聖書:イザヤ書53章1~12節・マルコによる福音書9章30~37節

説教:佐藤 誠司 牧師

「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』」(マルコによる福音書9章35~37節)

 

今日はマルコによる福音書の第9章30節以下の物語を読みました。ここにも主イエスご自身による受難予告が語られています。私たちは、イエス様が何度か繰り返してご自身の受難を予告されたことは知っていますが、いったいそれは何度であったかと、改めて問われますと、なんだか、うろ覚えと言いますか、何度であったか正確に言い当てることの出来る人は、意外に少ないと思います。

しかし、マルコ福音書は、そこのところは、じつに明快でありまして、マルコは3度に渡って主イエスは受難予告を語られたのだと明記しているのです。最初の受難予告は、8章の31節以下に出ておりました。そして、2回目が今日の箇所。そして、3度目が10章の32節以下に出て参ります。3度、繰り返されたのだとマルコは明記しているのです。しかも、この「3度」というのが意味深長です。聖書に「3度」という数字が出て来たら、これは回数のことではないことが多いのです。

パウロが第二コリントの12章で述べていることですが、どうもパウロには激しい発作を伴う持病があったようです。癲癇ではなかったかと推察される。辛い病です。で、その病を取り去ってくださいと、パウロは「3度主に願った」と書いている。あの3度というのが、まさにそうでありまして、これは「1回、2回、3回」と数えられるような具体的な回数のことではなくて、何度も繰り返し主に願った、ということをパウロは言っているのです。

マルコ福音書に受難予告が3度出て来るというのも、これとよく似ています。つまり、マルコは何を言っているかと言うと、イエス様はエルサレムに向かう途上で、弟子たちに繰り返し繰り返し、ご自身の受難を予告なさったということなのです。

しかも、マルコ福音書が伝えている3度の受難予告を丁寧に読み比べますと、そこに微妙な違いがあることに、気が付きます。どういう違いかと言いますと、1回目と3回目の受難予告は、「人の子は、長老や祭司長、律法学者たちに引き渡されて」というふうになっている。長老や祭司長、律法学者といえば、当時のユダヤの指導者たちです。ところが、それらの真ん中に挟まれた今日の箇所は、どうでしょうか。31節です。

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。」

人々の手に引き渡されると言っておられるのです。祭司長や律法学者たちだけではない。すべての人の手に引き渡されて、自分は殺されるのだとハッキリ言っておられるのです。

しかし、私たちが忘れてならないのは、主イエスの受難予告が、十字架の予告のみならず、復活の予告も含むものであったということです。受難予告は復活の予告をも含むものだったのです。だから、主の言葉は、こう続きます。

「殺されて、三日の後に復活する。」

しかし、弟子たちには、主が語られたことの意味が分からない。全く分からなかったのです。分からなければ、質問すれば良いではないかと私たちは思います。けれども、弟子たちは、そうはしなかった。しなかったと言うより、怖くて質問すら出来なかったのです。

なぜ、怖かったのだろうか。主イエスが御自分の死を予告しておられる。その死の余波とでも言うのでしょうか。イエス様の死の波紋が、自分たちにも及んで来るのではないかと、漠然とした恐怖感に、早くも彼らは捕らわれていたのではないかと思います。

漠然とした恐怖感に捕らわれる時、人はどういう行動に出るでしょうか。恐怖感を克服するために、何がしかの努力をするだろうか。おそらく、多くの人は、そんなことはしない。弟子たちも、そうでした。彼らは、恐怖感を紛らわすために何をしたかというと、なんと自分たちの中で誰が一番偉いかと、議論に熱中し始めたというのです。なんて大人げないことかと思いますが、こういうのが案外、人間の正直な姿なのかも知れません。彼らは逃避しているのです。イエス様の死から目を背けて、自分たちが今一番熱中できることで気を紛らわす。心の弱さがなせる逃避です。

イエス様は、そんな彼らの心の弱さを見抜いておられたと思います。35節に「イエスが座り」と書いてあります。この「座る」というのは、当時のユダヤでは、律法の教師が弟子たちに教えるときに取った姿勢です。マタイ福音書第5章のはじめの山上の説教の冒頭も「イエスが腰を下ろされると、弟子たちが集まって来た」と書いてありますが、大事な話があるときに、教師は腰を降ろして座ったのです。すると、それだけで、弟子たちは、ああ、先生は今から大事な話をなさるのだなと分かったのです。主イエスは十二人を呼び寄せて、こう語られかした。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい。」

