聖書:イザヤ書40章26~31節・使徒言行録26章24~32節
説教:佐藤 誠司 牧師
「アグリッパはパウロに言った。『短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。』パウロは言った。『王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、わたしのようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。』」 (使徒言行録26章27~29節)
「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれてはいません。」(テモテへの手紙二第2章9節)
しばしば指摘されることですが、新約聖書には迫害の血のにおいが漂っていると、よく言われます。多くのキリスト者が、キリストを信じる信仰ゆえに追放され迫害されて、血を流し、命を落としました。その暗い時代の記憶が、新約聖書の言葉遣いにも影を落としているのです。典型的な例が、パウロの手紙の中にあります。テモテへの手紙一の6章12節の言葉です。
「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」
パウロが弟子のテモテに書き送った言葉ですが、この「戦い」と訳された言葉は、じつは「多くの人の前」という意味を持つ言葉です。キリスト者が、その信仰故に多くの人の前に引きずり出されたのです。それは時に猛獣と戦う競技場であり、また裁きを受ける裁判所でありました。多くのキリスト者がそういう四面楚歌の場に立たされて、信仰の戦いを全うした。そういう歴史の事実を、この言葉は映し出しているわけです。
また「信仰の戦い」といえば、もう一つ、パウロの言葉が思い出されます。それはテモテへの手紙二の第2章9節の言葉です。
「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれてはいません。」
エルサレム神殿でユダヤ人の暴動に遭ったパウロは、今、囚われの身になっています。それ以来パウロは、鎖につながれて、犯罪人のように、身動き出来なくされている。しかし、パウロの中に生きて働いている神の言葉は、繋がれてはいない。
確かに、これ以降、パウロは二度と自由の身にはなりません。囚われの身のままなのです。教会で語ることも出来ず、会堂で語ることも出来ない。仲間たちと伝道旅行に出かけることも出来ません。しかし、そのような出来ない尽くしの中で、出来ることが、ただ一つだけ、ある。それは、信じて生きるということでした。御言葉を信じて生きる。そのときに、御言葉が生きて働く。私の中で生きて働く。私の生き方、死に方を通して、神の言葉が生き生きと、伝わって行く。鎖につながれた中でも、御言葉だけは自由に伝わって、生きて働いていく。そのことが分かるから、パウロは「神の言葉はつながれてはいない」と言い切ることが出来たのです。
さて、パウロのカイサリアでの予備裁判も、いよいよ終わりに近づいています。この予備裁判は、来るべきローマでの本裁判、これはパウロ自身が望んでいる皇帝による裁判ですが、この本裁判に備えて、総督フェストスが行っているものです。パウロはローマ帝国の市民権を持っていましたから、そのパウロがローマ市民の当然の権利として皇帝による裁判を望めば、総督とすれば、その希望を聞き入れないわけにはいかなかったのです。しかし、皇帝はパウロのこともユダヤの習慣も知らないわけですから、フェストスとしては皇帝が判断に困らないように、あらかじめ証拠を集めておかなければなりません。ですから、この予備裁判は、皇帝がパウロを裁くための確かな証拠を集めるために行われているわけです。
ですから、フェストスはパウロが語る弁明の言葉を、出来るだけ多く聞き取りたい。その中から確かな証拠を、なるべく多く集めたいのです。だから、フェストスはパウロの言葉をずっと黙って聞いている。職業人として、冷静沈着に聞いているのです。
ところが、聞いているうちに、あ、これは弁明などではない、パウロはいったい何を語ろうとしているのかと、フェストスはそう感じるに至ります。フェストスは裁判官ですから、弁明の言葉だったら、冷静に聞くことが出来るのです。ところが、パウロの語る言葉は明らかに違う。冷静に聞けないのです。職業人としての裁判官が、冷静には聞けない言葉。それはどういう言葉でしょうか? 心に訴えかける言葉なのです。そういう言葉をパウロは語っている。しかも、その矛先は、いよいよフェストスの心の内面にまで到達しようとしていたのです。彼の心の外堀が埋められ、内堀までが埋められるかと思われたとき、フェストスは身の危険を感じたのでしょう。突然、大声をあげて、こう言います。
「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」
