聖書:創世記45章4~8節・マルコによる福音書14章12~21節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。だから、わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(創世記45章7~8節)
「そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水瓶を運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意の出来た二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。』弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。」(マルコによる福音書14章13~16節)
今日は主イエスが弟子たちに過越の食事の用意をさせる物語を読みました。とは言え、今日の個所で最も大切なのは、何と言いましても、主イエスご自身が、これから後に起こることの備えをしておられることです。主イエスは二人の弟子たちを遣わして、過越しの食事の準備をさせておられますが、結局はどうなったかと言いますと、彼らが出かけていきますと、主イエスがおっしゃったとおりの準備が万端、すでに整えられておりました。結局は主イエスがすべて準備をなさったわけです。で、エピソードの最後は、次の印象的な言葉によって締め括られる。
「弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだった。」
何気ない表現のように見えますが、私は、ここは案外、今日の個所の急所ではないかと思います。行ってみると、すべてが主イエスの言われたとおりだった。すべてが整えられていたのです。弟子たちは、さぞ驚いたことでしょう。
でも、今改めて振り返ってみますと、福音書は、同じような物語をあちこちに散りばめていたことに気付きます。これはルカ福音書が伝えていることですが、ペトロと主イエスの出会いの物語がそうでした。ガリラヤ湖の漁師をしておりましたペトロが、夜通し網を打ったけれども、魚一匹獲れなかった。それでも網を繕わなければなりません。獲物が無かったのに、網を繕わないといけない。徒労に終わるとは、まさに、このことですね。ガックリきているところに、主イエスが近づいて来られて、「もう一度舟を漕ぎ出して、網を打ってみなさい」とおっしゃる。昼のひなかに網を打っても、何も獲れないことは、プロの漁師であるペトロは百も承知です。だから、彼はこう答えました。
「先生、わたしは夜通し網を打っても、何も獲れなかったのです。」
ところが、ペトロという人は、面白いことに、そこで終わらずに、こう一言付け加えたのです。
「けれど、お言葉ですから、もう一度やってみましょう。」
そして彼は舟を漕ぎ出します。半信半疑だったかも知れません。しかし、網を打ってみると、果たして、主イエスの言われたとおりであった。網を破るほどのおびただしい魚が獲れたのです。これがペトロの原点となった主イエスとの出会いです。
そして、もう一つ、マルコ福音書の11章の1節以下に、こんなお話がありました。主イエスがエルサレムにお入りになるとき、前もって二人の弟子たちを使いに出して、こう言われる。
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない子ろばの繋いであるのが見るかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし誰かが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
二人の弟子が村に入ると、はたして、主イエスが言われたとおり、ロバの子が繋いであり、彼らがそれをほどいていると、これまた主イエスがおっしゃったとおり、ロバの持ち主が「なぜほどくのか」と言った。彼らが主イエスに言われたとおり「主がお入り用なのです」と答えると、はたして飼い主は、快くロバの子を渡してくれた。すべてが主イエスの言われたとおりになっていったのです。
今日の物語も、これらと同じように、ことごとく、主イエスが言われたとおりに運んでいく、主イエスの言葉が次々と現実のものとなっていく、その有様を、遣わされた二人の弟子たちが驚きをもって目の当たりにするのです。主イエスは彼らを使いに出して、過越しの食事の用意をさせようとなさいました。彼らが「どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねると、主はこうおっしゃった。
「都へ行きなさい。すると、水瓶を運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意の出来た二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
はたして彼らが出かけていくと、ことごとく主イエスの言われたとおりであったので、彼らは備えられた二階の広間に食事の準備をした。そういう物語です。
