聖書:マラキ書3章23~24節・マルコによる福音書8章27~30節
説教:佐藤 誠司 牧師
「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリヤ地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた。弟子たちは言った。『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。そこでイエスはお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』」(マルコによる福音書8章27~29節)
今日読んでいただいた聖書の物語は、はマルコ福音書全体の折り返し地点に当たります。折り返し地点という言葉が一般に使われるようになったのは、おそらく、1964年の東京オリンピックのマラソン競技のテレビ中継がきっかけになったと記憶します。当時のテレビ中継は、現在のハイビジョンに比べますと、映像の解像度が低くて、とても選手たちの表情までを克明に映し出すことが出来ません。しかし、それでも、選手たちの表情が折り返し地点を通過する瞬間に一変するのを、カメラは見事に捉えました。それほどに、折り返し地点を過ぎるというのは、大きなことなのです。では、いったい、何が選手たちの表情を変えるのか。ゴールが見てくるからです。目当てが見えてくる。それが折り返し地点です。
マルコ福音書の折り返し地点が、今日読まれた箇所です。マルコ福音書の、ここまでの歩みは、言ってみれば、今日のこの箇所を目指して進んで来たようなものです。ここまでの歩みの中で、イエス様がなさった様々な御業がありました。またイエス様がお語りになった様々な御言葉がありました。それら、様々な御業と御言葉は、全部、今日の箇所のペトロの信仰告白を目指して進んで来たと言っても過言ではありません。ペトロが、イエス様のことを、こう呼んだのです。
「あなたは、メシアです。」
盲人の癒しも、パンの奇跡も、足の不自由な人を歩けるようにしてくださった奇跡も、ことごとく、この信仰告白を目指していたのです。メシアというのは救い主のことであり、キリストという意味です。ですから、以前の口語訳聖書は、ここを「あなたこそキリストです」と訳していました。
折り返し地点を過ぎますと、ゴールが見えてくるのだと申しました。さあ、マルコ福音書のゴールとは、いったい、どこなのでしょうか。まあ、もちろん、福音書ですから、イエス様の御復活が最終的なゴールになるわけですが、このマルコ福音書という書物が、私たちをどのような信仰に導こうとしているか、という視点に立ちますと、もう一つのゴールが浮かび上がってきます。それはどこかと言いますと、15章の39節。十字架のもとでなされた百人隊長の信仰の告白です。百人隊長は、十字架で死なれたイエス様を見上げて、こう言うのです。
「本当に、この人は神の子だった。」
ここがマルコ福音書が私たちに用意しているゴールです。つまり、マルコ福音書は、前半は「あなたこそメシア・キリストです」という信仰告白を目指して主の御業と御言葉を語り継ぎ、後半は、そのメシア・キリストである主イエスがどのような仕方で救いを成し遂げてくださるのかを語っていく。そういう構造になっているわけです。
そこで、今日の物語の舞台ですが、フィリポ・カイサリアであったとハッキリ書かれています。フィリポ・カイサリアという町は、聖書の巻末の「新約時代のパレスチナ」という地図をご覧になると、すぐに見つけることが出来る。ガリラヤ湖よりも、かなり北方の町です。ここから、イエス様は弟子たちを引き連れて、ヨルダン川に沿って南に下り、エルサレムを目指す旅に出られる。その途上で受難予告をなさる。御自分がどのような形で死を迎えることになるか。そのことを繰り返し、弟子たちに教えられるのです。フィリポ・カイサリアからエルサレムまでの旅は、言ってみれば、ペトロがなした信仰告白の中身を、主イエスがご自身の行動を通して満たしてくださる。そのような旅であったのです。つまり、この時点でのペトロの告白は、確かに大切な、重い意味を持つものではありますが、それは、まだまだ、中身を伴うものではなかった、ということです。これについては、おいおい、折に触れて、お話をしていきたいと思います。
さて、そのペトロの告白が導き出される前に、主イエスは弟子たちに向かって「人々は、私のことを何者だと言っているか」と、お尋ねになっておられます。弟子たちは即座に答えます。
「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
これだけ読んでも、弟子たちが、かなり賑やかに、口々に答えているのが分かります。人がどう言っているのかを言うのは、簡単なことなのです。弟子たちはイエス様を尊敬していますから、人々がイエス様のことを、こう呼んでいますよ、こうも言っていますよ、と、イエス様を誉めそやす気持ちも手伝って、嬉々として答えたに違いありません。
しかし、イエス様の先の問いかけは、じつを言うと、次の第二の問いかけを導き出すための、いわば導入に過ぎなかった。イエス様は賑やかに、嬉しそうに答えた、その表情を見ながら、こう問いかけられたのです。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
