつかなかった。冷静沈着なことで知られる彼らファリサイ人たちの心を、それほどまでに駆り立てたものは、いったい何だったことでしょう? 皆さんは、何だと思われますか? そう、嫉妬だったのです。
これは私たちも経験することですが、嫉妬心ほどコントロールし難いものはないですね。一旦、嫉妬心が頭をもたげ始めると、もうお手上げ、抑えが効かないのです。だから、普段は冷静沈着なファリサイ派の人々が、嫉妬心の虜になった。
ファリサイ派の人々といえば、主イエスに敵対した人々というイメージがありますが、じつは意外なことに、彼らも主イエスを心から尊敬し、慕っていたのです。安息日ごとに主イエスが会堂でお語りになる御言葉に最初に心引かれたのは、おそらく彼らファリサイ派の人々であったと思われます。ならば、彼らが礼拝後の交わりを主イエスと共にしたいと願ったのは当然の成り行きでしょう。実際、ファリサイ派の人々は、互いに競い合うように、安息日の礼拝後の食事に、主イエスを招待しました。
ところが、主イエスの眼差しは徴税人や罪人と呼ばれる連中のほうばかりに向けられている。主イエスは会堂礼拝を終えられると、自分たちを置き去りにして、さっさとあの連中の所に行かれる。しかも、あろうことか、食事まで頻繁に共にしておられるではないか。そう思うと、もう冷静ではいられなくなる。嫉妬の念が沸々と沸き起こってくる。そして、彼らは言った。
「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている。」
嫉妬というのは、人間にとって最も厄介な感情なのかも知れません。ただの憎しみのほうが、よほど克服しやすいのです。ところが、嫉妬は違う。なかなか乗り越えることが出来ない。なぜか? 嫉妬は愛情の裏返しだからです。だから、嫉妬心は痛みを伴う。嫉妬というのは、それをする側にも、される側にも心の痛みがある。痛手がある。ファリサイ派の人々の心にも痛みがあったのです。
主イエスはその痛み、心の痛手をよくご存知であったと思います。だからこそ、徴税人・罪人と呼ばれる人々と、ファリサイ派と呼ばれる人々。この、嫉妬する側、される側の、両方の人々に向かって、両方の人々の心の痛みに向けて、譬え話をお語りになった。
さあ、前置きはこれくらいにして、「見失った一匹の羊」のお話に入っていきたいと思います。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」
ここまできたところで、この譬えは地上を離れて、一気に天にまで駆け上って行きます。
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
主イエスは何を言っておられるのか? 天にある喜びを、主イエスは垣間見せてくださっているのです。天には、私たち一人一人の上に眼差しを注ぐお方、父なる神がおられる。そのお方が、私たち一人一人のために、大きな喜びを備えて待っていてくださる。私たちの帰りを待っておられる。その喜びを、主イエスは今、私たちに、覗き見をさせておられるのです。「ここから覗いて見てご覧。天には、あなたがた一人一人に、こんなに大きな喜びが備えられているのだよ」と言って、天の世界を覗き見させておられるのです。「覗き見」などという表現は、主イエスのなさることを表現するには、あまりにも不穏当と思われるかも知れません。しかし、それ以外にふさわしい表現を見出せないほど、ここで主イエスは天にある喜びを生き生きと語っておられる。
その喜びとは、いったい、どのようなものなのか? それを、この譬えは、こう語っています。
「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」
この喜びは、独り占めには出来ないものだった。だから、一緒に喜ぶのです。
一緒に喜ぶのです。この喜びそのものが、独り占めされることを拒否しているかのように、あふれ出る喜びが、人々の心を潤し、人と人とをつないでいる。結び合わせている。この天の喜びに結ばれた人と人とが教会の交わりを形づくっています。
地縁や血縁という古い絆ではない。天からあふれ出る、神ご自身の喜びが、新しい絆となって、私たち一人一人を結び合わせるのです。だから、この喜びは、分かち合うことが出来る。この羊飼いは、近所の人たちや友達に向かって、「あなたがたは一緒に捜してくれなかったではないか」などという文句は一切言わない。あふれ出る喜びがある。そのあふれ出る喜びを、どうか、あなたも、あなたも、受け取ってくれないか。そう言って、ご自分の喜びを私たちの前にも、差し出しておられるのです。この喜びは、たった一人を惜しむお方の喜びです。今日読みましたイザヤ書は、その重みをこう語っておりました。
「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。」
父なる神様はこのような眼差しを、私たちの上に注いでおられます。金沢の教会におりましたとき、自分にも注がれているこの眼差しに気づいたときに洗礼を受けようと決心した女性がいました。この人は北陸学院短期大学の福祉学科の一期生で、大変優秀な人でしたが、礼拝に出ても、眠たくなるだけで、何も感じない。何のために礼拝するのかが分からなかった。ところが、ある日、学校の礼拝で、この見失った一匹の羊の話を聞いた。そのとき、自分がこの失われた一匹の羊だと気が付いた。すると、自分にも向けられている神様の眼差しに気がついたというのです。
かけがえのない、大切な人として、神様は私たちを見ておられる。その眼差しに支えられて、私たちはこの礼拝から遣わされていきます。それぞれの家族のもとへ、友人たちのところへ、一緒に喜んでくださいと、神の御前に共に集うために、喜ばしい一歩を踏み出したいと思います。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
10月15日(日)のみことば(ローズンゲン)
「神に従う人は弱者の訴えを認める。神に逆らう者はそれを認めず、理解しない。」(旧約聖書:箴言29章7節)
「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。」(新約聖書:ルカ福音書14章13~14節)
主イエスは「お返しの出来ない貧しい人々を招きなさい」と言っておられる。これまた解り易い譬えです。お返しが出来ない人々とは、誰のことか? あの人のことでしょうか。この人のことでしょうか。違うのです。聖書は、そういう他人事の問題提起は一切しない。一般論も聖書は語らない。ならば、「お返しの出来ない貧しい人」とは、誰のことですか? そう、私たちのことだったのです。そして、お返しの出来ない私たちを、招いてくださったのは、父なる神様です。御子の命によって贖い取って、招き取ってくださったのです。
この恵みに、お返しが出来るでしょうか? 「はい、神様、これがあなたへのお返しです」と言って、お土産を片手に持って、神様の前に立てるでしょうか? そんなの、ヘンですね。真実に神様の前に立つとき、私たちは丸裸で良い。救われたままの姿、贖い取られたままの姿で、心安んじて神様の前に立てばよい。「父よ」と呼びかけたら良いのです。そして、お返しではなく、心からなる感謝と賛美をささげれば良い。功無きままに救われるとは、そういうことなのですから。