聖書:イザヤ書42章1~4節・マルコによる福音書10章17~31節
説教:佐藤 誠司 牧師
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」(イザヤ書42章1~3節)
「イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間に出来ることではないが、神には出来る。神には何でも出来るからだ。』」(マルコによる福音書10章24~27節)
今日はマルコが伝える金持ちの男の物語を読みました。じつは、このお話は、共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が揃って取り上げている大変有名な物語でありまして、おそらく、多くの人はこのお話をマタイによる福音書のバージョンで心に留めておられると思います。と言いますのは、マタイはこの人物を「金持ちの青年」というふうに設定をした。そこでマタイ版のこの物語は「富める青年」の物語として大変親しまれまして、青年たちの修養会や教会学校でもしばしば取り上げられ、読まれてきました。皆さんの中にも、若い日にこの物語を夏期学校や修養会でお開きになった方も多いと思います。
ある男が主イエスのもとに走り寄り、ひざまずきます。主イエスに教えを乞いにやって来たのです。彼は言います。
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
真面目な質問です。決して主イエスを試したり、陥れようなどというたくらみは、ここにはない。真摯に生き方を問うているのです。主イエスはお答えになります。
「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟を、あなたは知っているはずだ。」
これは「十戒」の戒めですね。神様がイスラエルの人々をエジプトの奴隷の家から導き出してくださった。そのときに、あなたがたは、こういう生き方をしなさいと言って与えてくださったのが、「十戒」でした。すると彼はどう言ったでしょう。「先生、そういうことは皆、子供の時から守ってきました」と答えている。模範的な回答と言えるかも知れません。
しかし、それなら、なおのこと、どうしてこの人は、救いの確信が持てないのだろうと思います。十戒の戒めを子供のころから全部守っているくらいですから、よほど恵まれた育ちであることが想像できますし、他の細々とした律法の定めも忠実に守ってきたに相違ない。それほどの人ですから、安息日の礼拝も欠かさず守ってきたに違いありません。ところが、肝心の救いの確信が持てない。自分は確かに救われて神の祝福の内にあるとは、どうしても思えない。どうしてなのでしょうか? この人の信仰には、どこかに問題が潜んでいるのです。その問題とはどういうことなのか。今はその一点を心に留めていただいて、続きを読んでみたいと思います。主イエスは、おそらく、彼の信仰の問題点を見抜いておられたと思います。その一点に向けて、主イエスはこうおっしゃったのです。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
これは彼に向けられた招きの言葉です。ところが、彼はどうしたことでしょう。これを聞いて、彼は気を落とした。そして悲しみながら立ち去ったと書いてあります。たくさんの財産を持っていたからであるとマルコは説明しています。主イエスは弟子たちを見回して、こうおっしゃいます。
「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」
これを聞いた弟子たちは驚いて「それでは、誰が救われるのだろうか」と嘆きますと、主イエスは、こうおっしゃいます。
「人間に出来ることではないが、神には出来る。神は何でも出来るからだ。」
今日の物語の急所は、ここだと思います。人には出来ないことも、神には出来る。この一点に確信を持てるかどうか、そこが問われていると思うのです。
さて、私は先ほど、この男について、確かに信仰熱心で誠実ではあるけれど、彼の信仰にはどこか問題があるのだと申しました。さあ、いったいどこが問題なのでしょうか? それは、彼の最初の一言にすでに現れています。彼はこう言ったでしょう?
