聖書:イザヤ書65章1~2節・マルコによる福音書11章27~33節
説教:佐藤 誠司 牧師
「イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。『何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。』イエスは言われた。『では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネのバプテスマは天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。』彼らは論じ合った。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。しかし、「人からのものだ」と言えば……。』彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。すると、イエスは言われた。『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。』」(マルコによる福音書11章27~33節)
今日の物語は、いわゆる論争物語の類型に入ります。論争といえば、私たちは、つい、口喧嘩のようなものを連想しますが、ここに出て来る論争は、そんな生易しいものではない。ここに言う論争とは、いうなれば、ぶつかり合いのことです。激しくぶつかり合って火花が飛びます。
しかし、イエス様ともあろうお方が、どうして論争などをなさったのかと不思議に思われるかも知れません。私たちは論争を避けるのが大人の知恵だと思っています。確かに、知恵ある人は無益な論争はしません。主イエスもそれは承知しておられたと思います。しかし、どうしても譲ることの出来ない一点があったのです。それはいったい何であったのか?
それを知るために、この論争がどのような人々との論争であったか? 誰と誰とのぶつかり合いであったか? そこところを見ておかなければならないでしょう。さあ、誰とのぶつかり合いであったのか? 主イエスと律法学者や祭司長たち、すなわち、当時の指導的な立場にいた人たちとのぶつかり合いだったのです。さらに言えば、神の義と人の義のぶつかり合いとも言えるでしょうし、さらに突き詰めて言えば、神の権威と人の権威のぶつかり合いと言えると思います。主イエスが譲れなかったもの。それは神の義であり、神の権威であったのです。
ある日のこと、主イエスが神殿の境内で人々に御言葉を語っておられると、それを快く思わない人たちがおりました。祭司長や律法学者たち、民の長老たちが主イエスのもとにやって来て、こう問いただしたのです。
「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
権威を問うているように見えます。あなたは何の権威で御言葉を語っているのかと問うているように見えるのです。しかし、本当はどうなのでしょうか?主イエスは質問に答える代わりに、こう問い返されます。
「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネのバプテスマは天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」
主イエスに先立って登場し、人々に激しい口調で悔い改めを説いたバプテスマのヨハネ。どうして彼がバプテスマのヨハネと呼ばれたかというと、彼はヨルダン川で悔い改めのバプテスマを人々に授けたからです。多くの名も無い人々が悔い改めて、ヨハネからバプテスマを受けました。ところが、自分の権威にこだわる人々、すなわち祭司長やファリサイ派の人々、律法学者たちは、ヨハネのもとに行くことはありませんでした。ヨハネが強い口調で悔い改めを説いている、その言葉に耳を貸さず、バプテスマも受けようとはしなかった。つまり、無視した、なぜでしょうか?
悔い改めというのは、根本的な方向転換のことです。ただの後悔とは違います。生き方の方向を転換して、神様のもとに立ち返ってくることです。だから、名も無い人たち、貧しい人たちは悔い改めることが出来たのです。ところが、祭司長や律法学者たちは、その点では自信満々なのです。自分たちは神殿礼拝の指導者だ、律法の権威者だ。聖書の専門家だ。信仰のお手本だと、神の民の指導者だというふうに、自信満々なんです。ですから、どこの馬の骨だか分からない、ぽっと出のヨハネごときに、がたがた言われる筋合いはない。というわけで、彼らはヨハネに目もくれなかったし、耳を貸そうともしなかった。ところが、民衆はこぞってヨハネを信じた。その民衆を今、彼らは恐れているのです。そこで彼らはひそひそ声で相談をします。
「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……。」
彼らは民衆を恐れて絶句したのです。そこで彼らは「分からない」と答えます。すると、主イエスは、こうおっしゃいます。
「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
ここまでが今日の物語です。さあ、この論争物語は何を語っているのでしょうか。祭司長というのは、神殿貴族と呼ばれた人たちですから、けっこう俗っぽい考え方の人が多かったといいます。しかし、律法学者は違います。自他共に認める純粋で熱心な信仰者でした。聖書に通じてもいた。貧しくとも清い生活を尊んでいた。まさに尊敬に値する人たちなのです。なのに、どうして彼らは、主イエスを信じることが出来なかったのでしょうか? 主イエスを信じるというのは、そもそも、どういうことなのでしょうか?
