聖書:詩編2編2~10節・マルコによる福音書10章13~16節
説教:佐藤 誠司 牧師
「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(マルコによる福音書10章13~16節)
今日はマルコ福音書が伝える幼子を祝福する主イエスの物語を読みました。物語と言いましたが、これはもう、物語とは言えないほど短いものです。あっという間に読み終わってしまいます。しかし、この短い物語は、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書が挙って取り上げていることからも分るとおり、初代キリスト教会が大変に重要視した物語です。重要視しただけではありません。大変に愛された物語でもあるのです。こんな物語です。
主イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきました。触れていただくというのは、ただ単に触っていただくということではありません。祝福を受けるということです。おそらく、子供たちを連れてきた人々は、子供たちの父親・母親であったことでしょう。
ところが、弟子たちは彼らを拒んでしまいます。「弟子たちはこの人々を叱った」と書いてあります。「来るな、帰れ」と言ったのです。当時、ユダヤ教の教師であるラビのもとに来て直接教えを受けることが出来たのは、成人の男性だけでした。女性も子供も来ることは出来なかったのです。それが常識でしたから、乳飲み子までも連れて来たこの親達を叱り飛ばした弟子たちの行動は、当時の常識に沿ったものと言えなくもない。しかし、主イエスというお方は、常識では捉えることの出来ないお方です。主イエスは、彼らを呼び寄せて、こうおっしゃったのです。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない。」
こう言って、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された、とまあ、このような物語です。短い、とても簡潔な物語ではありますが、ここには二つの大きな主題があることに、もう皆さんも気付かれたことと思います。第一の主題は、主イエスご自身が幼子を喜んで招き、祝福なさったことです。これが、あとで述べますけれど、初代のキリスト教会に大変大きな影響を与えました。そしてその影響は、今でも、教会の中に大切に残されております。それがキリスト教幼稚園の存在です。教会は幼児教育を重んじて、幼児の教育を教会教育として位置付けて、そのために教会が幼稚園を置いたのです。ですから、教会幼稚園というのは、あくまで教会の働きを担っている存在でありまして、教会を離れたところでキリスト教保育は成立するものではない。日曜日に開かれる教会学校が本元にあって、月曜から金曜日に開かれる幼稚園は教会学校のウィークデースクールとしての位置づけを持っていたのです。
さて、物語に戻りますと、主イエスご自身が子供たちを祝福なさったこと。これが今日の物語の第一の主題です。
そして、第二の主題は何かと言いますと、主イエスが弟子たちに、幼子のようになることをお求めになったことです。幼子のように神の国を喜んで受け入れることを、大人の弟子たちにお求めになったのです。これが第二の主題です。この第二の主題を、私たちがどう聞くか。そこに今日の物語の肝心要といいますか、急所があると思います。
さて、そこでまず第一の主題から見ていきますと、主イエスご自身が子供たちを招いておられる、祝福しておられるのですから、これはもう、弟子たちもこれに倣いなさいということです。で、これのいったいどこが初代教会に大きな影響を与えたかと言いますと、当時は現代に比べますと、赤ちゃんが生まれて、そのまま無事に幼児から児童、青年へと成長していくことが、まだまだ少なかった。幼児が病気や栄養失調で亡くなることが多かったのです。青年や大人であれば、礼拝の中で御言葉に養われ、培われて、信仰を告白し、洗礼へと導かれる。そういうことが大人であれば起こってくるわけです。ところが、幼子、特に乳飲み子や幼児ですと、そうはいきません。幼児が自ら信仰を言い表すということは、まず考えられません。ところが、初代キリスト教会は、最初から信仰に基づいて洗礼を授けることを大切にしておりましたから、まだ信仰が芽生えていない幼児に洗礼を授けるわけにはいかない。
しかし、幼児が信仰を告白できる年齢まで無事に育つことは必ずしも多くはなかった。実際、洗礼を受けないまま亡くなった幼子の魂は救われるのか否かという議論があったわけです。これは大変に深刻な問題ですね。そこに一条の光を指し示したのが、今日の物語の主のお言葉です。主イエスご自身が幼子乳飲み子たちを招いておられるではないか、主が幼子を祝福しておられるではないか、何を迷う必要があろうか、というわけで、ここに幼児洗礼の道が開かれたのです。これが今に至る教会の伝統になりました。
