聖書:イザヤ書46章1~4節・マルコによる福音書9章14~29節
説教:佐藤 誠司 牧師
「イエスは父親に、『このようになったのは、いつごろからか』とお尋ねになった。父親は言った。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。お出来になるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。』イエスは言われた。『「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。』その子の父親は、すぐに叫んだ。『信じます。信仰の無いわたしをお助けください。』」」(マルコによる福音書9章21~24節)
今日はマルコ福音書第9章の14節以下の物語を読みました。じつは、私は、一つ、大きな意味を持つ物語を落としてしまいました。それは第9章の2節以下に記された、まことに不思議な物語「山上の変貌」と呼ばれる物語です。あそこに何が記されていたことでしょうか? 山の上で祈っておられた主イエスの姿が変わり、真っ白に光り輝いた。するとそこへ、モーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合っていたことが記されていました。
どうして、この物語が大きな意味を持つのかと言いますと、モーセとエリヤというのは、言い換えれば「律法」と「預言者」ということですね。その律法と預言者が、主イエスといったい何を語り合っていたかと言えば、これから成し遂げられる主イエスの御業について話し合っていたのです。その御業とはエルサレムで成し遂げられる十字架と復活の御業です。つまり、ここから、主イエスのエルサレムに向かう旅が始まっていると見ることが出来る。だから、この物語の意味は大きいのです。
今日の物語は、その山上の変貌が起こった山から主イエスが降りて来られるところから始まります。主イエスが弟子の中からペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて、山から降りて来られると、大勢の群集がすでにイエス様の帰りを今か今かと待っておりました。このように、イエスというお方は、いつも人々の願いや期待にさらされている。その願いや期待はいずれも切実なものではありますが、人間の願いや期待というのは、どうでしょう、どこか身勝手なところがありますね。主イエスは人々の願いや期待に答えながら、きっとその切実さだけでなく、身勝手さをも見抜いておられたと思います。すると、そのとき、群集の中から一人の男が叫んだのです。
「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、出来ませんでした。」
切実な悩みです。一人息子が悪霊にとりつかれていて、さんざん苦しめられているのです。そこで意を決して、主イエスに癒していただくよう願いに来た。ところが、あいにく、主イエスは山に登っていて不在であった。しかも、主イエスは12人の弟子の中でも特に主だった三人を連れて行っておられる。残りはというと、どこか心もとない弟子たちしか残っていなかった。父親はその弟子たちに悪霊を追い出してほしいと頼んだのです。しかし、彼らには出来なかった。父親は、そのありのままを主イエスに訴えたのです。留守を預かっていた弟子たちは、それこそ赤面する思いで父親の言葉を聞いていたに違いないと思います。
ところが、この父親の訴えを聞いた主イエスの口から出て来たのは、意外とも言える言葉でした。イエス様はこうおっしゃったのです。
「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
これだけ読みますと、なんだかイエス様は苛立っておられるようにも感ぜられます。苛立って、もう我慢できない、堪忍袋の緒が切れたと言っておられるようにも聞こえます。しかし、皆さんは、どう思われるでしょうか? 主イエスというお方は人々に苛立ちをぶつけるようなお方なのだろうか? 私は違うと思います。では、主イエスは、ここでいったい何を言っておられるのでしょうか?
どうしてここを読むと、イエス様が苛立っておられるように思ってしまうのか? その理由の一つは、「我慢」という言葉を使ってしまった点にあると思います。まあ、ここは「我慢」と訳しても間違いではないのですが、より正確に言いますと、「我慢」というより「忍耐」と訳すほうが、ふさわしい。どうしてかと言いますと、それは私たちが「我慢」という言葉を口にする時の心を思い浮かべたら、分かると思います。
私たちも「我慢」という言葉を、よく使います。「もうあなたには我慢できない」とか「もう我慢の限界だ」などと、よく言います。しかし、私たちが誰かのことを「もう我慢の限界だ」と言う場合、すでにその相手のことを見離している。もう相手を切ってしまっていることが多いのではないでしょうか。もう相手のことを見離して、切ってしまっているにも関わらず、「もう我慢も限界だ」などと言っているとすれば、ちょっと、ずるいと言いますか、不誠実な感じがしますね。
しかし、主イエスは、そういう我慢をするようなお方でしょうか? 心の中では相手を見離しているのに、「いつまで我慢が出来ようか」と言っておられるのか。私は違うと思う。主イエスがしておられるのは我慢ではなく、忍耐なのです。我慢というのは、相手を見離している。しかし、忍耐は違う。相手を見離してはいない。見捨てない。見捨てないで担っていく。それが忍耐の忍耐やる所以です。どうして見捨てないのか。それは愛があるからです。つまり、忍耐の背後にあるのは愛、それも犠牲を伴う愛、ささげる愛なのです。そう言えば、使徒パウロは第一コリント13章の「愛の賛歌」で、愛について真っ先に、こう言いましたね。
