聖書:詩編1編1~6節・マルコによる福音書10章46~52節
説教:佐藤 誠司 牧師
「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者にの道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1編1~3節)
「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。(マルコによる福音書10章50~52節)
今日は詩編の第1編を読みました。この詩編は、正しい人が栄えて、悪い人が滅びに至ると歌っています。しかし、世の中を見渡してみますと、逆ではないか。結構、悪いヤツが栄えているし、神様を信じていても、ひどい目に遭っている人もたくさんいる。そういう現実を見ますと、この詩編の言っておることは、どうも甘いし、現実的ではないと思えてくるわけです。
しかし、はたして、そうなのだろうか? この詩編は、人間を二つに分けて、正しい人は栄えて、悪人は滅びるなどということを言っているのだろうか? 皆さんは、どう思われるでしょうか。
「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者にの道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
1節に「罪ある者」という言葉があります。この「罪ある者」というのは、いったい誰のことか? 他人のことではないのです。どこかに罪深い悪者がいて、悪の道に引っ張ろうと企んでいるから、そういう悪いヤツと一緒にいたらダメだなどということをこの詩編は言っているのではない。ここに言われている「神に逆らう者」とか「罪ある者」「傲慢な者」というのは、いずれも、他人のことではなくて、みんな自分のことなのです。この「罪ある者」というのは、もとの意味は「神を見失った人」という意味がありました。さあ、神様を見失ってしまった人の生き方は、どんな生き方でしょうか? 神様なんかいないと心の中で思っている。そう思っていますから、これはもう、何をやるにも自分だけが頼りです。そして、神の言葉を軽んじてしまう。そういう生き方しか出来ない人のことを、この詩編は「罪ある人」と呼んでいるのです。
これは、人間を、正しい人と罪人というふうに、二つに分けているのではない。神様を見失っていた、そういう古い自分から、新しい自分へと神様は導き出してくださった。ですから3節の「流れのほとりに植えられた木」というのは、最初から流れのほとりに植えられていたのではない。正確に言いますと、これは「流れのほとりに移し植えてもらった」ということなのです。神様を見失って闇路をさまよっていたところから、神様がこの人を探し出して、流れのほとりに、すなわち神の恵みが溢れるところへと、彼を移し植えてくださった。この詩編は、そういう幸いを歌うのです。
神を見失って暗闇をさまよっているところから、神の恵みの真っ只中へ、光の只中へ移し植えられる。マルコ福音書が伝える盲人バルティマイの歩みは、まさにそこのところを語っていると思います。
福音書には、盲人の癒しの物語が多いでしょう? 皆さん、なぜだと思われますか? 盲人の物語のいちばんの特徴は何でしょう? そう、見えるようになる、ということですね? これが大事なんです。つまり、盲人の物語が語ってやまないのは、見えるか見えないかではなくて、見えるようになることなんです。何が見えるようになるのでしょう? 主イエスの姿が見えるようになる。さらに言えば、主イエスの中に、まことの神を見るのです。神様を見た者は、いません。しかし、ヨハネ福音書の1章に「私たちはその栄光を見た」と書いてあるように、神の栄光を私たちは見る。盲人の癒しの出来事をとおして、私たちも見えるようになる。神の栄光が見えるようになる。それが大事なことです。だから、福音書には盲人の物語が多いのです。
主イエスの一行がエリコの町に着いたと書いてあります。エリコの町からエルサレムまでは、あと一歩というところです。ガリラヤからエルサレムを目指して来られた主イエスの旅も、終わりに近づいているわけです。すると、その街道沿いの道端に、一人の盲人の物乞いが座っていたと書いてありますが、私は、彼が物乞いであったという点については少々懐疑的です。なぜかと言いますと、こんな見方も出来るからです。
エリコに住んでいた彼は、主イエスがエルサレムを目指しておられることを噂で知ります。どんな病も癒してくださる主イエスの噂を聞いて、彼は期待に胸を膨らませます。しかし、目の見えない彼が、どうして主イエスを捜し出すことが出来るでしょうか?
