聖書:エレミヤ書29章4~14節・使徒言行録23章1~11節
説教:佐藤 誠司 牧師
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。」 (エレミヤ書29章11~12節)
「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」 (使徒言行録23章11節)
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使徒言行録の構成を見ますと、初めから終わりまで一貫して、第1章の8節の言葉がその根底に脈々と流れていることに気付きます。それは、復活の主が使徒たちに語られた、約束の言葉です。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
ここには福音はエルサレムに始まって地の果てにまで及ぶという構図が明瞭に見て取れます。しかし、よく考えてみてください。使徒言行録は2千年も昔の書物です。著者であるルカは、当然のことながら、アメリカ大陸も知らなければ、極東の日本も知る由は無いのです。それなら、ルカが思い描いていた「地の果て」とは、いったい、何処のことなのでしょうか? ローマでしょうか? それとも、ヨーロッパ大陸の西の果てに位置するスペインのことでしょうか? 確かに理屈の上では、そのあたりが限界かとも思えます。
しかし、皆さん、実際に使徒言行録をお読みになって、どうでしょうか? ルカは果たしてローマを「地の果て」と考えただろうか? 私は、どうも違うと思う。それではスペインは、どうでしょうか? 確かにスペインなら、ヨーロッパ大陸の西の果てですから、ルカが「地の果て」と呼んだのがスペインであったというのも、一応、頷けることではある。しかし、私は思うのですが、ルカはスペインの向こうに広がる大西洋の、はるか先に、もう一つの「地の果て」を見ていたのではないかと思う。それほどに、使徒言行録が描く福音の世界宣教のビジョンは深く、大きいのです。
ということは、どうでしょう? ルカは福音はローマから世界へ広がることを、すでに予見していたということでしょうか? もしそうであるなら、ルカはじつに卓見の人であったと言うべきでしょう。ルカは「ローマ」という名前を、使徒言行録の中で、じつに効果的に出しております。初めて出て来るのは、16章の11節以降のフィリピの物語です。ここでフィリピの町は「ローマの植民都市であった」と書かれておりました。つまり、フィリピは小ローマとも言うべき存在として描かれたのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる」という印象的な言葉が出て来ました。
そして二回目は、19章の21節。パウロが異邦人教会から集めた献金を携えて、エルサレムに上ろうとする場面です。こう書いてありました。
「このような事があった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通り、エルサレムに行こうと決心し、『わたしはそこへ行った後、ローマをも見なくてはならない』と言った。」
いかがでしょうか? エルサレムからローマへ、という構図が明確に出ていますね。そして次が今日の個所の最後、23章の11節です。
「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」
ここでもエルサレムの名とローマの名が対になって出ています。使徒言行録は、こうしてエルサレムとローマの名を並列で語ることによって、エルサレムで起こったことが、そのままローマでも起こることを予見しているのです。さあ、エルサレムで起こったこと、ローマでも起こることとは、どういうことなのでしょうか?