フェストスは、自分の心に訴えかけてくるパウロの言葉を、狂気の言葉だと決め付けた。お前は狂っていると言い切ったのです。しかし、パウロは言います。
「フェストス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。」
自分は真実の言葉を話しているのだパウロは言うのです。さあ、真実の言葉って、どういう言葉なのでしょうか? パウロは、この真実という言葉を、手紙の中でも使っております。典型的なのは、エフェソの信徒への手紙の4章25節です。こう書いてあります。
「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは互いに体の一部なのです。」
この「私たちは互いに体の一部」というのは「キリストの体の一部」ということです。この「キリストの体」というのは教会のことですね。ですから、体の一部というのは、教会のメンバー、キリスト者同士ということです。つまり、パウロが言う「真実の言葉」とは、教会のメンバーであるキリスト者同士が交わす言葉のことなのです。そういう言葉を、今、パウロはフェストスやアグリッパに向かって語っているのです。それは、いったい、どのような言葉なのでしょうか? それは今読んだエフェソの4章25節のすぐ後、29節に書かれています。
「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」
聞く人に恵みが与えられ、その人を造り上げるのに役立つような言葉。それが真実の言葉なのだとパウロは言うのです。そういえば、使徒言行録の20章で、パウロはミレトスの港でエフェソ教会の長老たちに別れを告げたときに、こう言いました。
「そして今、わたしは、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです。」
いかがでしょうか? 先ほどのエフェソ書と言葉遣いが似ていますでしょう? 「造り上げる」という言葉と「恵み」という言葉が共通しています。この「造り上げる」という言葉は、じつはパウロが好んで使う言葉でして、元々は建築用語なのです。家を造り上げるときに一番大事なのは何ですか? そう、土台です。何を土台にして家を建てるかが問題なのです。パウロは第一コリント書の中で、その土台はイエス・キリストなのだと述べております。キリストを土台とした言葉は、相手を造り上げる。そういう真実の言葉を、パウロは被告席にいながら、裁判官に向かって語っているのです。どうしてなのでしょうか?それは今少し読み進めていけば分かります。
さて、パウロは今度はアグリッパ王に向かって話し始めます。
「王はこれらのことについて、よくご存知ですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存知ないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」
キリストの十字架と復活は、世界の片隅でひっそりと起こったことではない。全世界の人々の救いと深い関わりのある世界的な出来事だったのだとパウロは言うのです。その世界にまで及ぶ救いをイスラエルの預言者たちは預言したのだから、預言者を信じる王は、その預言の成就をも信じておられるに相違ない。さあ、アグリッパ王よ、あなたはどうなのかと、パウロはアグリッパに詰め寄っているのです。その気迫にたじたじとなったのでしょうか。アグリッパは、あわててこう言います。
「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」
さあ、このアグリッパの言葉を聞いて、皆さんは、どう思われたでしょうか? パウロはアグリッパを説き伏せたのでしょうか? パウロはアグリッパをキリスト信者にしてしまうつもりだったのでしょうか? 私は、ここを読んで思うのですが、こういうことを言われた経験って、案外、日本のキリスト者に共通してあるのではないかと思います。皆さんも、同じようなことを言われた経験がおありだと思うのです。
信仰の異なる家族や親族と何気ない会話を交わしていたとき、ほんの些細なことなのに、急に相手が「お前はワシをクリスチャンにするつもりか」とか「お前はワシを説き伏せる気か」とか、言われた。そういう経験は、一度や二度は、どなたにもあると思うのです。そういうとき、皆さんは、本当に相手を説き伏せるつもりだったでしょうか? この人もクリスチャンにしてやろうと思っていたでしょうか? そうではないと思うのです。では、どう願っていたでしょうか? パウロは、そんな立場に立たされた私たちの願いを、じつに見事に代弁しています。パウロは、こう答えているのです。