そこで彼は一計を案じます。主イエスがエリコに入られる前に、街道沿いの道端に座っておれば、目は見えなくとも、主イエスの近づいて来られる様子は音で分る。話し声が聞こえるだろうし、ざわめきも伝わってくるに違いない。主イエスの姿が見えない彼は、主イエスの声を聞き分けるために、道端に座りました。
ところが、道行く人々は、盲人が道端に座っているのを見ると、ははあ、これは物乞いだと勝手に思い込んで、彼に施しをした。つまり、彼は自分の意思で物乞いになったのではなくて、廻りの人々が彼をいやおうなく、物乞いにしていたのではないかと思うのです。彼が街道沿いの道端に座ったのは、物乞いのためなどではなく、主イエスの声を聞くため、聞き分けて、主イエスと出会うためではなかったかと、そのように想像することも出来るのではないかと思うのです。
さて、主イエスの声を聞いて、主イエスと出会いたいという彼のもくろみは、当たりました。ざわめきと共に、人々の声が聞こえてきます。彼が「これは、いったい何事なのですか」と尋ねる。すると、誰からともなく「ナザレのイエスのお通りだ」と答えが返ってくる。彼は期待に胸を膨らませて、声を限りに叫びました。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」
これは叫びです。しかし、ここが聖書のメッセージだと思うのですが、叫びを「祈り」として聞いてくださるお方がおられるのです。叫びというのは、ただ単に耳で聞くだけなら、ただの大声に過ぎません。それは、道行く人々が、叫び続ける彼を叱りつけて黙らせようとしたことからも分ります。しかし、叫びを祈りとして聞いてくださるお方がおられる。
出エジプト記を読みますと、エジプトで奴隷として悲惨な生活を余儀なくされていたイスラエルの人々の叫びを神様が聞いてくださったという表現が繰り返し出てきますね。あれは、どういうことかと言いますと、神様はただ人々の叫びを聞いたということではないのです。叫びというのは、言葉としては整ってはいない。悲鳴のような叫びかも知れない。しかし、その、言葉にすらならない叫びの背後にある願いを、切なる祈りとして神は聞き届けてくださったというのが、あの叫びを聞く神という表現の意味なのです。
ここもそうです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と、彼は何度も叫び続けました。その声を聞いて、人々は彼を黙らせようとした。どうしてですか? うるさいと思ったからでしょう? しかし、叫ばずにはおれない彼の思い、魂の叫びを、主イエスは聞いてくださる。叫びに込められた願いや悲しみ、苦しみを、主イエスは我が事として聞いてくださるのです。だからこそ、主イエスは立ち止まられる。エルサレムに急ぎ向かう歩みを止めて、彼をそばに連れて来るよう命じられた。彼が近づくと、主イエスは何とおっしゃったでしょうか?
「何をしてほしいのか。」
何をしてほしいのかとお尋ねになったのです。目の見えない人に、分かりきったことを聞かれるなあと思われるかも知れません。しかし、私はこれは大きな意味を持つ言葉であると思います。他の人々は、盲人が道端に座っているのを見ただけで、彼の心の願いも聞かずに、この男は物乞いをしているに違いないと勝手に決め込んだ。そして勝手に施しをしたのです。盲人が道端に座っていたら、これは物乞いだと思うのは、当然かも知れません。
しかし、主イエスは違いました。「何をしてほしいのか」とお尋ねになった。これはもっと丁寧に言いますと「あなたは私に何をしてほしいのか」ということです。つまり、主イエスは「あなたと私」の関係でものを言っておられるのです。他の人々に「あなたと私」の関係はありましたか? 施しの中に、そういう親密な関係はあったでしょうか? 無かったでしょう? 主イエスが声をかけてくださるときというのは、いつもそうです。「あなたは私に何を願うか」と尋ねてくださる。ちゃんと「あなたと私」の関係で尋ねてくださる。ですから、この「あなたと私」の関係は、願いが叶えられた後もずっと続くのです。そこが大事なところです。
「あなたはわたしに何をしてほしいのか。」
これは言葉を替えますと、あなたの願いをハッキリ言葉にしてみなさいということです。ただ漠然と心の中で「ああなったら良いのにな」と願っているのではなく、言葉にしなさい。これは「祈りなさい」ということでもあります。主イエスに向けられる願いは、祈りなのです。主イエスというお方は、叫びを祈りとして聞いてくださいます。しかし、主イエスは、それだけでは終わらせはしない。その願いをハッキリと言葉にしなさい、祈りなさいと言われるのです。彼はこの一言に促され、背中を押されるようにして、長年押し殺してきた願いを、おそらく、生まれて初めて口にします。