「愛は忍耐強い。」
さあ、この愛は、いったい、何を犠牲とする愛なのか? 何をささげる愛なのか? そこが肝心要になってまいります。
そしてもう一つ、この「我慢」と訳された言葉には、旧約以来の伝統があることも、付け加えておかなければならないと思います。この「我慢」と訳された言葉は、新約時代には先ほど述べたように「忍耐」という意味を持つようになったのですが、それ以前の旧約の時代にはどうであったかというと、皆さん、意外に思われるかも知れませんが、「持ち運ぶ」という意味があったのです。しかも、軽いものを、いとも容易に、やすやすと持ち運ぶというのではなくて、身に余るような重いものを、下から支えるようにして、呻きながら持ち運ぶ。その有様を現すのが、この言葉であったといいます。その代表的な例が、今日読みましたイザヤ書46章4節の言葉です。3節の後半から読んでみたいと思います。
「あなたたちは生まれたときから負われ、胎を出たときから担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
ここに「担う」「背負う」と言葉を変えて何度も登場するのが、この「持ち運ぶ」という言葉の変化形です。どうして「持ち運ぶ」という言葉が「忍耐する」という意味を持つようになったのでしょうか? 大きな重いものを持ち運ぶためには、下から両手で支えなければなりません。身をかがめ、下に入って初めて、持ち運ぶことが出来るのです。落とすわけにはいきません。忍耐が必要なのです。
主イエスは今、いつまで私は、あなたがたの不信仰を支えなければならないのかと嘆いておられるのです。いったい誰の不信仰を嘆いておられるのでしょうか? 悪霊を追い出すことが出来なかった弟子たちの不信仰でしょうか? 確かに、それはあると思います。身勝手な願いや期待だけを寄せてくる人々の不信仰でしょうか? それもあるでしょう。しかし、主イエスが今、渾身の力を込めて下から支え、持ち運ぼうとしておられるのは、もっと巨大な、手ごわいものではないでしょうか? それはいったい何か? 時代そのものの不信仰なのです。だからこそ、主イエスは「なんと信仰のない時代なのか」とおっしゃったのです。私は、これは今日の物語を読み解く上で、忘れてはならない点だと思います。
時代そのものが不信仰というのは、考えてみれば、大変なことです。時代全体が不信仰なのですから、その不信仰の影響を蒙らない人が、その時代の中に一人でもいるだろうか。私はいないと思います。例えば、こういう状況を想像してみてください。曲がりくねった道を、みんなが歩いています。その中に、一人でも、真っ直ぐに歩くことの出来る人が、いるでしょうか。自分では真っ直ぐ歩いているつもりでも、道そのものが曲がっているのですから、自分も曲がらざるを得なくなります。無理にまっすぐ進もうとすれば、壁にぶつかってしまいます。時代そのものが曲がっているとは、そういうことです。弟子たちも、例外ではありません。彼らも時代の子として、不信仰な、曲がった道を歩いています。
ならば、イエス様は、人々の不信仰を非難しておられるのでしょうか。蔑んでおられるのでしょうか。私は違うと思うのです。主イエスというお方は、不信仰な、曲がった時代の中に、信仰を見出してくださる。信仰を生まれさせてくださるお方ではないかと思うのです。その典型的な例が、この病気の息子を持つ父親との出会いです。イエス様は父親に、「その子を私のところに連れて来なさい」と言われる。父親が言われるままに我が子を連れて来ると、子供に取って苦しんだのでしょう。目も当てられない様子が伝わってきます。主エスが父親にお尋ねになります。
「このようになったのは、いつ頃からか。」
父親は答えます。
「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。お出来になるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
この父親の思いは、私たちにもよく分かります。これまで何度も医者にもかかり、まあ当時のことですから祈祷師にもかかったことでしょう。しかし、その度に、失望を味わった。それで、イエス様ならばと思って出かけて来たのだけれど、弟子たちには息子の病を癒すことは出来なかった。もうこの時点で、父親の中では、この弟子たちの先生であるイエス様にすがっても、本当に癒していただけるのか、心もとない思いもあったと思います。またもや手痛い失望を味わうのかという思いもあって、その失望感から身を守ろうという思いもあったのでしょう。この父親は、つい「お出来になるなら」と言ってしまったのだと思います。そこには主イエスに対する謙遜の思いも汲み取れる、私たちにもよく分かる思いであると思います。
ところが、主イエスは、ここに人間の「不信仰」を見て取られる。そして、父親が何気なく口にした言葉を、そのまま引き取って、こう言われる。
「『出来れば』と言うか。信じる者には何でも出来る。」
心の隙間を突く言葉というものが、あると思います。この時の主イエスの発した言葉こそ、心の隙を突く、鋭い言葉であると思います。雷に打たれたようなという表現がありますが、おそらく、この時の父親ほど、この表現があてはまる例はないと思います。彼は、言葉を選ぶ暇も無いほど反射的に、こう答えたのです。24節です。