「短い時間であろうと、長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、わたしのようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」
私のようになってほしいのだとパウロは言うのです。さらに言えば、それが私の祈りなのだとパウロは言うのです。いかがでしょうか? ひょっとして、これは、現代の日本社会に生きる私たち日本人キリスト者の願いそのものではないでしょうか? 私たちも家族を説き伏せてやろうというつもりは毛頭ありません。まして、この人をクリスチャンにしてやろうなどとは露ほども思わない。しかし、やっぱり、いつも神様に心から祈り願うのは、この人が、この子たちが、私と同じようになってくれること。私と同じ歩みをしてほしこと。それしかないです。しかも、パウロの言葉の続きを見てください。非常に意味深長なことが言われています。パウロは最後にこう言っておりますね。
「このように鎖につながれることは別ですが。」
私ははじめ、これはルカらしいユーモアだと思っておりました。ルカという人は近代的なユーモアのセンスがあるのだなと思っていたのです。「私のようになってほしい」と言った後で「このような鎖だけは別ですが」というのは、やはりユーモアだとも思います。またこう述べることによって、パウロがずっと鎖につながれたままだったのだと分かる。そういう意味でも、これはルカらしい冴えた描写だと思います。
しかし、私は今回、読み直して、さらに奥深い意味が、ここに隠されていることに、気付かされました。パウロという人は、ペトロたちと同様に、初代のキリスト者ですね。初代のキリスト者は鎖につながれることが多かったのです。そんな彼らの心からの願いは何であったでしょうか? それは、もう皆さん、お分かりのことと思います。鎖につながれることなく、自由にキリストを信じ、キリストの福音を自由に語り伝えることです。パウロは、決してユーモアからではなく、心から言ったのです。
「わたしの話を聞いてくださるすべての人が、わたしのようになってくださることを神に祈ります。そして、願わくは、鎖につながれることなく、自由に主を崇められる、そういう時代が来ますように。」
この一点に目が開かれますと、私は、パウロの最後の願いが何であったかも分かるようになると思うのです。パウロの話を聞いていた人々が立ち上がります。そのとき、人々は口々にパウロに罪は無いと言い合います。そのなかで、アグリッパが、こう言いますね。
「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに。」
パウロの死をにおわせるような言葉です。そして、これは、それと同時にパウロの生き方を鮮やかに描いた言葉であると思うのです。パウロがこれまで法廷闘争とも言える努力を重ねてきたのは、釈放して欲しいからではないのです。パウロ自身は、今や、死を厭わない。福音のためなら、死んでもよいとさえ思っている。しかし、それなら、なぜパウロは皇帝による裁判にこだわるのでしょうか?
パウロの「法廷闘争」の真の目的は何なのか? 死んでも良いとさえ思っている。まして釈放してほしいなどとは露ほども願ってはいない。にも関わらず、ローマ皇帝による裁判を受けることにこだわっているのは、なぜなのか? パウロには守るべき人たちがいるのです。それは、生まれたばかりの赤子のように弱いキリスト者たちです。パウロは自分の命を守るために法廷闘争をしているのではありません。そうではなくて、パウロは、この世に残していくキリスト者たちが、その信仰の故に国家から命を奪われることのないように、そのための法的な保障を勝ち取るために、ローマ皇帝による裁判に徹底的に食い下がっている。自分の無罪ではなく、残していく人々の無罪を予め勝ち取るために、パウロは法廷闘争をあきらめないのです。キリスト者はその信仰のゆえに殺されてはならない。パウロという人は、そういう近代的理性を福音の中に見出した人だったのではないでしょうか。パウロは言いました。
「王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、わたしのようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」
あれから2千年が経過しました。今、私たちは鎖につながれることなく、福音に触れ、御言葉を聞き、その恵みを分かち合うことが出来るようになっています。自由に福音を伝えることが出来る幸いを有難く思います。しかし、この日本という国においては、法的に信仰の自由は保障されてはいても、今なお、家の鎖があり、社会の鎖があります。しかし、その中だからこそ、私たちは、パウロの言葉を心に刻みたい。「神の言葉はつながれてはいない」という言葉を心に刻み付けて歩みたいのです。
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