聖書:イザヤ書6章1~13節・使徒言行録21章27~40節

説教:佐藤 誠司 牧師

「七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだ。『イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところで誰にでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。』」(使徒言行録21章27~28節)

 

使徒言行録の学びも、終わりに近づいています。おそらく、著者のルカが頭を悩ませたのは、使徒言行録の終わり方だったのではないかと思います。この書物は、どういうふうに終われば良いのか? 使徒言行録の終盤近くには、そこのところの著者の苦労と苦悩が読み取れます。と言いますのも、パウロがローマで殺されたというのは、誰もが知っている歴史の事実なのです。当然、隠すわけにはいきません。

しかし、福音の前進を語る使徒言行録が、はたしてパウロの死で終わって良いものか? いいや、それは出来ない。ルカにとってみれば、それだけは出来なかった。ならば、どうすれば良いのか。そこでルカが採った手法は、パウロの最後のエルサレム行き辺りから、パウロの死を連想させる描写を繰り返し畳み掛けることでした。それによって、読者にパウロの死のイメージを強く抱かせつつ、最後はパウロの死で終わらない。そういう手法をルカは採ったのです。いかにも語り部のルカらしい巧みな描き方だと思います。

今日の個所も、その一つです。パウロが神殿の境内でユダヤ人の陰謀に遭って、捕らえられる場面です。パウロが捕らえられるや、たちどころに、神殿の門がすべて閉ざされたと書いてあります。この暴動は、偶然の出来事ではなかったことが、これで分かります。この逮捕劇には、神殿当局が何らかの形で関与していたのです。そして門が閉ざされたということの背後には、もう一つの意味が読み取れます。それはどういうことかと言いますと、この暴動は最初からパウロを殺害する目的があったということです。神殿の中でパウロを殺害すれば、神殿を血で汚すことになります。そこで彼らはパウロを神殿から締め出し、それと同時に神殿の門が閉ざされた。彼らは閉ざされた門の前でパウロを殺そうと計画していたのです。

さて、事の次第を少し振り返ってみますと、エルサレム教会で行われたパウロとヤコブの話し合いにまで遡ります。ヤコブはエルサレム教会を代表して、パウロにこう言ったのです。

「兄弟よ、ご存知にように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。」

エルサレムでは多くのユダヤ人がキリストを信じる信仰に入っている。その人々は皆、熱心に律法を守っている。律法を熱心に守るキリスト教だって、あるのですよ、どうかそれだけは分かっていただきたい、というわけです。これは福音と律法の板ばさみになって苦しんでいるエルサレム教会の本音であったと思います。

しかし、問題は、エルサレムでキリスト者になったユダヤ人たちが耳にしたパウロの噂です。彼らはパウロが異邦人教会に所属するユダヤ人キリスト者に向かって「子供に割礼を施すな、慣習に従うな」と言って、モーセの律法から離れるように教えていると、そういう噂を聞きつけたのです。噂というのは、いつの世にもそうですが、事実の一部が極端に強調されて伝わるものです。パウロの場合が、まさにそうでした。その噂を恐れたヤコブが、パウロにある提案を持ちかけます。

「だから、わたしの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭を剃る費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活をしている、ということが皆に分かります。」

ヤコブらしい調停的な提案です。ずいぶんと律法主義に偏った提案だと思いますが、果たしてパウロがこの提案を呑んだかどうか。前にも少しお話しましたが、多くのパウロの研究者たちは、否定的なのです。しかし、私は、パウロ自身が手紙の中で「私はユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである」と述べています。またパウロは別の所で「福音のためなら、私はどんなことでもする」とハッキリ述べている。そういうパウロの決意を見るならば、私は、パウロはヤコブの提案に乗ったのではないかと思います。そして、この儀式のために七日の間、神殿に籠っているうちに、パウロは捕らえられるのです。

さて、定めらた七日の清めの期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿でパウロを見つけ、周りの人々を扇動して、こう言います。

「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところで誰にでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」

アジア州から来たユダヤ人と書いてありますが、実際はこれ、エフェソから来たユダ人のことです。パウロ自身、手紙の中で「エフェソで野獣と戦った」と述べているように、エフェソでの伝道は大変に困難なものだったようです。それだけに、反対するユダヤ人勢力も多かったのです。そのエフェソから来たユダヤ人たちは、パウロをどのように誹謗しているか? 「民と律法とこの場所を無視することを、至るところで誰にでも教えている」と彼らはパウロを誹謗しているのです。

これは大変興味深いことです。前にもお話したことがありますが、使徒言行録に描かれているキリスト教への悪口や誹謗中傷には、意外なことに、当時の福音のメッセージの形が正直に現れているのです。もちろん、悪意のある誹謗中傷ですから、歪められた形ではあるのですが、悪口というのは、案外、その人の本質を言い当てていることがありますでしょう? ここも、そうなのです。まず「誰にでも教えている」と言われています。

今では当たり前のように思えますが、当時、宗教のメッセージというのは、じつは、誰にでも教えるものではなかったのです。使徒言行録にも、その片鱗は出て来ておりまして、11章の19節に「まだ彼らはユダヤ人以外の誰にも御言葉を語らなかった」と書いてありました。福音はまだユダヤ人だけのものだったのです。それが今や、パウロたちの働きを通して、「あいつらは誰にでも教えている」と揶揄されるほど、オープンになっていたのです。

その結果が「民と律法とこの場所を無視している」という誹謗にも結び付きます。「この場所」というのは神殿のことですね。そして「民」というのは、もちろん、イスラエルの民のことです。さあ、そうしますと、どうでしょう。ユダヤ人たちは、こう言ったことになりますね。