さて、今日の個所ですが、最高法院のドタバタ劇が、いかにもルカらしい、目に見えるようなタッチで描かれております。エルサレム神殿で神殿冒涜の罪で殺されそうになったパウロの命を救ったのは、意外にも、ローマ軍の守備隊の千人隊長でした。隊長はなぜパウロが囚われたのかが分かりません。そこで彼は最高法院の議員たちを招集して、パウロと対決させようと試みます。
パウロは被告人として最高法院に立たされているわけです。しかし、彼は悪びれることなく、議員たちを見つめて、こう言います。
「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って、神の前で生きてきました。」
これを読みますと、パウロの豹変ぶりが分かります。かつてサウロと呼ばれて、キリスト者を迫害していた頃のパウロは、あくまで自分の熱心に従って生きたのです。パウロ自身も、それは認めていて、フィリピの信徒への手紙の中で、過去の自分を振り返って、「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ち所のない者でした」と述べています。しかし、その熱心さは、詰まるところ、自分の義を求めるものであったと書いています。それがダマスコに向かう道の途中で、復活の主イエスに捉えられて、古い自分が完全に打ち砕かれた。自分の義、自分の熱心に従って生きる生き方から、良心に従って生きる生き方へと、180度の転換を経験したのです。
でも「良心」って、何なのでしょうか? この言葉は日本でもよく使います。良心的などというふうに使いますね。けれども、日本語の良心と聖書が言う良心は、似ているようで、少し違うのです。じつは、聖書が言う「良心」という言葉は元々「共に生きる」という意味を持っています。良心とは、一人で修行を重ねて生み出すものではないのです。誰かと共に生きる中で、与えられるもの。それが良心です。では、いったい、誰と共に生きるのか? もちろん、神と共に生きるのです。神様と共に生きていくと、その人の心は、どうなっていくでしょうか? 今まで思い上がっていた心が、打ち砕かれます。そこで、この「良心」という言葉は「神様によって打ち砕かれた心」を表すようになったのです。詩編の51編に、こんな言葉があります。
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」
この「打ち砕かれた霊」「打ち砕かれ悔いる心」こそが聖書が語る「良心」の本質です。パウロは、復活のキリストによって打ち砕かれた心をもって、自分は神と共に、キリストと共に生きてきたのだと語ったのです。ところが、これが最高法院の議長を務めていた大祭司アナニアの不興を買ってしまいます。アナニアは部下に命じて、パウロの口を打たせます。パウロは大祭司に向かって言います。
「白く塗った壁よ。神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くために、そこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」
パウロは大祭司のことを「白く塗った壁」と呼んでいます。これはマタイ福音書23章の主イエスの言葉を連想させます。あそこでイエス様は律法学者たちの偽善を鋭く批判して、こうおっしゃったのです。
「あなたたちは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このように、あなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」
外側は白くきれいに塗られている。しかし、内側は汚れている。パウロが大祭司に言ったことも同じです。外側はきれいで立派なのです。しかし、所詮は壁だとパウロは言うのです。自分は神殿の中心に陣取りながら、壁となって神様と人々とを隔てている。人々が神様のもとに行くのを妨げている。パウロの辛らつな大祭司批判ですが、これは批判だけではないと私は思うのです。外側は白く塗られて立派である。しかし、内側はどうなのか? 先ほどの「良心」という言葉の意味を思い起こしてみてください。この言葉は、元々は「共に生きる」という意味を持っていた。人の心というのは、誰かと共に生きる中でないと変えられません。一人では変えることが出来ないのです。誰かと共に生きる。その歩みの中で、次第に相手に対して砕かれていく。そういうものでしょう? 家族に対して心砕かれる人もあるでしょう。妻に対して、あるいは夫に対して砕かれることもあるでしょう。また舅・姑に対して心砕かれることだって、あるでしょう。確かにそれらも尊いことです。
しかし、本当に大切なのは、神様と共に生きること。そして、神様によって心の内側が砕かれていくことではないでしょうか? パウロは大祭司アナニアを「白く塗った壁」と呼びました。確かにこれは、痛烈な批判のようにも聞こえます。外側は白く立派に整えられている。しかし、内側はどうなのか? 神様と共に生きる中で、打ち砕かれているのか? そもそも、あなたは神と共に生きているのか? これはやはり、単に他人事の大祭司批判ではないですね。むしろこれは、私たちに対する問いかけではないでしょうか?