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
何をすれば受けることが出来るか。彼はそう言ったのです。何をすれば、何をしたらというこの考え方は、言うなれば条件的な考え方です。これは聖書が本来語っている神の祝福とは違うものです。神様が言っておられることではない。人間が自分たちの熱心さを打ち立てるために、作り上げたものです。それが律法主義と言われるものです。
聖書を丁寧に読んでいきますと、神様の祝福というのは、相手の有り様に関わらず、一方的に与えられていることに気付きます。神はアブラハムをお選びになった。そして神はアブラハムを祝福して言われた。
「わたしはあなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」
これが神様のなさる祝福です。あなたが信じたら祝福してあげるよ、信じなかったら祝福してあげませんよ、などと了見の狭いことは言っておられない。私はあなたを祝福する。そう言い切っておられる。少しも条件的なことは言っておられないのです。神様がヤコブに言われた「何があっても、わたしはあなたを見捨てない」というのも、そうですね。「何があっても」というのは、無条件ということです。この「無条件」というのが神様の祝福の本来の姿です。
聖書の中に条件的な考え方が登場するのは、じつを言うと、モーセからです。十戒ですね。あなたがたが、これこれを守るならば祝福される、守らないならば呪われるという条件的な言い方が、モーセの十戒から出てくるわけです。しかし、どうして神様がそういう言い方をなさったのかを、私たちは考えなければいけません。十戒が与えられたのは、イスラエルの人たちがエジプトの奴隷の身分から救い出されたときでした。奴隷というのは自由も無ければ責任もありません。言ってみれば、イスラエルの人たちは自由も責任も知らない烏合の衆だったのです。その人たちを神様は救い出してくださった。ならば、救われた民としての生き方、新しい生き方があるはずなのです。その生き方を示すために与えられたのが十戒です。ですから、十戒には初めから教育的な意図があった。自由も責任も知らない人々に自由な生き方、責任的な生き方を教える意図があったのです。ですから、十戒の条件的なものの言い方というのは人々を真の自由な生き方へと導くための「養育係」のようなものです。子供が立派に成長したら養育係はもう要らないでしょう? 十戒の条件的な言い方も、そうなのです。これは神様の本来のものの言い方ではないのです。
ところが、条件的な考え方というのは、人間には解り易い。しっくりくるのです。これはもう、私たちだって、そうですね。私たちは幼い頃から言われてきている。これをやったら叱られるとか、何々を頑張ったら褒めてもらえるとか。法律の体系だって、そうでしょう? これこれを犯したら、これだけの刑罰が下るのだと考えます。
22節に主イエスが「持ち物を全部売り払って貧しい人たちに施しなさい」と言っておられる。そのあと「そうすれば、天に富を積むことになる」となっていますね? ここを「そうすれば」と訳しますと、これはもう条件的な意味合いになってしまいます。ああ、貧しい人に財産を分けてあげれば、そのご褒美として、天に富を積むことが出来るのだなと、そう理解してしまう。しかし、それがそもそも間違いなんです。
この男の信仰理解は、じつは、そこに問題がありました。何をすれば永遠の命が得られるのか。彼の関心はそこにありました。ですから、十戒の戒めを主イエスが挙げられたときも「そういうことは皆、子供のころから守っています」と答えました。あれも守ってきた、これも守ってきた。あれも出来る、これも出来ると、この人は答えたのです。主イエスは彼のそういう問題点を見抜いておられました。あれも出来る、これも出来ると答えた彼が、一番頼りにしているもの、あの律法もこの掟も守っていると言えるその生き方を支えているものを、あなたは全部売り払って、貧しい人に分けておやりなさい。もっと素晴らしい富を、宝を、天に持ってご覧なさい。そして、私に従って来なさい。主イエスはそう言われたのです。すると、彼は深く悲しんだ。どうして悲しんだのでしょうか? 自分には出来ない、俺には出来ないと、そう思ったから、悲しんだのです。これは、彼が、あれも守っている、これも守ってきた、あれも出来る、これも出来ると考えて生きてきた。その同じ延長線上で、主イエスのお言葉を聞いているということです。自分の生活を支えている財産を売り払って貧しい人たちに分けてやる。それを彼は、文字通り、そのまま受け止めて、それは自分には出来ないと思ったのです。
主イエスがおっしゃったのは、そういうことではない。あなたが今まで一番頼りにしてきたもの、手放せなかったものを、パッと手放してみなさい。これは生まれ変わってみなさいということです。主イエスは彼に生まれ変わることを求めておられるのです。人間は、生まれ変わらないと、永遠の命を受け継ぐことは出来ません。生まれて育ってきた素のままの生き方では神様の祝福を受けることは出来ないのです。。
では、生まれ変わるとは、どういうことか? 今までは目に見えるものを頼りに生きてきた。財産かも知れないし、地位や名誉かも知れません。そういうものに心を引かれて、頼りにして生きてきた。そういう生き方から、目に見えない神様を信じて、神様を頼りにして生きる。神様こそ私を救い出してくださるお方だと分かって生きる。もっと言えば、神の言葉を聞いて、それに従う生き方に変わっていく。これが生まれ変わるということでしょう? ですから、生まれ変わるというのは、人が変わったように立派な人になることではないのです。
