聖書:イザヤ書50章4~7節・マルコによる福音書9章38~41節

説教:佐藤 誠司 牧師

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(マルコによる福音書9章41節)

 

今日はマルコ福音書の第9章38節以下の物語を読みました。エルサレムに向かう途上で起こった、小さな出来事を伝える物語です。決して大きな出来事ではありません。小さな出来事ではありますが、私はこれは、今に至るまで、また将来に至るまで、主の弟子である人々が心に刻むべき物語であると思います。物語は、弟子の一人であるヨハネの言葉で始まります。

「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

いかがでしょうか。いささか気色ばんで、興奮気味に語っているヨハネの様子が目に浮かびます。彼は、いったい、何が言いたいのでしょうか? おそらく、こういうことだと思うのです。旅の途上で、弟子たちは、自分たちの先生である主イエスの名を使って悪霊を追い出し、病を癒す業をする人々を見かけた。知らない人たちです。しかも、主イエスの名を使いながら、信じているというわけでもない。都合よく先生の名前だけを使っている。主イエスの名によって悪霊を追い出しているのに、その手柄を自分のものとしている。赦せないではないかと。

つまるところ、主イエスの力が自分たち以外の人によってなされるのが気にくわない。赦せないのです。主イエスの名を使うのなら、私たちと行動を共にせよというわけです。これは一見、もっともな言い分のようにも聞こえますが、どうでしょう。結局は、主イエスの力を自分たちだけのものにしているということではないでしょうか。ヨハネの言葉には、そういう心の狭さが見て取れます。主イエスも、そこのところ見抜いておられたのでしょう。ヨハネに向かって、こうおっしゃいます。

「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」

いかがでしょうか。皆さんは、この御言葉を、どのように聞かれたことでしょう。いきり立って文句を言うヨハネに向かって、主イエスは優しくたしなめておられる。そんなにいきり立つことはないではないか。あの人々が私の名を使って癒しの業をしていても、構わないではないか。「私たちに逆らわない者は、私たちの味方ではないか」と言って、「もっとおおらかになれ」と諭しておられるのではないでしょうか? イエス様らしい、懐の深い言葉だと思います。

ところで、イエス様が言われた「味方」という言葉ですが、この言葉は「味方」とか「仲間」と訳すことの多い言葉ですが、もともとは「門の中」という意味のあった言葉です。同じ門の中にいるから、味方であり、仲間になるわけです。そういえば、日本語でも同じ先生に付く弟子たちのことを「何々一門」と読んだり、「同門」と呼んだりします。同じ門をくぐって、一つの門の中にいるから味方同士、仲間同士になるわけです。ここから、「門」という言葉は、ただ単に「開閉する扉」という意味を超えて、象徴的な意味を持つようになったのです。例えば、こんな御言葉がありますね。

「狭い門から入りなさい。」

主イエスが言われたお言葉です。なぜ狭い門から入るように言われたのか。門の狭さとは、どういうことなのか? それを説明するために、主イエスは、一つの譬えを語ってくださいました。ルカ福音書の13章22節以下に記された譬え話です。

ある家がありまして、その家の門が閉ざされてしまったそのあとで、遅れてやって来た人々がいました。さあ、その人々は入ることが出来るか出来ないか。そういう譬え話です。主イエスは言われます。

「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『ご主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう。しかし、主人は『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」

この家の門は、開けっ放しの門ではないのです。やがて時が来ると、閉じられる門です。門が閉じられるのは、どういう時でしょうか?

当時の門というのは、開けっ放しであることは稀であって、閉じられていることのほうが圧倒的に多かったようです。しかも、人を締め出すために閉じられるのではなくて、逆に、人を入れるために閉じられるのです。どういうことかと言いますと、閉ざされた門の前に、そこを入ろうとする人がやって来ます。すると、その人はどうしますか? 門をたたくでしょう? すると、中から声が聞こえます。お前は何者だという声が聞こえるのです。しかし、これは名前を問うているのではありません。門の中にいる主人との関係を尋ねる声です。そこで門の外にいる人は「私はご主人様と、これこれこういう関係にある者です」と答える。すると、門番がそれを主人に伝える。主人がそれを認めると、そこで初めて門が開かれるのです。ですから、門を開くのは、その人と主人との関係です。主人との関係、絆が門を開く。ここが大事なところです。

そういえば、この譬えに出て来る人たちも、閉ざされた門の前で、自分と主人との関係を口にしています。一生懸命になって、訴えています。しかし、その中身は、どうだったでしょうか? 彼らは、こう述べ立てていました。