ファリサイ派の人々が、ああいうふうな厳格な律法の守り方をするようになったのには、それなりの理由がありました。イスラエルの歴史の中で、かつて、礼拝や信仰生活がガタガタに崩れそうになったことがありました。神の民が崩壊するその寸前まで崩れに崩れたとき、それを一種の信仰覚醒運動をもって立て直していったのが、ファリサイ派の人々、中でも律法学者と言われる人々だったのです。崩れたものを立て直すのですから、大変です。こういうことは厳格にやらないと、とてもやり切れるものではない。そこで彼らは、何代も前の先達が説いた律法解釈を研究して律法の遵守に務めました。非常に厳格に律法を守ることを人々に求め、また自らにも課したのです。その結果、生まれたのが律法主義と呼ばれるものだったのです。ユダヤの人々の信仰が復興できたのは、ひとえに、このファリサイ派と呼ばれる人たちの努力の賜物だったと言えます。
ところが、人間のやることというのは、何事にも弊害があるものでして、ファリサイ派の人々が、それこそ一途に貫き通した努力や修行が、いつしか、勲章のようなものになっていったのです。神様の前に誇らしげに勲章をぶら下げて立とうとする。その勲章が、どんなものであったか? それはルカ福音書18章9節以下のファリサイ派と徴税人の二人の祈りの譬え話に鮮やかに示されていると思います。あのお話に登場するファリサイ派の人は、神殿で何と祈ったでしょうか?
「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献金しています。」
これは何をしているかといいますと、自分の義を立てようと一生懸命に務めているのです。
世間一般では、信仰を持っている人、宗教的な生き方をしている人のことをよく「敬虔な人」といいますね。テレビの報道など見ますと、クリスチャンといえば「敬虔なクリスチャン」というふうに「敬虔な」という言葉が、まるで枕詞のように付いてきたりします。
でも「敬虔」って、どういうことなのだろうか? 確かに私たちは、信仰が深い人、信仰熱心な人のことを「あの人は敬虔な人だ」と言います。私たちの生活で言えば、よくお祈りするとか、毎日聖書を読むとか、礼拝を欠かさないとか、たくさんの献げ物をするとか。もちろん、それらは大事な尊いことですが、そういうことをずっと突き詰めていけば、救われた人間が出来上がるように考える。それが、じつは敬虔の道なんです。
ファリサイ派の人々が歩んだ道がそうでした。ファリサイ派の人たちの敬虔というのは、半端なものではなかったようです。聖書を諳んじていて、一生懸命守る。決められた時間に祈る。神殿に行ってささげものをする。一週間に二度断食する。収入の十分の一を献金する。私たちから見ると、ああ、この人たちは熱心だ、敬虔な人たちだと思えますね。じゃあ、どうしてその人たちはイエス様を信じなかったのでしょうか? 皆さんは、どう思われますか?
それは、この人たちが考えている、神様の前に正しい人間として受け入れられるという生き方、こういうふうにすれば神様は私を正しい人間だと認め、受け入れてくださるであろうと考えておるものと、実際に神様が人間を正しい者として受け入れるために用意しておられた道とが食い違ったんです。これはファリサイ派の人々には、思いもかけないことだったと思います。
福音書の中に、しばしば罪人や徴税人が出てきますね? ファリサイ派の人たちは彼らとは絶対に付き合わなかった。あんな神様に背く生き方をしている汚れた人間とは付き合わない。ところが、イエス様は、どうだったでしょうか。イエス様は罪人や徴税人たちと喜んで食事を共にしてくださいました。なぜでしょうか? イエス様はこうおっしゃたでしょう?
