聖書:イザヤ書40章1~8節・マルコによる福音書1章1~8節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(マルコによる福音書1章1節)
注目すべきことに、マルコは、福音の中心を十字架の死と葬りに置きました。もちろん、主の十字架は復活と分かち難く結ばれておりますから、十字架と復活と言っても良いわけです。その福音の中心でありクライマックスでもある十字架の出来事を、まず読み味わってから、その福音はどのようにして始まったのか。それを一つずつ見ていくのが福音書の歩みです。
マルコは、イエス様が十字架の上で息を引き取られた時、ローマ軍の百人隊長がその死の有様を見て、「この人は本当に神の子だった」と言った。十字架の主イエスこそ神の子だという信仰告白こそ、我々の目指すゴールなのだと、マルコはそのようなゴールを設定して福音の歩みを語り始める。ですから、語り始めのスタート地点にも、この「神の子」というキーワードが出て来るのです。それが今日の箇所の冒頭の言葉です。
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」
じつにマルコらしい、明快な言葉で福音の幕開けを告げています。福音の「福」という字は、幸福の福、福福しいの福です。そこからも分かるように、この字は「喜ばしい」という意味があります。そして福音の「音」という字は、訓読みでは「おと」と読ませる。この字は、じつは「手紙」という意味のあった字です。そういえば手紙が来ないことを音沙汰が無いとか、音信不通とか言いますね。音沙汰も音信不通も、いずれも「音」という字が含まれています。つまり、福音とは、喜ばしい手紙ということなのです。喜びをもたらす手紙と言っても良いと思います。肝心なことは、福音とは手紙だということです。手紙ですから、当然、差出人と受取人の双方が存在します。手紙を出す人と受け取る人がいないと、手紙とは言えません。
どうして、こんなことを言うかと言いますと、ここが、じつは、私たちが福音書を読む時の勝負どころと言いますか、肝心要のポイントだからです。福音書と言いますと、イエス様のご生涯をたどる書物ですから、一般にはイエスという人の伝記のように思われています。実際に「イエス伝」という名前の書物は、いくつも存在しています。しかし、私は思うのですが、福音書は、はたしてイエス様の伝記なのでしょうか。皆さんは、どう思われるでしょうか。
こういうふうに考えてみては、いかがでしょうか。私たちが、例えば野口英世の伝記を読むとします。その場合、野口英世は、あくまでも、昔生きていた人であって、私たちにとっては、言ってみれば、向こう側の人です。時を隔てる壁の向こう側の人物です。そして、読者である私たちは、こちら側にいて、向こう側の野口英世とこちら側の私たちとは、一応、無関係です。その無関係な私たちが、野口英世という人を客観的に眺めている、というのが伝記です。眺めながら、ああ、野口英世は偉いなあ、とか、こういうところは私も見習いたいなあとか、そういうことを考える。それが伝記ですね。
しかし、福音書は、違います。手紙なのです。差出人と受取人が、一つの関係の中にいる。それが手紙の手紙たる所以です。手紙のやり取りというのは、決して客観化することが出来ません。これはもう、皆さんも経験しておられると思います。誰かから手紙をもらったら、もうそれだけで心が動きます。わくわくします。だから、もらった手紙を、ただ眺めているわけにはいきません。必ず応答しなければならなくなります。関係が作られていくからです。イエス・キリストというお方が語りかけておられる、手紙をくれている。そういう人格的な関係が、ここに始まって行く。だから、マルコ福音書は最初に、こう宣言するのです。
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」
マルコ福音書には、クリスマスの記事がありません。主イエスの誕生のことをマルコは記さないのです。その代わりと言っては何ですが、マルコは旧約聖書の御言葉からキリストの福音を語り始めます。2節と3節です。
「預言者イザヤの書に、こう書いてある。『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』」
これは何を言っているかと言うと、主イエスが登場なさる前に先駆けとしてバプテスマのヨハネが現れた。それは旧約が預言していたことの成就なのだとマルコは語っているわけです。で、このヨハネの描写ですが、6節に「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めていた」と書かれています。どうしてわざわざ、そんな病者をするのでしょうか。
じつは、これも旧約聖書と深い関係がありまして、列王記下の第1章8節を見ますと、預言者エリヤがヨハネと同じように、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締めていたと書いてあるのです。預言者エリヤは、世の終わりに際して、神様ご自身がやって来られる。その神様の前に先駆けとして遣わされて来るのがエリヤなのだと信じられていたのです。エリヤは神の先駆けだったのです。それと同じように、主イエスの先駆けとしてバプテスマのヨハネが現れたのです。