「その子の父親は、すぐに叫んだ。『信じます。信仰の無いわたしをお助けください。』」
先ほどのイエス様の言葉は、明らかに父親を叱っている言葉ですから、「しまった」という思いが父親の中には、あったと思います。しかし、それなら、もっと上手な言い方もあったと思いますし、父親も大人ですから、そういう世慣れた言い方は心得ていたと思います。例えば、こんな言い方です。
「お気を悪くされたなら、お詫びします。確かにおっしゃるとおり、「お出来になるなら」と言うのは失礼でした。言い直します。あなたは必ずお出来になります。それを信じますから、どうか息子を癒してください。」
こんなふうに言い直す、という手もあったはずです。しかし、父親は、そうはしなかった。というより、出来なかったのでしょう。もう一度、父親が反射的に言った言葉を、読んでみたいと思います。
「信じます。信仰の無いわたしをお助けください。」
いかがでしょうか。これは、考えてみれば、不思議な言葉ですね。これは、考えて出て来た言葉ではない。「口を突いて」という言い回しがありますが、言葉のほうが心の殻を破って出て来た。そんな感じの言葉です。ですから、これは、彼の心が言葉となって出たのではない。逆です。口から飛び出た言葉が、この人の心を作っていく。そんな言葉が、確かにあると思います。
この時の父親が発した言葉が、そうです。もう一度、言います。これは、じつに不思議な言葉です。「信じます」と彼は言ったのです。この言葉に偽りは無いと、私は思う。ところが、「信じます」と言ったその直後に、彼はこう言ったのです。
「信仰の無い私をお助けください。」
私は、これも偽りの無い言葉だと思う。決して、謙遜で、へりくだって言った言葉などではないと思うのです。偽りの無い言葉と言うに留まりません。私は、これほど真正直な言葉を聞いたことがない。それほどに、丸裸になったような言葉。おかしな譬えでかも知れませんが、赤ん坊がこの世に生を受けたときに挙げる、産声のような言葉。そう言っても良いかと思う。
私は思うのですが、この言葉を発したあと、この人の心は、空っぽになったのではないかと思います。心配事も、悩みも、苦しみも、憂いの心も、空っぽになった。どうしてでしょうか。一番、隠しておきたかったことを、丸裸になって、言ってしまったからです。自分には信仰が無い。信仰が足りない、というのではない。信仰が無い、全く無い。これっぽっちも無い。
人間が空っぽになる時が、あると思います。それは、自分を隠さないでも良いのだと知ったとき。自分を真正直にさらけ出し、相手にぶつけたときです。父親は、信じられない自分、信仰の無い自分を、イエス様の前に投げ出します。イエスというお方の憐れみに委ねます。そして、信じることの出来ない私を憐れんでください。信じることの出来ないこの自分を、あなたに委ねます。それが、彼が最初に言った「信じます」という言葉です。信じられない自分、信仰の無い自分を、彼は投げ出した。
そして、ここが私は凄いと思うのですが、そこから彼は主イエスを仰ぎ見たのです。信じられない自分を見つめるのではなく、そんな自分をも、しっかりと受け止めてくださるイエス様を仰ぎ見た。その時に、この人の生き方は変わったと私は思う。「信じない者になるのではなく、信じる者になりなさい」「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という言葉が、彼にも聞こえたと思います。
思えば、イエス様が発した、あの厳しい言葉、語気強く発せられたあの言葉こそ、信仰を生み出す言葉でした。
「『出来れば』と言うか。信じる者には何でも出来る。」
振り返りますとき、私たちは、いつも「出来ますれば」と祈っていたのではないでしょうか。謙遜から出た言葉であるかも知れません。しかし、イエス様の目から見れば、これも不信仰なのです。しかし、不信仰な私を見つめておられる主イエスを仰ぎ見る。私はあなたを仰ぎ見る。どうかここから一歩を踏み出すことを得させてください。立ち直らせてくださいと、切に願いたいのです。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。
今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
3月5日(日)のみことば(ローズンゲン)
「万軍の主が定められれば、誰がそれをとどめえよう。その御手が延ばされれば、誰が引き戻しえよう。」(旧約聖書:イザヤ書14章27節)
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(新約聖書:ローマ書8章31節)
パウロという人は、信仰の高揚感に達したとき、わざと文法を乱して、そこに新たなニュアンスを込める傾向があります。今日の新約の御言葉が、その典型です。「もし神がわたしたちの味方であるならば」というのは文法的には仮定法ですが、これは何事かを仮定しているのではありません。仮定法という世俗的な文法を用いながら、そこに「強調と賛美」という新たなニュアンスを盛り込んでいるのです。
パウロにこのような表現をとらせたものは何かというと、今日の御言葉に次いで、次の言葉が出て来ます。「御子をさえ惜しまず死に渡された方」。この「渡された」という語は、普通は「捨てた」という意味を持つ語です。主なる神は御子を捨てるようにして、死に渡された。この驚くべき神の御業に、まさに驚きをもって答えたのが、あの表現だったのではないでしょうか。