「このパウロという男は、イスラエルの民とその律法を無視し、さらに神殿を無視することを、至るところで、誰にでも教えている。」

さあ、いかがでしょうか? かつては、キリスト者もユダヤ人以外には御言葉を語らなかった。その意味では、キリスト教とは言うものの、実際はユダヤ教の中の一派に甘んじていたのです。ところが、パウロたちが、至るところで、誰にでも福音のメッセージを話し始めた。すると、どういうことが起こってきたかというと、イスラエルの民とその律法を無視し、さらの神殿をも無視するようになったというのです。

この「無視する」という言葉は、大変興味深いことに「飛び出す」という意味のある言葉です。収まり切らないで飛び出す。飛び出てしまう。そういう意味合いです。ということは、どうですか? 福音のメッセージが、至るところで、誰にでも語られていくと、それはイスラエルの民にも、律法にも収まり切らなくなる。神殿にも、もう収まらない。収まらないで、飛び出していく。これ、どういうことですか? キリスト教が民族宗教ではなくなったということでしょう? じつは、使徒言行録という書物は、これが言いたいのです。

世界史的に見ますと、宗教というのは、だいたい、民族と結び付いてきました。宗教が民族と結び付いて、その民族独特の習慣や生活様式を生み出してきたという歴史があります。ユダヤ教も、ご他聞に漏れません。例外ではないのです。割礼という民族の儀式があり、神殿という民族の礼拝所がある。律法という民族の掟があります。

ところが、キリスト教は、そういう民族的なものを敢えて捨てた。民族と結び付かなかったのです。28節に「至るところで、誰にでも」と書いてありました。まさに、そうなのです。至るところで、誰にでも語る。福音のメッセージを語る。すると、イスラエルの民にも収まり切らない、新しい神の民が生まれてきた。律法にも収まり切らない、新しい掟が見えてきた。血の通わない律法のような掟ではない。「互いに愛し合う」という、主イエスから与えられた掟です。そして、神殿に収まり切らない、新しい共同体が姿を現してきた。それが教会です。

先ほど、述べましたように、28節に出て来る「無視する」という言葉は、「無視する」とか「背く」という意味のほかに、もう一つ「収まり切らないで、出て行く」「飛び出す」という意味のある、なかなか含蓄の深い言葉です。そして使徒言行録の著者ルカは、この言葉のイメージでこれ以降のパウロの歩みをたどって行きます。

さて、エフェソから来たユダヤ人たちのアジテーションはエルサレムの人々のナショナリズム・民族意識を大いに刺激して、暴動に発展します。しかし、これが偶発的な暴動ではなかったことは、初めに申し上げたとおりです。彼らは最初からパウロを殺害する計画だったのです。だから、パウロの血で神殿を汚さないよう、神殿から締め出した。パウロが神殿から締め出されると同時に、神殿の門はすべて閉じられたというのです。これは、神殿当局が関与していたということです。

しかし、これにはもう一つ、大きな意味が隠されているのではないかと思います。確かにパウロは捕らえられ、神殿から締め出され、追い出されました。しかし、そこにはもう一つの意味があった。パウロの語る福音は、もはや、神殿には収まり切らない。収まり切らないで出て行った。飛び出した。世界に向けて、飛び出したのです。いかにも、福音の世界宣教を描くルカらしい鋭い描写であると思います。

さて、暴動を聞きつけたローマ軍の守備隊から千人隊長が兵隊を率いてやって来ます。千人隊長はパウロを捕らえて、二本の鎖でパウロを縛ります。パウロは囚われの身になったわけですが、殺害をもくろむ暴動からは救われたことになります。そして使徒言行録は、もう二度と、自由の身のパウロを登場させません。これ以降、パウロはずっと囚われの身のまま、鎖につながれたままのイメージで出て来るのです。しかし、私は、やはりそこにも、著者ルカの冴えわたった描写があると思います。ルカはパウロの弟子でしたから、次のパウロの言葉を知っていたのです。それはテモテへの手紙二の第2章9節の言葉です。

「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれてはいません。」

自分は確かにつながれている。二本の鎖につながれて、犯罪人のように、身動き出来なくされている。しかし、私の内に生きて働いている神の言葉は、繋がれてはいない。確かに、これ以降、パウロは自由の身にはなりません。囚われの身のままなのです。教会で語ることも出来ず、会堂で語ることも出来ない。仲間たちと伝道旅行に出かけることも出来ません。しかし、そのような出来ない尽くしの中で、出来ることが、ただ一つだけ、ある。それは、信じて生きるということです。御言葉を信じて生きる。そのときに、御言葉が生きて働く。私の中で生きて働く。私の生き方、死に方を通して、神の言葉が生き生きと、伝わって行く。神の言葉はつながれてはいないのです。

今、パウロは二本の鎖でつながれています。しかし、パウロを生かしている神の言葉は鎖の中に収まり切らない。収まり切らないで、出て行く。飛び出して行く。パウロは自分の中にある御言葉という宝の大きさを知っていたと思います。だから、パウロは手紙の中で、こう語りました。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」

福音の言葉という、収まり切らない宝を、貧しい土の器の中に頂いている。土の器が壊れたときに、この器を生かしていたのが神の力であったと誰の目にも明らかになるために。パウロは囚われました。語ることも出来なくなり、自由に伝道することも出来なくなりました。肉体の病も持っています。しかし、キリスト者には出来ることがある。決して奪われることのないものです。信じて生きること。信じて祈ること。信じて讃美すること。信じて委ねること。キリスト者の自由とは、そういうことだと私は思うのです。

 

 

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