何を言っておられるのでしょうか。一番になりたかったら、皆の先頭に立つのではなく、反対に、一番後につきなさい。そうすれば、却って人の注目を集めることになる。だから、後につくほうが得ですよ。あとに付く人が、案外、一番になれるのだよと、一番になるための秘訣を、こっそりと伝授しておられるのでしょうか。

もちろん、そうではないですね。そういうハウツウ物を伝授しておられるのではなくて、生き方そのものを問うておられるのです。では、その生き方とは、どういう生き方なのか。

それを知るには、もう一箇所、別のところで語られた主イエスの御言葉を読まなければならないと思います。それはマタイ福音書第20章25節以下の御言葉です。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

いかがでしょうか。最初は弟子たちのことを言っておられたのに、いつの間にか、御自分の生き方に変わってきていることに、皆さん、気付かれたと思います。これは、どういうことかと言いますと、私と同じ生き方を、あなたがたはしなさいと言っておられる、ということです。これは、私たちが心に刻まなければならないことだと思います。

そして、もう一つ、心に留めておくべきことが、あります。それは、イエス様が使われた「偉い」という言葉の意味です。弟子たちが、「自分たちの中で誰が一番偉いか」と言い合った。その時の「偉い」という言葉は、まあ、普通の意味の「偉い」という言葉なのですが、イエス様が使われた「偉い」という言葉は、ちょっと意味が異なりまして、「偉い」と訳しても、もちろん構わないのですが、それ以上の重みを持つ言葉なのです。

じゃあ、それは、どういう意味かと言いますと「選ばれた」という意味なのです。「選ばれた」という言い方は、文法的に言うと受動態、受身の言い方です。聖書に受身の言い方が出て来たら、その主語は神様だと思って、ほぼ間違いがない。ここも、実は、そうでありまして、「選ばれた人」といえば「神がお選びになった人」ということなのです。

では、神様が人をお選びになるときって、どういう人を選ばれるのでしょうか。力も能力もある、優秀な偉い人を選ばれるでしょうか。これについて、深い示唆を与えてくれる御言葉が旧約聖書にあります。それは申命記の第7章6節以下の言葉です。

「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛にゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」

神様の選びというのは、こういうことなのです。立派だから、力があるから選ばれたのではない。むしろ、力も能力も無い、数も少ない、貧弱としか言いようの無い者を、神様は選んでくださる。選んで、どうなさるのか。御自分のものとしてくださるのです。さあ、イエス様が言われる「選ばれた者」とは、誰のことなのか。どういう人のことなのか。

さて、イエス様は「すべての人に仕える者になりなさい」と言われた後で、じつに不思議な行動に出られます。主イエスは、一人の子供の手を取って、弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げて、こう言われたのです。

「わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

なぜ、子供を受け入れる者は私を受け入れるのだと言われたのか? この「子供」と訳された言葉は、じつは「幼児」のことです。しかも、より正確に言えば「乳児」からようやく「幼児」にさしかかった頃の、小さな幼児なのです。ということは、とてもじゃないけれど、自分の力では立ち上がることが出来ない。つかまり立ちがやっとのこと。そういう子供です。だから、ここに「手を取って」と書いてあるのです。つまり、今、もし、イエス様が手を離したなら、もう立っていることが出来ずに、へたり込んでしまう。しゃがみ込んでしまう。そういう幼子を主イエスは弟子たちに見せて、この子を受け入れてご覧と言われたのです。そうすれば、私を受け入れることになる。また私をお遣わしになった父なる神をも受け入れることになる。そして、あなたがた自身をも受け入れることになる。なぜなら、この幼子こそ、あなたがたの本当の姿なのだ、だから、この幼子の姿を心にとどめておきなさい、と、そこまで主イエスは言っておられるのではないでしょうか? 私は、ここに、主イエスが言われた「選ばれた人」「偉い人」の本当の意味が隠されているのではないかと思うのです。さあ、「偉い人」「選ばれた人」とは、いったい、誰のことなのでしょうか。

主イエスは十字架につけられる前の晩、ペトロに向かって、こうおっしゃっいました。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」

あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈ったと言われたのです。そして、そのあと、主イエスは何と言われたでしょうか?