「ご主人様、わたしたちは、ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、またわたしたちは、広場であなたの教えを受けました。」

食べたり飲んだりとは、どういうことでしょう? 広場で教えを受けるとは、何を意味するのでしょうか? 食べたり飲んだりするというのは、主人が主催する食卓に一緒に着いた、ということでしょう。広場というのは公の場です。公というのは、神と人との前ということにほかなりません。つまり、広場で教えを受けたというのは、礼拝であなたが語る御言葉を聞きました、ということでしょう。ということは、どうでしょう。主人と一緒に食べたり飲んだりすたというのは、主の食卓のことであり、広場で教えを受けたというのは、礼拝で御言葉を聞いたということではないでしょうか?

彼らはそれを一生懸命に訴えるのです。しかし、よく見てください。彼らはそれを過去形でしか言えないのです。主よ、私は、あのとき、あなたの食卓に着きました。私は、あのとき、あなたの語る御言葉を聞きました。しかも、ここで使われている過去形は、継続の意味の無いものです。私は聖餐に与ってきました、御言葉を繰り返し聞いてきました、という継続の意味は、ここにはない。つまり、彼らは門の前で、こう言っているのです。主よ、私は、あなたの食卓に着いたことがあります。あなたの御言葉も聞いたことがあります。与ったことがある。聞いたことがある。これでは、過去の思い出話をしているのと同じです。昔撮ったご主人様とのツーショットの写真を取り出して、昔々、私はあなたとこういうことがあったのですよ、と言っているのと似ています。

しかし、門の前で問われているのは、そういう過去のいきさつではないのです。主人との関係が問われている。あくまで現在の関係が問われているのです。御言葉を聞いたのは過去のことであっても良いのです。食卓に着いたのも、過去のことであって良い。

しかし、そこで問われるのは、過去の出来事そのものではなくて、その過去の体験と現在の私たちをつなぐ生きた関係です。過去に聞いた御言葉、過去に与った主の食卓の恵みが、今のあなたの中で、いかなる実を結んでいるか? 今のあなたにどのような影響を与えているか? あなたはそれを喜んでいるのか? この門の前では、そこが問われている。

しかし、残念なことに、この人たちは、昔のツーショットの写真以上のものを自分の中から取り出すことが出来ませんでした。そこで、主人は彼らに言います。

「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ。」

不義を行う者ども、と呼んでおられます。これは「悪を働く者」と言い換えても良い言い方です。イエス様に対して悪事を働いたわけでもなし、そこまで言われなくてもと思われるかも知れません。しかし、主イエスは、御自分の御言葉を、御自分の食卓を、それほど値打ちの低いものとは見てはおられません。主の御言葉は、必ず、聞いた人の中で芽を出し根を張って、実を結ぶ。主の食卓は、必ず、それを受けた人を根底から変えていく。だから、聞いても何も変わらなかった人を、不義を行う者と呼んでおられる。あなたは私と何の関わりがあるのかと問うておられるのです。

しかし、それなら、門の前にいるこの人たちは、もう完全に救いから閉め出されてしまったのでしょうか? 蚊帳の外に捨て置かれてしまったのでしょうか? 私はそうではないと思うのです。

皆さんは、創世記第7章のノアの物語をご存知のことと思います。あの舟は扉が完全に閉ざされて、罪ある人は、誰一人、箱舟に中には入ることが出来ませんでした。内と外は厳しく隔てられています。そこには罪人が悔い改めるということは、考えられてはいなかったように思います。

しかし、主イエスは、まさに罪人が悔い改めて、門が開かれるために来てくださったのだと思います。ルカ福音書15章の「いなくなった羊」の譬えで、主イエスは、こう語ってくださいました。

「言っておくが、このように、悔い改める一つの罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

このように、罪人の悔い改めが、天の喜びを生み出して、やがて天国の門が開かれることを暗示しておられる。主イエスはそのために、今、エルサレムを目指しておられるのではないでしょうか。十字架の主イエスが、私たち罪人と天の父なる神様との絆を作ってくださる。だから、主イエスの御言葉に聞き入って、御言葉の中で、悔い改めの実を結びたいのです。

そして、もう一つ、今日の箇所には大事なことが言われております。41節です。

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

これは、何を言っておられるのでしょうか。よく分からないと思われた方も多いと思います。聖書の解釈の歴史を振り返っても、そうでありまして、この41節の言葉は、40節から続いていると言うより、むしろ42節に続く言葉だと解釈をする学者もいるのです。しかし、私は、やはりこれは40節につながる言葉だと思います。「逆らわない者は味方だ」という言葉につながる御言葉だと思うのです。