同じ人です。同じ愚かな人であり、同じ不器用な人なのです。そういう意味では、少しも変わり映えしない。しかし、その同じ人の生き方の向きが変わっている。本人が心を入れ替えたからですか? そうではない。導いてくださったお方がおられる。この人はそのお方のほうを向いて生きるようになった。これが生まれ変わるということでしょう? だから、人間には出来ないことも、神には出来る、主イエスが言われたのは、そういうことです。
しかし、いったい何を通して、神様はその救いを成し遂げられるのでしょうか? それは32節以下に書いてあります。マルコ福音書が今日の物語と32節以下の受難予告の物語を繋げて記していることには、やはり訳があるのです。人には出来ないが、神には出来る。完全な救いを、神は成し遂げてくださる。それは主イエスの十字架の受難を通して成し遂げられることなのだというのが、マルコ福音書の主張です。
神様がそういう驚くべき救いの御業を成し遂げてくださる。そのことをはるか昔に預言したのが、今日読みましたイザヤ書42章の言葉です。最初に何と書いてありますか? 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と書いてありますでしょう? この僕が「苦難の僕」と呼ばれる神の僕です。私たちキリスト教会は、この僕こそがイエス・キリストなのだ、しかも十字架を背負ってくださる主イエスのことなのだと読みます。どうしてそう読むかというと、もうこれは理屈ではない。信じるからなのです。そう解釈するからではない、信じるからそう読む。これが私たちの読み方であり、聞き方です。
で、その僕が国々の裁きを導き出すと言われている。国々の裁きと言うのはどういうことかというと、国家に左右されない全世界の裁きということです。しかも、この裁きというのは、悪いヤツをやっつけるとか、悪いことをしたヤツを死刑にするという裁きではない。そういうのは人間の裁きですね。そうではなくて、本当の意味で人を生かす裁き、罪に落ちてしまった人まで立ち直らせて、もう一度生かしていく、そういう裁きをこの地上に確立する、というのです。ですから、彼が成し遂げるその裁きとは、ダメになった人をもう一度立ち直らせることです。しかも、その裁きは人を裁くのではなくて、罪そのものを裁く。そういうことが、やがて起こる。イザヤはそう預言しているのです。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない」と言われています。傷ついた葦なんて、もう立っておれないということです。誰にも顧みられないで、ぺしゃんと折れてしまうしかない葦を、折ることをしない。暗くなっていく灯心というのは、もうお先真っ暗、何の役にも立たないということです。その灯心を消すことがない。もう一度、炎を燃やす。静かに静かに燃やすのです。
これが主の十字架の御業です。「人には出来ないが、神には出来る」と、主イエスはおっしゃいました。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない。これは、十字架の主イエスは私たちを見捨てないということです。見捨てないだけでなく、もう一度立ち直らせる。この「もう一度」というのが肝心なんです。キリストを信じる信仰というのは、「もう一度」の人生を受け取りなおして生きることです。
私たちは、ともすれば、神様のためイエス様のために、希望に燃えて、あれもしよう、これもしようとする。それは確かに大事なことなのですが、もっと大事なことがある。主イエスは傷ついた葦を折る事をなさらない。暗くなっていく灯心を消すことはない。見捨てない、最後まで私を支えてくださる。そのことが心底分かったときに、私たちは安心して生まれ変わることが出来る。私の手柄としてではなく、主の御業として生まれ変わった人生を感謝をもって受け取ることが出来るのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。
今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
4月30日(日)のみことば(ローズンゲン)
「わたしはあなたの道を教えます。あなたに背いている者に。罪びとが御もとに立ち帰るように。」(旧約聖書:詩編51編15節)
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(新約聖書:ルカ福音書22章32節)
小出望牧師が天に召されました。この方の思い出はたくさんありますが、そのほとんどが御言葉に関するものです。例えば、こんなことがありました。大阪の母教会で、私は月に一度、夕礼拝の説教に立てられていたのですが、ある日の夕礼拝のあとで、私の説教をずっと聞き続けてくださるご婦人が、こうお尋ねになりました。
「どうして佐藤さんは、説教の中で『イエスは』『イエスが』と言うのですか。」
このときは、小出先生が中に入って「説教学の立場によっては、『イエス』で通すやり方もあるのですよ」と間を取ってくださいました。ところが、その数日後、私と先生が二人きりになったとき、小出先生が突然、こう言ったのです。
「説教者が『主イエス』と呼べない説教を聞いて、教会員が『主イエス』と呼べるか!」
じつに厳しい口調でおっしゃった。おそらく、小出先生は呼び方の問題ではなく、そこに現れた私の説教者としての姿勢を正されたのだと思います。思い出は尽きません。今日の新約の御言葉も、その一つで、これは私の献身の第一歩となった御言葉です。