「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

そう優しく諭してくださったのです。「だから」という言葉が効いていますでしょう? これは、じつにさりげない約束の言葉です。「あなたは立ち直ることが出来る」という約束です。

さあ、立ち直るとは、どういうことでしょうか? 主イエスが言われた「立ち直る」とは、自力でよっこらしょと立ち上がることではないのです。主イエスに手を貸してもらって、その手にすがって立ち上がることです。あの幼子と同じです。

使徒言行録第3章の「美しい門」の物語を思い起こしてみてください。あのとき、ペトロは足の不自由な男に向かって、こう言いました。

「ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

これが「立ち直り」です。どうしてペトロはこれを言うことが出来たのでしょうか? ペトロも同じことを主イエスにしていただいたからです。主イエスに手を貸してもらって、主の手にすがって、この人は立ち直ったのです。

思えば、ペトロという人の人生は、それの繰り返しだった。ガリラヤの湖で、湖の上を歩かせてもらった時も、嵐が襲う舟の中でも、主イエスを見捨てて逃げたエルサレムでも、そうだった。心が弱かったのです。主イエスは、彼の、そういう弱さ、もろさを見抜いておられた。

だから、マルコ福音書の今日の箇所で、主イエスは一人の子供の手を取って、ご自分のそばに立たせて、その姿を弟子たちに見せてくださったのです。あの「子供」というのは、正確に言えば「乳児」から「幼児」にさしかかった幼子のことなのだと申しました。自分一人では立つことすら出来ない幼子が、今、主イエスに手をとってもらって、主イエスの傍らに立っている。この姿こそ、あなたがたの本当の姿ではないかと、主イエスは言われたのです。

主イエスに贖われて、この幼子のような姿を取り戻したときにペトロは言うことが出来たのです。「あなたも主イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うことが出来るようになった。主イエスを受け入れるとは、この幼子のようになることです。主イエスの手にすがって立ち上がるのです。

ペトロは、主の復活を知らされて、それでたちどころに立ち直ったかと言うと、そうではなかったですね。むしろ、彼は、もう主イエスの弟子であることを捨てて、失意のうちに、故郷のガリラヤに、再び漁師になるために帰っております。なぜ帰ったのか。ご存知のように、ペトロは主イエスが捕らえられた時、三度にわたって主イエスを否認しております。イエス様のことを「知らない」と言ったのです。そのことが、どうしても赦せずに、彼は弟子であることを捨てました。

ところが、このガリラヤで復活のキリストが彼と出会ってくださる。そしてペトロに向かって、三度「あなたは私を愛するか」と問われたのです。三度問われた。これはペトロに、主イエスを三度否認したあの出来事を思い起こさせたに違いありません。主イエスは、いったい、何のために、そんなことをなさったのか? 私たち人間は、自分のとんでもない失敗や醜い失態を、忘れてしまおうとする性質があります。自分でも触れたくない。忘れてしまうと、確かに楽なのです。しかし、そのことが本当に解決されないと、本当の生き方が出来なくなる。その場しのぎの生き方しか出来なくなってしまいます。主イエスはペトロに、本当の生き方を取り戻させるために、敢えて、あの出来事に触れられたのです。そして、ペトロの、そうした罪が、すべて赦され、完全に贖われていることを、お示しになりました。そしてペトロに向かって「私の羊を養いなさい」と言って、新たな使命をお与えになった。自分でも触れたくない本当の自分、忘れてしまいたい自分の問題が、キリストの十字架と復活と、どういう関係にあり、どういう解決が成し遂げられているのか。そこをきちんと見ていくことが、どうしても必要になってくる。そういう場面が人生の決定的なところで出て来る。

ですから、皆さんお一人お一人が、自分の本当の生き方を取り戻すために、キリストは十字架にかかり、死者の中から復活をなさったということを、真面目に考えて、心に刻んでいただきたいと思います。そして、皆さんお一人お一人が、キリストの復活によって与えられている自分の救いというものを、しっかりと確認していただきたいと思います。

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

 

おはようございます。

今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

 

3月12日(日)のみことば(ローズンゲン)

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(旧約聖書:詩編23編1節)

「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(新約聖書:第一ペトロ書2章25節)

 

古代イスラエルの人々には、古くから、自分たちを羊に譬え、主なる神を羊飼いに譬える伝統がありました。今日の旧約の御言葉が、その典型ですが、羊という動物は群れを守る羊飼いがいなければ、ばらばらになってしまうという特性を持っています。イザヤ書53章6節に次の言葉があります。

「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」

今日の新約の御言葉は、おそらく、このイザヤ書の御言葉を受けて記されたのでしょう。ここでは主イエスの十字架が二つの正反対の意味で語られています。一つは、十字架の死によって羊飼いがいなくなって、羊が離散してしまったこと。二つ目は、しかし、その十字架の御業によって贖われた羊たちが「まことの羊飼い」である主イエスのもとに帰って来たことです。もちろん、後者に重点があることは言うまでもありません。