おそらく、先ほどまでの賑やかだった空気が一変して、弟子たちの間に沈黙が流れたに相違ない。だって、そうでしょう。他人がどう言っているかを言うのは容易いことなのです。しかし、あなたがたは私を何者と言うのか、この問いは、先の問いかけの延長線上にある問いかけではない。全く次元を異にする問いかけです。弟子たちの間に沈黙が流れたのも、無理はありません。その沈黙を破るようにして、ペトロが答えました。
「あなたは、メシアです。」
ここをお読みになって、違和感を持たれた方もあるかと思います。じつは、私も違和感を抱いた一人でありまして、以前の口語訳聖書は、ここを次のように訳しておりました。
「あなたこそ、キリストです。」
キリストとなっていたのです。それを、新共同訳聖書は、あえて「メシア」と訳した。これは、私のような口語訳聖書で育った人間には違和感がありますが、じつは、新共同訳聖書が考えに考えた末に取った大英断なのです。どういうことかと言いますと、まず言葉の意味から見ていきますが、福音書の原典はギリシア語で書かれているのですが、その原典には「クリストース」という言葉が使われている。これを日本語標記にすると「キリスト」になるわけですから、口語訳聖書のほうが正しいわけです。しかし、新共同訳聖書は、そこに一つの解釈を施しまして、原典で「キリスト」となっているところを、あえて「メシア」と訳したのです。
「メシア」というのは「油注がれた者」という意味のヘブライ語です。その「油注がれた者」というのを、ギリシア語に移しますと「クリストース」という言葉になるのです。この「油注がれた者」というのは、旧約聖書に出て来ますが、王が即位する際に、高価な香油を頭に注いだのです。サウルが王に即位するとき、またダビデが即位する際にも、祭司サムエルが彼らの頭に香油を注いでいます。しかし、その後、この「メシア」という言葉の意味は、人々の期待と共に大きく変遷していきます。
まず、この言葉は「油注がれた王」だけでなく、王に加えて、預言者と祭司の務めを全部併せ持つ「救い主」という意味を持って来ました。王であると同時に預言者であり、祭司でもある。そういうメシア像が出来上がっていったのです。しかし、そこまでなら、まだ良かったのです。と言いますのは、ここまでメシア像が膨らんで来ますと、あとは、もう、お定まりの変遷が待ち受けています。この時代、ユダヤの人々は外国、特にローマ帝国の圧制に苦しめられていましたから、人々の期待は、嫌が上にもメシア像を膨らませて行きます。そして、メシアという言葉のイメージは、ついに、宗教的な意味合いを超えまして、政治的な意味をも持つようになっていったのです。
どうして「メシア」という言葉が政治的な意味合いを持つのかと、皆さんの多くは怪訝な思いを抱かれるかも知れません。しかし、人々は期待したのです。あのローマ帝国のような巨大な政治的な権力をも打倒するような、力あるメシアの到来を期待した。主イエスがお生まれになる頃、人々が思い描いていたメシア像とは、そういうものだったのです。
ペトロも、そういう時代の波の影響を蒙っていたことは、想像に難くありません。ペトロが見事に「あなたはメシアです」と答えた。これは、まことに見事な信仰の告白ではありますが、ペトロがイエス様に期待していたのは、やはり同時代のユダヤの人々と同じことを期待していたのであり、「あなたこそ、私たちが待ち望んでいたメシアです」と彼は答えた、ということです。ペトロが期待していたのも、ローマ帝国の圧制を打倒するような政治的に偉大な指導者であり、いかなる王にもまさる王だったのです。
だからこそ、このあと、主イエスが御自分の受難を予告なさった時、ペトロは「そんな事があってはなりません」と言って、イエス様を逆に諫め始めたのです。そんなペトロに向かって、イエス様は何と言われたか。それは次週に読む箇所ですが、33節に、こう書かれています。
「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」
ペトロのことを「サタン」、つまり、悪魔と呼んでおられる。しかも、「弟子たちを見ながら、ペトロを叱られた」と書いてあります。ペトロだけではなかった。弟子たち全員の心に、神のことよりも人間のことを優先するサタン的な思いが忍び込んでいるのを、イエス様は見逃してはおられない。そのサタン的な思いを追い出すために、主イエスはエルサレムに向かって歩み始められる。いや、弟子たちだけではありません。すべての人の心からサタンの思い、罪の思いを追い出すために、主イエスの歩みは始まって行く。十字架への歩みが始まって行くのです。これは、悪霊に取り付かれた人から悪霊を追い出すようなものではない。自らが身代わりとなって、すべての人のサタン的な思いを追い出す。贖いの御業がここに始まるのです。そのことを、私たちは忘れてはならないと思います。
しかし、ここで疑問が生じます。「あなたこそメシアです」と告白をしたペトロの、サタン的な思い、神のことを思わず、人間のことをおもんぱかっているペトロたちの心を、主イエスは見抜いておられた。それは確かなことであると思います。