さて、もう一つ、パウロの言葉からメッセージを聞きますと、パウロはこう言いました。
「あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」
これも大祭司アナニアへの痛烈な批判のように見えながら、私たちへの大切な問いかけになっていると思います。いったい、パウロは、ここで何を言っているのでしょうか? あなたは律法によって私を裁きながら、律法に背いているとパウロは言ったのです。じつは、この言葉の下敷きになった言葉が、パウロの手紙にあるのです。ローマ書の2章23節に、こんな言葉があります。
「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」
パウロが大祭司アナニアに向かって言った言葉の真意は、おそらく、ここらあたりにあるのでしょう。でも、これって、よく考えると、私たちにも当てはまる事ではないでしょうか? パウロはこのローマ書の言葉の少し前に、こうも述べております。
「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。」
私たちも主の御言葉を知っています。聞いて知っているわけです。しかし、その御言葉を知らないふりをして、やり過ごすことはないでしょうか? 「互いに愛し合いなさい」という御言葉は知っている。しかし、愛し合うことをしないならば、どうでしょう? 「子どもたちを私のところに来させなさい」という御言葉は知っている。しかし、子どもたちを主イエスのもとに来させないならば、どうでしょう。むしろ、私たちが「白く塗った壁」になって、子どもたちが主イエスのところに来るのを妨げているのではないでしょうか? さあ、このように考えますと、一見、大祭司への批判に聞こえる一連のパウロの言葉は、今の私たち教会への根源的な問いかけとなっていることに改めて気付かされます。
さて、6節以降には、最高法院の分裂ぶりがコミカルに描かれていますが、これはお読みになれば分かることなので、ここでは深入りはしません。ただ、6節でパウロが訴えていることは、後に裁きの座に連行されて、信仰の故に裁かれていったキリスト者たちに大きな影響を与えました。それはパウロのこの言葉です。
「死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」
キリスト者が裁かれるのは、詰まるところ、復活の望みを抱いているからなのだと言うのです。そしてこの望みの果てに、その夜、主イエスがパウロのそばに立って、こう言われます。
「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」
現代の私たちは、これを読んでもあまりぴんと来ないかもしれませんが、主イエスは「あなたはローマでも証しをしなければならない」と言っておられるわけです。証しというと、今ではすっかりキリスト教の専門用語になりましたが、当時、これは法廷で使われた言葉です。裁きの場で使われた言葉なのです。しかも、被告人が語ることを許されたのが「弁明の言葉」だったのです。
ということは、どうでしょう。主イエスがパウロに言われたのは「あなたはエルサレムで私のことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」ということでした。これは裏を返せば、エルサレムで囚われの身になったように、ローマでも法廷に立たなければならないということです。その裁きの座で、自分の弁明を語るのではなく、私のことを証ししなければならないと主イエスは言われるのです。
パウロはこれを聞いて、どう思ったことでしょうか? ガックリきたでしょうか。そうではないと私は思います。パウロは、囚われの身のまま、証しを語るということに、主の御心を見いだしたのではないかと思います。ああ、私に与えられていた務めは、こういうことであったかと、パウロは思ったに違いありません。なぜそう思うことが出来たのでしょうか?
今日は、使徒言行録の言葉に併せて旧約のエレミヤ書の言葉を読みました。これは国が滅ぼされて、異国の地に人々が連行されて行く。その絶望のどん底でエレミヤが語った言葉です。そして、これはパウロを初めとするキリスト者たちが、裁きを受けるために連行され、奴隷に売り飛ばされ、死の恐怖にさらされた時に、口にした御言葉です。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。」
これはローマ帝国による大迫害を蒙った際に、キリスト者が合言葉のように互いに交し合った言葉です。「私の時が来るまで、あなたがたは忍耐をして、連行されていった土地で、本当に平安に暮らす構えをしなさい」と、そう神様は言われるのです。家を建て、畑を耕し、結婚をして、子どもを産み育てなさい。そして子どもたちを結婚させ、やがて来る時に備えなさい。そして、あなたを迫害する人々の町の平安を祈り求めなさい。その町のために祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたがたの平安もあるのだから。
これが異国の地におけるキリスト者の証しになりました。パウロは「あなたはローマでも証しをしなければならない」という主の言葉を聞きました。しかし、同じことを、この日本という国で、私たちも聞くのではないでしょうか。証しとは言葉ではありません。この国の中でどう生きるかということです。「良心」に従って生きるのです。打ち砕かれた心で、祝福を信じて、主の時を待つ。約束の実現を待つ。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
この約束に委ねて歩みたいと願うものです。
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