しかし、そうなりますと、どうでしょうか? 主イエスは手招きをして乳飲み子たちを呼び寄せた上で、弟子たちと親たちに向かって「子供たちをわたしのところに来させなさい」と声をおかけになったのです。これはどういうことかと言いますと、主の招きは幼子たちに向けられている。しかし、「幼子たちをわたしのところに来させなさい」という命令は大人たちに向けられている、ということですね。乳飲み子・幼子が自分の力で、自分の足でイエス様のところへ来れますか? 来れないでしょう。だから、幼子たちがイエス様のところに来ることが出来るように、「来させなさい」という命令が弟子たちと親たちの両方に向けられるのです。つまり、弟子たちと親が一致して、責任をもって、幼子を導きなさいということです。ここは大事なところですね。どうやったら導けるのでしょうか? 幼子と一緒に主の御言葉を聞くのです。子供向けのメッセージだから、私ら聞かんでも良いわ、というのではない。主イエスの御言葉に子供向けも大人向けもありません。大人であろうが子供であろうが、等しく、飢え渇いた魂に向けて主イエスの御言葉は語られる。その御言葉を幼子と一緒に聞く。これは知的好奇心や知識で聞くのではない。まして教養講座のように聞くのではない。心の深みで、聞くのです。語りかけの言葉を聞く。神の言葉を、語りかけを聞く。
すると、何が起こってくるか? 大人である弟子たちが、私たちが、幼子のようになって神の国を、神のご支配を喜んで受け入れる、ということが起こってくる。神の御業の出来事として引き起こされていくではないですか。ここに第一の主題から第二の主題へのステップがあります。
第二の主題とは、何だったでしょうか? そう、大人である私たちが幼子のようになることを主イエスはお求めになった。幼子のように神の国を受け入れることをお求めになった。それが今日の物語の第二の主題でしたね。
ところが、弟子たちには、これがなかなか出来ないのです。出来ないからこそ、彼らは幼子を連れた親子を叱ったわけでしょう? イエス様の前はお前たちの来るところではないと上から目線で拒絶したわけです。そんな弟子たちの心根を主イエスは見抜いておられました。だからこそ、主イエスは、折りに触れて弟子たちを諭されたのです。幼子のようになるとは、どういうことなのか、その一点を教え諭されたのです。ルカによる福音書に、こういう物語があります。ルカ福音書9章の46節以下。124ページです。こんなことが書かれています。弟子たちの間で、自分たちのうち誰が一番偉いのかという議論が起こりました。ずいぶんと大人気ないと言いますか、子供っぽいなと思いますが、幼子のようになることと子供っぽくなることは全然違いますね? 主イエスは、そういう子供っぽい弟子たちの心を見抜いて、一人の子供の手を取って、ご自分のそばに立たせて、その姿を弟子たちにお見せになったのです。子供と書いてありますが、ここは乳飲み子から幼児期へ差し掛かる頃の子供です。這い這いから、つかまり立ちがようやく出来るかという時期の子供です。「おぼつかない」という言葉がありますが、イエス様は、そういう立っているのもおぼつかない幼子の手を取って、ご自分のそばに立たせて、その姿を弟子たちに見せておられるのです。この子は、イエス様の手にすがっているから、立っておれる。一生懸命に両手を上に伸ばして、イエス様にすがっている。今、主イエスが手を離したら、この子はきっと、ストンと床に両手を付いてしまう。あなたがたの本当の姿は、こうなのではないかと主イエスは、言葉にするよりも更に雄弁に語っておられるのではないでしょうか?
自分たちの中で誰が一番偉いかという議論は、我々は独り立ち出来ているということが前提になった考え方です。自分たちは十分立派にやっていけるということが無意識のうちに前提になっている。そういう弟子たちの考え方を見抜いて「あなたがたは、そうであってはならない」と、主イエスはそう言っておられるのではないでしょうか?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
4月23日(日)のみことば(ローズンゲン)
「誰かが隠れ場に身を隠したなら、わたしは彼を見つけられないと言うのかと、主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと主は言われる。」(旧約聖書:エレミヤ書23章24節)
「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(新約聖書:ヘブライ書4章13節)
今日の新約の御言葉は「神の眼差し」ということを知る上で、大変に示唆に富む御言葉です。「神の御前では、すべてのものが裸であり、さらけ出されている」と聞くと、私たちは相手を咎めるような厳しい眼差しを連想しますが、被造物に対する創造主の眼差しが厳しいだけであるはずがありません。創世記が語るように、すべての被造物をご覧になって、神は「極めて良い」と言われたのですから。
また、禁断の木の実を食べて罪に落ちたアダムとエバは、神の眼差しを恐れて身を隠しましたが、神の御前に彼らは隠れることが出来ませんでした。彼らは神の眼差しを恐れましたが、じつは彼らに向けられた神の眼差しは、咎める眼差しではなかった。悲しみと憐れみの眼差しを、神は彼らに向けられたのです。私たちはこの眼差しの中で、裸であることを恥じる必要はないのです。