聖書:イザヤ書40章27~31節・使徒言行録25章13~27節
説教:佐藤 誠司 牧師
「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」(イザヤ書40章26~27節)
「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」(使徒言行録23章11節)
使徒言行録の続きを読みましたが、このところの使徒言行録の物語は、お読みになって、皆さん、どうでしょう。読んでいて正直、あまり面白くないですね。暗い気持ちになります。考えてみれば、それもそのはず。使徒言行録の終盤は、パウロのローマ行きを語っているのですが、ローマ行きとは言え、かつてのような伝道旅行ではありません。未決囚、つまり、判決が確定していない囚人としてローマに連行されていくのです。
出て来るのは、人間の思惑だけ。一方に、パウロを亡き者にしようとするユダヤ人たちの思惑があり、もう一方には、そのユダヤ人たちのご機嫌を取り持ちつつ、じつは内心、彼らに対して最大限の権力を行使しようと企むローマ総督の思惑があります。パウロはと言えば、その思惑と思惑の板ばさみになっているかに見える。右を見ても、左を見ても、人の思惑と計略だけ。どこにも神様の御業は語られていないかに見える。そういう暗澹たる物語の中に、いったい、どうすれば、私たちは福音の光を見出すことが出来るでしょうか。
けれども、じつは、これこそが著者ルカの狙い目だとしたら、どうでしょうか? 使徒言行録という書物は、じつに不思議なところがありまして、前半の物語は、福音書の続きという感じでまとめられているのですが、後半のパウロの伝道旅行以降になりますと、趣がガラリと変わる。2千年の時を越えて、俄然、現代に近づくのです。人と人との思惑の板ばさみになっているのはパウロだけでしょうか? 私たちだって、そうでしょう。キリストの福音とは何の関係もなさそうな社会の中で、ともすれば押しつぶされそうになりながら、信仰を杖にして立ち上がろうとしているのは、当時の異邦人キリスト者だけでしょうか? 今の日本に生きる私たちだって、同じではないでしょうか? そう思いますと、人の思惑だけが幅を利かせているかに見える使徒言行録終盤の物語は、読んでいて楽しくないなんて言ってる場合じゃない。まさに、現代の私たちの置かれた状況が、ここにある。
さて、パウロの置かれた状況ですが、やっぱりこれは厳しいものがあります。パウロはずっと囚われの身、鎖につながれているのです。パウロはエルサレム神殿でユダヤ人の暴動に遭って、神殿冒涜の罪で殺されそうになったのですね。そのパウロの命を救ったのは、意外にも、ローマ軍の守備隊の千人隊長でした。ところが、隊長が駆けつけたのは暴動の最中でしたから、隊長はなぜパウロが同胞のユダヤ人にかうも激しく排斥されるのかが分かりません。そこで彼は事の真相を究明しようと、最高法院の議員たちを招集して、パウロと対決させますが、会議は紛糾し、その混乱の中でリシアは、パウロがローマ帝国の市民権を持っていることを知らされます。そこで千人隊長リシアは、パウロの身を手厚く保護し、総督のいるカイサリアに移します。
さあ、こうしてパウロの身柄は総督フェリクスに握られることになります。ところが、フェリクスはパウロの裁判に関わることを渋ります。なぜでしょうか? じつは、ローマ総督は裁判官となってユダヤ人の訴訟に首を突っ込むのを嫌ったのです。なぜかと言うと、他の民族なら、宗教上の問題が裁判に持ち込まれることは、めったに無かった。ところが、ユダヤ人は宗教と生活が律法によって結び合わされていますから、当然、裁判にも宗教がからんでくるわけで、しかも、法廷ではローマの裁判官はユダヤ人から異邦人扱いを受けるわけですから、面白くないのです。
フェリクスも同様だったと思います。フェリクスも、ユダヤ人の裁判には関わりを持ちたくないのです。棚上げしているうちに、転任できたら最高だと思っていたかも知れません。じつはローマから派遣されて来るユダヤ総督には数年で人事異動があったのです。熱狂的な愛国主義に沸くユダヤを治める仕事は、ローマ人なら誰しも二の足を踏みました。フェリクスはその任期をのらりくらりとやり過ごしたようです。
ところが、彼の後任者フェストスは違いました。彼はカイサリアに着任してから、わずか3日後にはエルサレムに上っておりまして、前任者がやり残した仕事を片付けにかかっています。こういう裁判官というのは、怖いです。仕事として人を裁いてしまうからです。