「先生、目が見えるようになりたいのです。」
心の中で「見えるようになったら良いのにな」と願っているのと、主イエスに向かって「主よ、わたしは見えるようになりたいのです」と言葉にして言うのとでは意味が全然違います。心の中で願うことは、誰にも出来ることです。しかし、主に向かって願うことは、信じていなければ出来ないことです。「主よ、あなたにはそれがお出来になります」という信仰が無ければ、言えないことです。主イエスというお方は、そこまで導いてくださるのです。主イエスは彼におっしゃいます。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
すると、どうでしょう。彼はたちまち見えるようになって、「なお道を進まれるイエスに従った」と書いてあります。さあ、今日の物語は私たちに何を語っているでしょうか。今日のお話の初めに、私はこんなことを申し上げました。福音書には、盲人の癒しの物語が多い。どうしてか。盲人の物語のいちばんの特徴は何でしょう? そう、見えるようになる、ということですね? これが大事なんです。つまり、盲人の物語が語ってやまないのは、見えるか見えないかではなくて、見えるようになることです。何が見えるようになるのでしょう? 主イエスの姿が見えるようになる。さらに言えば、主イエスの中に、まことの神を見るのです。
この「見えるようになる」という言葉は、直訳しますと「再び見る」という意味があります。これは視力を再び回復するという意味だけではない、もう一つの大きな意味があります。それは、失われていたものを見いだす、見失われたものを見つけるという意味です。
彼が見た主イエスは、どんな主イエスだったでしょうか? そう、自分をじっと見つめておられる主イエスを、彼は見た。これは、正確に言うなら、主イエスの眼差しの中に置かれている自分自身を、彼は発見したということです。そして、彼は主イエスの中に、まことの神を見いだした。だからこそ、彼は、神をほめたたえたのです。彼はそのまま主イエスに従ったと書いてあります。おそらく、エルサレムへ一緒に上ったのでしょう。そして、彼はそこで見るのです。本当の神の御業を彼は見る。主イエスが十字架につけられて殺されていく、その有様を彼は見る。そのとき、彼は、まことの意味で、神の御業を見たのです。そして彼は、自分がこのお方の命と引き換えに贖い取られて、主のものとなったことを知ったと思います。これが詩編第1編が言う「流れのほとりに移し植えられた」ということです。
「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。」
ここに私たちの姿があります。私たちは、主イエスの命に贖われて、教会という流れのほとりに移し植えられて、今、ここにいる。主イエスを救い主と信じて礼拝をしている。いかに幸いなことか、この幸いに心からの感謝をささげたいと思います。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。 今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
5月14日(日)のみことば(ローズンゲン)
「主があなたたちのために戦われる。」(旧約聖書:出エジプト記14章14節)
「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(新約聖書:フィリピ書4章13節)
今日の旧約の御言葉には思い出があります。東京神学大学では神学生が卒業・赴任するにあたって教授陣が寄せ書きを作って学生一人一人に贈る慣習があるのですが、旧約の大住雄一先生が寄せ書きに書いてくださったのが、今日の旧約の御言葉でした。先生はこの聖句に続けて、次のように書いておられます。
「召した者を見捨てることのない主に信頼して歩んで下さい。」
大住先生は呼べばどこにでも来てくださる方で、能登で行った北陸神学会にも来てくださいました。その際、押水町にあるモーセの墓に案内したところ、先生はいたく感激されていました。2018年、福井が大雪に見舞われた際には、お見舞いの電話をくださいました。何事にも細かく気をくばる方でした。それから1年後の2019年9月、先生はくも膜下出血によって天に召されました。最後まで神学教師と牧師を両立させて歩まれた人生でした。