何気なく書かれていますが、水瓶を運ぶ男というのは、極めて珍しい存在であったようです。水瓶で井戸の水を汲んで運ぶのは、女性の仕事だったからです。そういえば、ヨハネ福音書4章のスカルの井戸の物語でも、水を汲みに来たのは、サマリアの女性でしたし、創世記24章で、アブラハムの僕がイサクの婚約者を見つける物語でも、僕は井戸のところで、水を汲みに来る女性の中からリベカを見つけます。
ですから、遣わされた弟子たちははじめ、半信半疑だったと思います。水瓶を運ぶ男が見つかるなんて、とても思えない。そう思っていたかも知れません。ところが、都に入ってみると、主イエスが言われたとおりのことが、次々と起こっていく。半信半疑だっただけに、彼らは驚いたに違いない。感動したに違いありません。そして、最後、人数分の席までが整えられた二階の広間を見せられたときには、彼らは驚きも感動も通り越して、主イエスの言葉の確かさに、ただただ心打たれたに違いありません。そしてこういうことの積み重ねによって、彼らは主イエスの言葉への信頼を培っていったのです。
そしてこれは、じつは彼らだけではない。パウロを含む主イエスの弟子たちすべてが経験したことです。あちこちの町や村に遣わされていく。パウロなどは、遠く地中海世界に遣わされていくわけです。心細かったに違いありません。大変な困難が待ち受けているに違いない。ところが、実際に遣わされて行くと、どうでしょう。まるでイエス様が一足先に来ておられて、準備万端整えてくださったかのようなことが次々と起こる。泊まる家が与えられ、食事が備えられ、御言葉を聞く人々が与えられる。そして彼らは行く先々で主イエスの声を聞くのです。
「恐れるな、黙っているな、この町にはわたしの民が大勢いる。」
主イエスが先回りをして、すべてを整えてくださる。必要なものを備えてくださる。主イエスが弟子たちの伝道を支えてくださったからこそ、弟子たちは福音を世界の果てまで伝えることが出来たのです。ですから、人の目には弟子たちが先頭に立っていたように見えますが、じつは、弟子たちのそのまた先頭には、常に主イエスがおられた。これが福音の世界宣教の真相です。
さて、今日の物語に戻りますと、すべてが主イエスの言われたとおりになっていた。これは、主イエスに予知能力があったということでしょうか? 確かにイエス様はすべてのことを予知しておられたと思われる。ユダの裏切りも、ペトロの否認も、ファリサイ派や律法学者たちの嫉妬の思いも、すべて予知して見抜いておられたことでしょう。しかし、それだからと言って、主イエスがまるで超能力者であるかのように理解するのは、いかがなものでしょうか? 私は、それは聖書の読み方として、間違っているように思うのです。これはただ単に先々に起こることを予知しておられるということではない。先回りをしておられる、ということなのです。
そういえば、復活の主イエスは、弟子たちのところへ急ぐマグダラのマリアの行く手に先回りをして待っておられましたし、弟子たちに「私はあなたがたより先にガリラヤに行く」とおっしゃった。主イエスは、しばしば先回りをなさるのです。先回りをして、そこで私たちと出会ってくださる。それが主イエスのなさり方です。ある人の先回りをするためには、その人のことをよく知っていなければなりません。行きそうな所を把握していなければならない。
しかし、主イエスの先回りは、警察の張り込みとは違います。警察の張り込みも、犯人のことをよく知っています。犯人の歩みを熟知しています。行きそうな所をしっかりと把握してもいます。しかし、その眼差しは、どうでしょうか。張り込みの眼差しは、厳しい疑いの眼差しです。主イエスの先回りは、これとは違う。愛の眼差し、憐れみの眼差しで見ておられる。ペトロが恐怖のあまり主イエスを知らないと三度も否認したときも、主イエスはあらかじめペトロの否認を知っておられたでしょう? そして、あらかじめ、ペトロに向かって、こうおっしゃいました。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしは、あなたの信仰が無くならないよう、あなたのために祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
これが主イエスのなさる先回りです。恐怖のあまり主イエスを否認してしまったペトロを、先回りして、そこでまた主イエスはペトロと出会ってくださるのです。そのときにも、主イエスはペトロの生き方を否定なさらなかった。私のことを知らないなんて言ったお前の生き方は間違っておる、なんてことはおっしゃらない。否認してしまう、弱い生き方しか出来なかったあなたが立ち直ったときに、あなたは兄弟たちを力づけることが出来る。だから、弱いあなたは、強がらなくても良い。弱いあなたは、弱いままで立ち直ってみなさい。私の手にすがって立ち直りなさい。その姿が、兄弟たちを力づけることになるじゃないか。
しかし、まだ謎は残ります。過越の備えをする物語や最後の晩餐の物語の前には、ユダによる裏切りの計画やファイ債はの律法学者たちによる主イエスを殺す計画が必ず語られています。主イエスは、ご自分を殺す計画をも見抜いておられたのでしょうか? もし、そうであるなら、主イエスはなぜその計画を阻止なさらなかったのか? やはり、そこが謎として残ります。