この仕事熱心に目をつけたのが、パウロを亡き者にしようと企むユダヤ人たちでした。最高法院の面々がフェストスに会見し、パウロの罪状をあれこれと言い立て、身柄をエルサレムに移すよう懇願します。道の途中で殺してしまおうと考えたのです。しかし、フェストスはこれを断ります。彼はパウロの裁判はあくまでローマの管轄にあることを主張したのです。しかし、フェストスは、着任早々の総督として、ユダヤ人たちの歓心も買っておきたいと思ったのでしょう。こうパウロに言います。
「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」
パウロは答えます。
「わたしは皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存知のとおり、わたしはユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、誰もわたしを彼らに引き渡すような計らいは出来ません。」
そしてパウロは最後にハッキリと言います。
「わたしは皇帝に上訴します。」
決定的な瞬間です。パウロ自身が「私はローマで裁かれるべきだ」と言い切ったのです。なぜ、パウロは、そのように言い切ることが出来たのでしょうか?おそらく、パウロが「私は皇帝に上訴する」と言ったとき、彼の魂に響き渡っていたのは、主イエスの言葉であったと思います。パウロの身柄が千人隊長に保護されたその夜、主イエスが語りかけてくださった、あの言葉です。
「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」
私は、鎖につながれたパウロを最後まで支え続けたのは、やはり、この言葉だったと思います。私は、こういうことは、あると思うのです。今はもう、御言葉を聞くことも出来ないような厳しい境遇に置かれている。礼拝に出席することも出来なくなった。讃美を歌うことも、自由に聖書を手に取ることも出来なくなった。そういう時にさえ、いや、そういう時だからこそ、なおのこと、かつて聞いた主の御言葉が心と魂の奥底に、豊かに響き渡る。かつて、リアルタイムで聞いたときよりも、力強く、その人を支える。ペトロなどは、その典型です。主イエスの口から「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」とリアルタイムで言われた時は、じつは聞けてはいなかった。ペトロがこの御言葉を本当に聞いたのは、彼が主イエスを三度、否認したときです。鶏が三度鳴いたときです。そのとき、彼は主の御言葉を思い出した。そして激しく泣いたのです。おそらく、彼の人生で、これほど深く主の御言葉を聞いたことは、かつて無かったと思います。御言葉を聞いて聞いて、御言葉に打たれて泣いたのです。
パウロも、そうであったと思います。あの夜、聞いた主の言葉が、ずっと彼を支え続ける。彼の生き方を決定付けていくのです。最初に申し上げたように、今のパウロが置かれた状況は、じつに厳しいものがあります。右を見ても左を見ても、人の思惑だけ。その思惑と思惑に板ばさみになって、しかも、今、パウロは鎖につながれているわけです。礼拝することも出来なければ、聖書を紐解くことも出来ない。常識的に考えるならば、こんな状況で御言葉を聞けるはずはないのです。しかし、私は、ここが神の言葉の不思議なところだと思うのですが、御言葉は、そういう厳しい状況の真っ只中に響き渡ることがある。パウロはそれを聞いた。だから、パウロは言いました。「自分は鎖につながれている。しかし、神の言葉はつながれていない」と、そう言いました。これは、鎖につながれた中で御言葉を聞いたからこそ、言えたことでしょう。御言葉は不思議です。状況に負けないのです。いや、状況が厳しければ厳しいほど、光を放つ。詩編119編にありますね。
「御言葉うちひらくれば、光を放ちて、愚かなる者をさとからしむ。」
この「愚かなる者」というのは、どういうことでしょうか? これは決して知的な意味で「愚か」ということではないのです。聖書が言う「愚か」というのは、正確に言いますと「状況の虜になっている」ということなのです。聖書の中には恐怖のあまり、状況の虜になってしまう人たちが、よく出て来ますね。福音書には、ガリラヤの湖で嵐に襲われた弟子たちが、恐怖のあまり、嵐という状況の虜になるお話が出て来ます。あのとき主イエスは彼らに「信仰の薄い者たちよ、なぜ怖がるのか」とおっしゃった。また旧約の出エジプト記には、エジプトを脱出したイスラエルの人々を後ろからエジプトの軍隊が追いかけて来る。人々は恐怖のあまり、うろたえてモーセに文句を言いますね。全く状況の虜になっているわけです。それに対してモーセは、こう言いました。