ならば、どうでしょう。イエス様はペトロの信仰告白を否定しておられるのでしょうか。「お前が私をメシアと呼んだのは腹黒い魂胆があってのことだろう。顔を洗って出直して来い」と言われたのだろうか。「お前の信仰告白なんて、口先だけの言いつくろいではないか」と、一笑に付されたのだろうか。そういう疑問が生じてきます。さあ、果たして、イエス様は弟子たちの信仰告白を否定しておられるのでしょうか。
私は違うと思うのです。イエスというお方は、そういうことを決してなさらない。むしろ、中身が伴わないペトロたちの信仰告白の中身を、彼らと共に歩む中で満たしていく、というのがイエス様のなさりようだと私は思うのです。だからこそ、主イエスは、エルサレムに向かう道の途中で、何度も繰り返し、弟子たちにご自身の受難を予告なさる。
そして、これはマルコ福音書ではなくて、同じフィリポ・カイサリアでの出来事を伝えるマタイ福音書のほうに書いてあることなのですが、「あなたこそメシアです」と答えたペトロに向かって、イエス様は、こう言っておられるのです。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
ペトロが心の中に持っていた弱さ、神様のことよりも人間のことを思ってしまう脆さを見抜きながら、イエス様はペトロを褒めておられる。あなたにこの信仰告白をさせてくださったのは、人ではなく、神様なのですよと言って、あなたは幸いだねと言っておられるのです。ペトロが人間的な、身勝手な期待によって作り上げられたメシア像によって「あなたこそメシアです」と答えた。その偽りに満ちたと言えば言い過ぎでしょうが、人間的な思いにまみれた信仰告白を、イエス様は知りつつ、「あなたにこれを告白させてくださったのは人間の知恵ではない。神様なんだよ」と言って、喜んでおられる。なぜなのでしょうか。私は、ここら辺りに、今日の物語の急所があると思います。
私たちが以前に礼拝で読んだローマの信徒への手紙の12章の初めのほうに、こんな御言葉があったのを覚えておられるでしょうか。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを、弁えるようになりなさい。」
ここに「心を新たにする」と言われておりますが、この「心」と訳されている言葉は、他のところでは「知性」と訳されることの多い言葉です。信仰と言うと、私たちは「知性」というよりも情熱とか、燃える思いとか、そういうことを連想しがちですが、パウロは「知性が新たにされることが大事なのだ」と述べている。なぜ、こんなことを唐突に言うかと言いますと、ユダヤの人々が身勝手なメシア像を作り上げていった、その原動力となったのが愛国的な情熱、燃える思いだったのです。パウロは、それを知り尽くしていますから、大事なのは燃える思いではなく、知性が新たにされることなのだと言ったのです。
知性とは、ものの道理を弁えて、冷静に判断する働きのことです。イエス様が弟子たちに、しばしば言われた「目を覚ましていなさい」というのは、じつは知性を眠らせるな、ということだったのです。信仰生活というものは、ちゃんと目を覚まして物事を受け取り、判断をする。そういう知性的な側面が、どうしても必要になってくる。しかし、その知性も人間の知性のままでは限界があるわけでして、その知性や理性が神様によって造り替えられる。すると、ものを見る目が変わってくる、そこで初めて、イエス様を見て、「ああ、この方-こそメシア・救い主キリストだ」と判断し、正しく告白が出来るようになるわけです。
「あなたこそ、メシアです。」
この単純ともいえる信仰告白の中身を満たして、知性を変えてくださるのが、イエス・キリストの十字架の贖いです。「私は、あなたによって贖われた者です」というのが、「あなたこそメシアです」という信仰告白の中身です。十字架というのは、偶然の出来事ではないのです。天地創造の初めから、見据えられていた救いのご計画です。神様がすべての人を贖い、御自分のものとして取り戻すために、力の限りを尽くして成し遂げてくださった尊い御業です。だから、私たちは、この方の十字架のもとに立って、「十字架につけられて死んでくださったあなたこそ、私たちの救い主キリストです」という告白をする。
私たちも洗礼を受ける際に「あなたこそキリストです」と告白をしました。けれども、今思えば、それはいかにも幼い、人間的な思いにまみれた告白であったと思います。しかし、イエスというお方は、そういう拙い告白を軽んじられない。ペトロの告白を喜んでくださったように、私たちの拙い告白を喜んで受け入れてくださった。そして、共に歩む中で、拙い信仰告白の中身を、少しずつ満たしてくださる。そして、私たちを見て、「あなたにこれを告白させてくださったのは人間の知恵ではない。神様なんだよ」と言って、喜んでおられる。この方と一緒に歩むことが大事です。イエス様と一緒に歩みましょう。その歩みが私たちを造り上げていきます。これよりほかに、私たちに道は無いと思うのです。
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