マルコ福音書は、ローマで成立した書物であると言われます。そして、この福音書の成立に深く関わったのがペトロです。ペトロは、歴史上名高い皇帝ネロによる大迫害によって命を奪われたといいます。ですから、マルコ福音書は、この大迫害を背景にしている。迫害の影があちこちに見られるのです。迫害の恐怖におびえつつ、キリスト者たちは礼拝を守りました。表立って礼拝を守ることは出来ません。地下に掘られた墓にこもって、彼らは礼拝をした。ですから、自分がキリスト信者だということが明らかになれば、もうどんな目に遭わされるか分からない。人々から蔑まれ、村八分にされてしまう。町から追放されてしまう。昨日まで親切に接してくれていた人たちが、手のひらを返したように冷たくなってしまう。

しかし、そんな中にあって、人目を忍んで、そっと水を一杯飲ませてくれる人がいる。その人はキリスト者ではありません。キリストを信じているわけでもない。そういう意味では、主イエスの味方とは言えない。門の外にいる人です。しかし、イエス様は、そういう人のことを切り捨てることをなさらない。イエス様は、こう言っておられるのです。

「あなたに、水一杯を飲ませてくれた、その人に、必ず報いはある。救いは備えられている。」

私の父と母は既にに亡くなっています。二人とも、洗礼を受けることはありませんでしたが、本人の遺言によって、父は長町の教会の墓地に納骨され、母は福井の聖徒之墓に納骨されました。

 

父は私が牧師になることには賛成ではありませんでした。しかし、私より先に結婚をした弟の結婚式の式次第に書かれていた第一コリント13章の愛の賛歌の言葉を、父は毎晩、お風呂上りに読んでおりまして、あるとき、父が、こう言った。「誠司、あんたは、ここに書いてあるようなことがやりたいのか」と尋ねてきた。私は「そうや」と答えました。すると父は感慨深そうに「そうか」と言いました。そして数日後、父は、いきなり「お父ちゃんは、あんたを応援する」と言ったのです。こうして私は神学大学に入ることが許されました。父は母と一緒に就任式にも来てくれましたし、体が動くうちはと言って、毎月、感謝献金を送ってくれました。洗礼を受けたわけではありません。その意味では門の外にいる人たちです。しかし、この人たちは救われたのだと私は信じています。その根拠となるのが、この41節の御言葉です。

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

水一杯どころか、何くれとなく心砕き、心配をし、牧師となったことを心から喜んでくれた。その人が救いという報いを受けないはずがないのです。皆さんお一人お一人が今、礼拝を守っておられる、その背後に、同じような人たちがおられると思います。洗礼を受けることなく亡くなった祖父母や両親かも知れませんし、伴侶や兄弟であるかも知れません。洗礼は受けなかった。しかし、私をミッションスクールに行かせてくれた。私がキリスト教幼稚園に勤めるのを応援してくれた。私が教会学校に行くとき、献金を持たせてくれた。私がキリスト者になったことを喜んでくれた。この人たちは、主イエスの名を呼ぶことを知りませんし、祈ることも知りません。しかし、この人たちは、神様の大きな計画の中で、大きく尊く用いられている。救いは一人で終わるのではない。「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる」とは、そういうことだと思うのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

3月26日(日)のみことば(ローズンゲン)

「神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる。」(旧約聖書:ヨブ記34章21節)

「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」(新約聖書:ルカ福音書24章32節)

今日の新約の御言葉は、エマオへ向かう道を復活の主イエスと共に歩んだ弟子たちが語り合った言葉です。「心が燃える」とは、一時的に燃え盛って、あとは燃えカスだけが残るような燃え方ではありません。深く、静かに、しかし確実に燃え続けている。あの燃えた炎が、今もずっと、自分自身を暖かく照らし、周りを照らしている。平安の光となっている。

イエス様というお方は、傷ついた葦を折ることなく、消えかかった灯心を消すことなく、もう一度、明るく燃やしてくださる。信仰の炎を燃やしてくださる。あのエマオに向かう二人の弟子たちが、絶望に捕らわれて、悲しみの歩みを続けていたとき、歩みを共にしてくださって、道々、御言葉を説き明かしてくださった。あのとき、彼らは、消えかかっていた信仰の炎が再び燃えたのです。