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」
今、パウロが置かれている状況は、繰り返しになりますが、大変厳しいものがあります。字際、パウロは、もう二度と自由の身にはならない。最後は殺されていく。しかし、パウロは、どうですか? 状況の虜になってないですね。どうしてですか? ずっと御言葉を聞いてるからでしょう? 総督のフェストスとヘロデ・アグリッパという二人の権力者の思惑の狭間に、パウロは立たされています。ずいぶん長い個所ですが、出て来るのはフェストスの言い分だけです。こういうところを詳しく分析してみても、あまり意味はありませんので、深入りはしません。
しかし、言っておかなければならないことは、フェストスとアグリッパという、信仰とも神様とも何の関わりも無い人たちの思惑によって、すべてが進められているように見えていますが、じつは彼らを用いて、パウロをローマへと導いて行かれるのは、神様なのだということです。
今日はイザヤ書の40章の御言葉を読みました。ここにも、同じような絶望的な状況が出て来ます。ユダヤの国がバビロニアに滅ぼされて、主だった人々がバビロンに連れて行かれた。それから50年近く経過しています。50年ですよ。初めのうちは希望を持っていても、状況が全く変わらないまま50年がたってしまった。人々は、もうすっかり望みを失って、「私の道は主に隠されている」とか「私の裁きは神に忘れられた」とか言っている。まあ無理からぬことだと思います。
そんな絶望的な状況の中で、預言者は神様の御言葉を聞きます。
「イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」
そういう神様の言葉を聞いた。それはどういう形で聞いたかと言いますと、誰がこの天地万物を造ったのか、誰がいったいこの世界の歴史を支配しているのか。そういう問いかけを受けたのです。今日は27節から読みましたが、その前の26節に、こんな言葉があります。
「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」
バビロンに無理やり連れて行かれて、おそらく、この預言者も絶望的な気持ちで夜の空を見上げたのでしょう。故郷のことを思い、暗い思いになっていた。すると、そこに満天の星が輝いている。じいっと、それを見つめておりますときに、彼は問いかけを聞くのです。いった誰がこの世界を造ったのか。誰がこの世界を支配しているのか。地上では人間が武力で戦ったり支配したりしている。しかし、その軍隊すら手の届かないあの星を造り、支配しておられるのは、どなたなのか? この問いかけを受けたとき、預言者は目を開かれる。今の今まで、この地上のことばかり見ていた。人間同士の戦いや、国同士の争いばかり見ていた。しかし、本当に見るべきものを見ていなかったのだと気付かされるのです。
イスラエルの人々は皆、神様を信じていたはずなのです。しかし、あまりにも捕虜の生活が長いものですから40年も50年も経ちますと、神様を信じて、神様の助けを受けるということが信じられなくなってしまったのです。これは言ってみますと、状況の虜になってしまったということです。
ひるがえって、この日本という国に生きている私たちは、どうでしょうか? パウロと同じように、右を見ても左を見ても、人の思惑だけが大手を振って歩いているように見えます。しかし、その中に、やはり、神様からの問いかけ、語りかけは、あると私は思う。イスラエルの預言者はバビロンの夜空を見上げて、そこから神様の問いかけ、語りかけを聞きました。パウロはつながれた鎖の中で、主の御言葉を聞きました。私たちは、どうでしょうか? とても信仰とは関わりの無さそうな社会の中で「私の道は主に隠されている」「私の裁きは神に忘れられた」とつぶやいているのではないでしょうか? しかし、それは私たちが状況の虜になっているということです。御言葉は生活の中に響きます。鎖の中でさえ響くのです。主の御言葉を聞き続けるとき、私たちは日々、新たな力を得、ワシのように翼を張って上ることが出来る。日々の生活の中で主に望みをおくとは、そういうことだと思うのです。
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