「丈夫な人に医者は要らない。要るのは病人である。わたしは罪人を救うために来たのだ。」
ところが、一生懸命努力をし、修行を積んで敬虔な信仰者になろうと務めてきたファリサイ派の人々には、このイエス様の言葉の意味が全然分からないのです。そもそも、イエス様が安息日の会堂でお語りになる説教の素晴らしさを最初に見抜いたのは、ほかでもない、ファリサイ派の人たちです。だから、彼らは礼拝後にイエス様を競って食事に誘いました。ところが、イエス様は彼らの所ではなく、罪人たちと一緒に食事をなさる。だから、ファリサイ派の人々は、イエス様を憎み始めるのです。愛が屈折して憎しみに変わるわけです。
どうして、主イエスは罪人たちを愛されたのでしょうか? それは父なる神ご自身が罪人たちを愛して、憐れんでおられるからにほかなりません。救いというのは、人間の業ではないでしょう? 神様の御業ですね。それを自分たちの手柄と言いますか、自分たち人間の業にしてしまったのが、ファリサイ派の人たちでした。しかし、救いは神の御業です。救いというのは、人間が一生懸命努力をして、神様の前に勲章をぶら下げて胸を張って立って「ほれ、このとおり、私は合格でしょう」と言って、神の国へ大手を振って入っていくのではないのです。
イエス様は何と言われましたか。「誰でも幼子のように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこへ入ることは出来ない」と、そうおっしゃったでしょう? 幼子のようにとは、言い換えますと「助けていただいて」ということです。手を引いてもらって、ということです。誰が手を引いてくださるのでしょうか? 私たちを憐れみ、愛してくださる方、罪人を愛し、惜しんでくださるお方が私たちの手を引いて、神の国へと引っ張り込んでくださるのでしょう? ですから、本当の救いには条件が無いのです。ただキリストを信じる信仰によって救われるとは、そういうことです。その場合の信仰というのは、敬虔ということではない。信仰と敬虔とは違います。
救われた人というのは、自分の権威を捨てた人のことです。救われた人はイエス様のことを何と呼びますか? 「主イエス」と呼ぶではないですか? あれは「イエスこそ私の主である」ということです。これは逆に言いますと、私は私の人生の主人ではないということです。
マタイ福音書の16章に、ペトロがイエス様のことを「あなたこそ生ける神の子、メシアです」と答える場面がありますね。まことに立派な信仰告白ですが、このあとペトロは御自分の受難を予告なさる主イエスに向かって、「主よ、そんなことがあってはなりません」と言って、こっぴどく叱られていますから、その見事な信仰告白も、はたして内容を伴っていたかは、はなはだ疑問です。イエス様も、それは見抜いておられたと思います。
ところが、主イエスはペトロの信仰告白を否定なさらなかったですね。なぜなのでしょうか。主イエスというお方は、ペトロと一緒に歩む中で、ペトロの信仰告白の中身を満たしてくださるからなのです。私があなたの信仰告白の中身を満たすのだと言ってくださる。これが大事です。
私たちだって、そうだと思います。私たちも洗礼を受ける際に「あなたこそ私の救い主キリストです」と告白をしました。けれども、今思えば、それはいかにも幼い、人間的な思いにまみれた告白であったと思います。しかし、イエスというお方は、そういう拙い告白を軽んじられない。ペトロの告白を喜んでくださったように、私たちの拙い告白を喜んで受け入れてくださった。そして、共に歩む中で、拙い信仰告白の中身を、少しずつ満たしてくださる。そして、私たちを見て、「あなたにこれを告白させてくださったのは人間の知恵ではない。神様なんだよ」と言って、喜んでおられる。ですから、この方と一緒に歩むことが大事です。イエス様と一緒に歩みましょう。その歩みが私たちを造り挙げていきます。これよりほかに、私たちに道は無いと思うのです。
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愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
6月11日(日)のみことば(ローズンゲン)
「神々の神、主は、御言葉を発し、日の出るところから日の入るところまで、地を呼び集められる。」(旧約聖書:詩編50編1節)
「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(新約聖書:コロサイ書3章2節)
今日の新約の御言葉にある「上にあるもの」というのは、言い換えますと、「天にあるもの」ということです。聖書は「天」について語ります。主の祈りでも「天にまします我らの父よ」「御心の天になるごとく」と祈りますし、パウロも「我らの本国は天にある」と言いました。なぜ聖書は「天」について語るのでしょうか。その理由を示しているのが、じつは今日の新約の御言葉です。
「天」や「天にあるもの」というのは、今は目に見えないということです。見えないのですから、天にあるものは目で見て確かめるわけにはいきません。ですから、天にあるものは、信じることを求めてくるのです。つまり、天や天にあるもの、天に属する事柄というのは見ないで信じる信仰を求めているわけです。主イエスが弟子のトマスに言われたとおり、「見ないで信じる人は幸い」なのです。