今日はマルコ福音書に併せて、創世記のヨセフ物語の終結部を併せて読みました。そこに、こんな言葉がありました。ヨセフが、かつて自分を憎んでエジプトに売り渡した兄たちに言った言葉です。
「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。だから、わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」
何を言っているかと言いますと、ヨセフがエジプトへ奴隷として売り渡されてきたことは、ただヨセフ一人の人生を神様が守り祝福するためではなくて、その背後に、もっと大きな神様のご計画があった。嫉妬のあまり弟ヨセフを憎み、売り飛ばし、殺そうとした兄さんたちの救いのためであった、それこそ神のご計画であったのだと、ヨセフはそう言っているのです。
これは旧約と新約をつなぐ、驚くべき真理ではないでしょうか。なぜかと言うと、兄さんたちの罪深い行いの中にさえも、神様のご計画はあったのだとヨセフは言っているからです。兄たちの罪の行為の中に、すでに神様が介入しておられたということです。人間の罪さえも、神様の計画の中にある、ということです。だから、神様は罪をも用いて救いを達成される。そして、ここから罪人を救いに導く福音が生み出されていくのです。
マルコ福音書が主イエスを殺す計画と過越しの準備を並行して語ったことの背後には、これと同じ主題があったと思われる。過越しの祭りとは、罪の贖いのことです。多くの人々の罪を贖う犠牲として、子羊が殺された。その血によって人々は罪赦された。そのことを記念する祭りです。主イエスは過越しの子羊として殺されていく。だから、マルコは主イエスを殺す計画と主イエスご自身がなさった過越しの備えを並行して語ったのです。そしてこの主題は次の十字架上の主イエスの祈りで一気にクライマックスを迎えます。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。」
これが私たちを先回りして出会ってくださる主イエスの眼差しです。愛の眼差しであり、憐れみの眼差しです。主イエスは私たちの歩む道をよく知っておられます。それはしばしば間違った道であることが多いです。誘惑に負けたり、とんでもない失敗をしでかしたりします。また、私たちは時に罪を犯したりもする。そういう危なっかしい道を歩む私たちは、多くの場合、自分が何をしているのか知らないで歩んでいます。
そういう私たちを、主イエスは決して責めたり叱りつけたりはなさらない。ああ、そういう道しか歩めなかったのかと言って、主イエスご自身がその道を先回りして待っていてくださる。そして私たちの破れ切った歩みの果てに、主イエスは私たちと出会ってくださった。それが私たちと主イエスとの出会いの真相ではないではないでしょうか。
いったい、私たちの中に、主イエスと出合ったとき、胸を張って出会えた人がいるでしょうか? 勲章をぶら下げて、得意顔でイエス様と出会った人が、一人でもおられるでしょうか? そんな人は一人もいないと私は思う。破れ果て、あるいは疲れ切って、そこで主イエスが出会ってくださった。そして、ペトロに向かって言われたのと同じことを言ってくださったのではないですか?
「もう一度、沖へ船を漕ぎ出して、網を降ろしてみなさい。もう一度、人生やり直してみなさい。」
破れや失敗の歩みの果てに、この御言葉を聞くのが、私たちの礼拝です。この御言葉を聞いて、私たちは立ち直ります。差し出された主の御手にすがって立ち直る。人生もう一度やってみようと思い直す。もう一度沖へ漕ぎ出して、網を降ろしてみようと、明日からの歩みに思いを馳せる。
こうして、私たちは、主の御腕に支えられて新しい週の歩みを始めます。主イエスは時に私たちの先回りをしつつ、私たちと共に歩んでくださいます。この礼拝からその歩みが始まります。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
8月27日(日)のみことば(ローズンゲン)
「あなたの神、主はあなたの手の業をすべて祝福してくださった。」(旧約聖書:申命記2章7節)
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(新約聖書:ヨハネ福音書1章16節)
ヨハネ福音書の1章には、独特の言葉遣いがあります。「言」と書いて「ことば」と読ませる冒頭からそれは始まっています。「栄光」という言葉の意味も、ヨハネ独自のものがあります。「言」を受け入れた人々に与えられるのは「神の子となる資格」であり、この人々は「神によって生まれた人々」と呼ばれます。「永遠の命」とは、「神から生まれた者」として、主イエスと共に「父なる神の子」となることです。
これは私たちが主イエスの兄弟となることでもあります。ヨハネ福音書の20章には、復活された主イエスが弟子たちを「わたしの兄弟」と呼んで、神を「わたしの父であり、あなたがたの父である方」と呼んでおられます。まことに恐れ多いことですが、私たちはこのように大きな恵みをいただいているのです。私たちをこのような大きな恵みにまで高めてくださる御業の完成をヨハネは「栄光」と呼んでいます。