ということは、どういうことになりますか? そう、主イエスが来られるというのは、とりもなおさず、神ご自身が来られるということです。その先駆けとして、ヨハネは「荒れ野で叫ぶ声」として遣わされたというわけです。つまり、ヨハネの本質は「叫ぶ声」だというのです。救い主の到来を指し示す「声」です。
さて、そのヨハネの役割とは、どういうものだったでしょうか。4節に、こう書いてあります。
「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」
ここに「罪の赦しを得させる」とありますが、私は、やはりこれは問題のある表現であると思います。なぜなら、罪の赦しを身をもって成就なさったのは、あくまで主イエス・キリストだからです。ヨハネは決してそこまで行っていない。罪の赦しはイエス・キリストのほか誰にも成し得ない御業なのだと、そこだけは明快に割り切っておくことが肝心です。このように、マルコ福音書の描写は、ストレートな反面、いささか乱暴と言いますか、荒削りなところもありまして、そこを補いながら読むことが、どうしても必要になってきます。
では、ヨハネの授けたバプテスマとは、いったい、どのようなものであったかと言うと、これは徹底的な悔い改めを求めるバプテスマだったことが分かっています。5節を見ますと、この悔い改めのバプテスマが、大変なブームを巻き起こしていたことが分かります。
「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」
じつは当時、バプテスマを受けることが求められたのは、ユダヤ人以外の人々、つまり異邦人だけでした。ユダヤの人々は、生まれながらに神の民に属していますから、すでに清いのです。しかし、異邦人はそうではない。汚れた存在だと考えられた。なので、異邦人が聖書の神様を信じて救われたいと願うなら、まずバプテスマを受けて汚れを清めてもらい、その後で割礼を受ける必要があったのです。それが、どうでしょうか。ユダヤ全土からユダヤの人々が続々とヨハネのもとに来てバプテスマを受けたことが記されています。それだけヨハネは強烈に、激しい語調で悔い改めを求めたのです。7節を見ますと、ヨハネが人々に語った言葉が記されています。
「彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちも無い。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けるが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。』」
ヨハネが語った言葉について、マルコ福音書はこの程度で終わっています。じつを言いますと、いくら何でも、これでは不十分なのです。そこでマルコと最も関係の近いマタイ福音書の第3章を援用して、ヨハネのメッセージを解き明かしてみたいと思います。
マタイ福音書は、明らかに、ヨハネの宣教の内容を神の怒りの宣告と捉えています。神の怒りが近づいている。だから、今、悔い改めよ、というのがヨハネの宣教の中心だとマタイは考えたのです。これは的を得た捉え方だと思います。神の裁きと言っても良いかと思います。ヨハネは、こういうふうに言っております。
「迫り来る神の怒りから逃れられると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。斧が既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる。」
いかがでしょうか。じつに激しい言葉であると思います。ここまで押さえておかないと、後になって、ヨハネのメッセージと主イエスのメッセージの対比が分からなくなってしまうのです。斧が、木の根元に置かれている。悔い改めにふさわしい実を結ばない木は、たちどころに切り倒される。神の裁きとは、そういうものだとヨハネは言うのです。聞いていた人々は、震え上がったに違いありません。ヨハネは、こうして激しい口調で神の裁きを語りながら、人々に悔い改めを迫りました。ですから、ヨハネの結論は、悔い改めにふさわしい実を結べということです。ということは、言い換えると、行いを正しなさいということです。その一点に尽きる。それが出来ないならば、神の怒りと裁きによって、滅びていくしか道は無いと、そこだけを、ヨハネは語った。ですから、ヨハネが授けたバプテスマも、その延長線上にあるものです。ヨハネのバプテスマは罪を清めるためのものであったと考えられます。ですから、これは、後になって主イエスが宣べ伝える罪の赦しとは質的に異なるものです。ここは、やはり押さえておかなければならない点だと思います。ヨハネからは罪の赦しというメッセージは出て来ないのです。
そして、もう一つ、ヨハネについて言っておかなければならない事があります。どういうことかと言いますと、ヨハネという人は、後に来られる主イエスを指し示すために現れたわけですが、ヨハネは、どうも、主イエスも自分と同じ悔い改めのメッセージを語るために来られるのだと思い込んでいた節があるのです。ヨハネは、自分と同じ路線で主イエスが来られると思っていた。ただ自分と主イエスが違う点は、自分よりも主イエスのほうが、はるかに偉大だと思っていたことです。「自分は、その方の履物のひもを解く値打ちも無い」とヨハネが言ったのは、そういう意味でした。自分と同じ路線で主イエスは来られる。これがヨハネの抱く確信でした。
しかし、この確信は、主イエスの働きが進むに連れて、揺らいで行きます。自分が思っていたイエス像と実際の主イエスの姿に、少しずつ齟齬が生じ始めて、やがてはヨハネは、最晩年になって、非常な懐疑心に捕らわれていきます。そして、自分が期待した人物とイエスという人物とは違うのではないかと、死を目前にして迷い始めるのです。そして、イエス様に向かって、叫ぶように、こう言うのです。
「わたしが待つべきだったのは、あなたなのですか。それとも、別の人を待つべきだったのでしょうか。」
ヨハネの心の叫びとも言える言葉だと思います。イエス様は、なんと答えられたでしょうか。あなたが抱いた期待は間違っている、私はあなたが期待したような人間ではないと冷たく言い放ったでしょうか。そうは言われなかったのです。そして、ヨハネの間違っていた期待と思いを、否定することなく、そっくりそのまま引き受けられたのです。ここが、私は凄いところだと思うのです。私は、あなたが思っているような人間ではない、神の裁き、神の怒りを語るために来たのではないのだと、きっぱり否定しても良さそうなところですが、イエス様は、そうはなさらなかった。なぜなのでしょうか。私は、ここらあたりに、主イエスとヨハネの微妙な関係から福音のメッセージを読み解く鍵があるように思うのです。
確かに、主イエスとヨハネの関係には、微妙なところがあります。ヨハネは罪の裁きということを語った。イエス様は罪の裁きではなく、罪の赦しを語った。だから、両者は水と油。決して交わることはないのだと、短絡的に言い切ることが、はたして出来るだろうか? 裁きのヨハネと赦しのイエスという具合に、水と油だとしたら、どうして死を目前にしたヨハネのあの問いかけを、イエス様は否定なさらなかったのか。私はあなたが思っているような人間ではないとキッパリ否定しそうなものを、そうはなさらなかった。むしろ、イエス様はヨハネの思いを包み込むようにして、引き受けられた。裁きを否定せず、引き受けられたのです。なぜなのでしょう。やはり、ここが鍵ですね。
確かにヨハネは、神の怒りに基づいた、罪の裁きを語りました。そしてイエス様は罪の赦しを語られた。しかし、イエス様が身をもって語られた罪の赦しというのは、裁きを否定しない。否定しないどころが、最も徹底した罪の裁き。それが主イエスが身をもって語られた「罪の赦し」だったのではないでしょうか。
これが、もし、赦しだけだったら、それは一種の現状肯定になってしまいます。現状肯定であり、全くの放任です。その赦しは、じつは赦しでも何でも無い。日本人に馴染み深い「水に流す」というのと、あまり変わりが無いわけです。それは、罪の赦しではなく、言うなれば、罪の甘やかしです。無責任な放任です。それは罪の放置であって、罪の赦しではない。
罪は裁かれなければならない。水には流せないものです。なあなあでは済ませられないものです。じつは、ここが主イエスとヨハネの関係の秘密なのです。教えの内容から言えば、確かに両者は水と油です。裁きと赦しなのですから、当然です。しかし、主イエスはヨハネが語る裁きを否定なさらなかった。否定するのではなく、包み込んだ。いや、自ら神の裁きを引き受けられたのです。身代わりになってです。それが主イエス・キリストの十字架です。罪に対する神の裁きを一身に担い、罪の赦しを与える。そこに福音がある。マルコは、その一点を見据えながら、高らかに宣言しています。
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」
十字架を目指して、「まことにこの人は神の子であった」という百人隊長の信仰を目指して、今、歩み始める福音と、共に歩んでいきたいと願うものです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
8月20日(日)のみことば(ローズンゲン)
「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。私の道は主に隠されている、と。私の裁きは神に忘れられた、と。」(旧約聖書:イザヤ書40章27節・聖書協会共同訳)
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」(新約聖書:ローマ書3章21節)
今日の新約の御言葉は「ところが今や」という言い方が目を引きます。この言い方は、これまで語ってきた事とは打って変わったメッセージを伝えようとしている時に使う言い方です。「今や」という言葉は、一つには、今まで話してきたことと全く別次元のことをこれから話す、そういう気持ちが込められていると思います。しかし、それだけではなくて、今からこの話をするということは、かつて無かったものが生じた、特別な出来事が起こったと、そういうことをパウロは語ろうとしているのでしょう。
すなわち、それはイエス・キリストが来られたということ、そのことによって全く新しい事態が起こったのです。それは何かというと「神の義が律法とは関係なく示された」ということです。律法とは関係なくと言われています。律法とは別なのです。律法というのは、私たち人間の側が何かをする。そうすれば祝福される。しなければ呪われる。そういうものです。ところが、本当の神の義は、そういうものではなかった。全く別のところに神の義が示された。それは「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」だったのです。