聖書:使徒言行録19章1~10節

説教:佐藤 誠司 牧師

「アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て何人かの弟子に出会い、彼らに『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言った。パウロが、『それなら、どんな洗礼を受けたのですか』と言うと、『ヨハネの洗礼です』と言った。そこで、パウロは言った。『ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。』人々はこれを聞いて、主イエスの名によって洗礼を受けた。」(使徒言行録19章1~5節)

 

使徒言行録を読んでおりますと、ああ、これは日本の私たちと状況が似ているなあと、思わずうなってしまうところが、あちこちにあります。町全体が魔術や迷信の虜になっていたり、他宗教の儀式に影響を受けていたり、大変困難な状況があります。しかし、その中から、心開かれて、キリストを信じる人たちが起こされていくのです。ひるがえって、私たちはどうかと言えば、全くの無宗教からキリストを信じる信仰に入ったという人は、案外、少ないのではないかと思います。

おそらく、多くの方々が、お家の宗教が仏教で、しかも、特別に熱心とはいえない仏教信徒であった。それが人生のある時点で、イエス・キリストとの出会いが備えられ、キリストに捕らえられて、ついに信仰に入ったという人が多いのではないでしょうか? その場合、仏教徒であったということは、無駄なことだったでしょうか? 空白の年月だったのでしょうか? 私はそうは思わない。キリストを信じる前の人生は決して無駄ではなかったと私は思うのです。私が金沢に参りますとき、大阪の母教会のある方が、この方は金沢出身なのですが、こうおっしゃったのです。

「金沢は真宗王国と言われるほど浄土真宗が盛んで、伝道の難しいところと言われていますが、逆に言えば、人間を超えるものに対するセンスは鋭いものがありますよ。」

なるほどと思いました。東京や大阪のように無宗教が幅を利かしている大都会では人間のことしか考えない。人間と人間の関係だけを考えていたら、それで結構やって行ける。そういうところがあります。それに対して、北陸は仏教が強い力を持ってはいるけれど、人間を超える存在に対する感覚やセンスが育まれている。だから、安心して行ってらっしゃいと、その人は私に言ってくれたのです。仏教で養われた、大いなるものへの敬いの心が、今、まことの神様への信仰となって実を結んでいる。そういう人は、案外多いのではないかと思うのです。

それと同じことが、じつは聖書にも出て来ておりまして、パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で「律法は私たちをキリストへと導く養育係となったのです」と語っています。律法を頭ごなしに否定するのではなくて、律法が私たちをキリストへと導く養育係になってくれたのだとパウロは言うのです。大人の伝道者としての言葉だなあと思います。

さあ、今日はどうしてそんなことを言うかと言えば、今日の物語の中にも、それと同じ状況が出て来るからなのです。使徒言行録の19章は、まず状況から語り始めます。

「アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下った。」

エフェソの町は小アジアにあります。パウロが以前、御言葉を語ることを聖霊によって禁じられたのが小アジアでした。つまり、エフェソは、パウロにとって初めての伝道地だったということになります。しかし、着いてみると、どうでしょう。ここにはすでに何人か、キリストを信じる信仰に入った人々がいたのです。パウロは驚いたに違いありません。いったい誰が伝道したのだろう。バルナバか、ペトロか。違いました。パウロ以外の伝道者、おそらくアポロが種を撒いたのでしょう。

どうしてアポロだと言えるのか? それは続くやり取りの中ではっきりと浮かび上がってきます。パウロが彼らに「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、こう答えたのです。

「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません。」

パウロは驚いて、聞き返します。

「それなら、どんなバプテスマを受けたのですか。」

彼らは答えます。

「ヨハネのバプテスマです。」

パウロは「やはりそうであったか」と思ったに違いありません。前に読んだ18章の24節以下のアポロの物語。あそこで聖書に詳しい雄弁家の伝道者アポロが、堂々たる説教を語るにもかかわらず、ヨハネのバプテスマしか知らなかったことが書かれておりました。だから、パウロの同志であるアキラとプリスキラの夫婦が、アポロに正しい信仰の教義を教えてやったのです。エフェソのキリスト者たちは、おそらく、このアポロ、アキラとプリスキラに教えを受ける前のアポロが導いた人たちなのでしょう。だから、彼らは聖霊の存在も知らず、ヨハネのバプテスマしか知らなかったのです。

ここで少し歴史的なことを言いますと、バプテスマのヨハネの影響は、ヨハネの死後も大きく残っていて、それがキリスト教会にも少なからぬ影響を及ぼしたという事実があります。ヨハネという人物は、新約聖書の四つの福音書が揃って大きく取り上げていることからも分かるように、無視できない、大きな存在だったのです。ヨルダン川で人々の罪を厳しく糾弾し、人々に悔い改めのバプテスマを授けたヨハネは、ヨハネ教団とも呼ぶべき独自のグループを形成して、このグループはヨハネの死後も活動を継続しました。禁欲的な生活を重んじ、徹底的な悔い改め運動を展開しました。ところが、ヨハネの死後、このグループの人々の中から、主イエスをまことの救い主と信じる人たちが現れたのです。ヨハネによる福音書の第1章35節に、こんなことが書かれています。

「その翌日、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の子羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」

これは典型的な個所ですが、ヨハネの弟子たちの中から主イエスに従う人たちが現れたことを、この個所は示唆しているわけです。このほかにも、ヨハネ自身が「私の後から来る方は私よりも優れておられる。私は、その方の履物をお脱がせする値打ちもない」と言って、主イエスを指し示した。そういう類のことが福音書にはたくさん出て来ますね。あれはヨハネと主イエスの関係を強調しているわけでして、これは裏を返せば、四つの福音書が口を揃えてヨハネと主イエスの関係を強調せねばならないほど、ヨハネの影響力は大きかったということです。

しかし、ヨハネのバプテスマを受けたこの人々が、いかに心からイエス様を救い主と信じていても、それをキリスト者と呼べるのかは、はなはだ疑問と言わざるを得ません。と言いますのは、ヨハネのバプテスマは、あくまでも悔い改めのバプテスマです。ヨハネが提唱する悔い改めムーブメントの象徴として、バプテスマが授けられたのです。このバプテスマは、洗礼と言うより、清めの儀式に近いのです。これは父と子と聖霊の名によるバプテスマとは違う。似て非なるものです。パウロも、そこのところは十分に承知していたと思います。

さあ、パウロは彼らに、何と言ったでしょうか? あなたがたが受けたバプテスマでは救われないと言ったでしょうか? ヨハネのバプテスマでは不十分だと言ったでしょうか? いいえ、パウロは、決してそのような言い方はしなかったのです。では、パウロは、あなたがたも主イエスを信じ、バプテスマを受けたのだから、十分救われていますよと言ったかと言うと、そうではない。パウロは、そういう、なあなあで済ませるようなことは言いません。じゃあ、パウロは彼らに何と言ったのでしょうか? 4節に、こう書いてあります。

「そこで、パウロは言った。『ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。』」

私は、これは大人の伝道者の言葉だと思います。相手の置かれている状況、また相手が歩んで来た人生の道のりを否定していないのです。ヨハネのバプテスマでは、何の役にも立たないなどとは言わなかった。そうではなくて、ヨハネのバプテスマにこめられたヨハネの真の願いを説き明かしました。パウロはこう言ったのです。あなたがたが敬愛して止まないヨハネは、主イエスこそまことの救い主であることを知っていたのだ。そこでヨハネは、あなたがたを主イエスに導くために、悔い改めのバプテスマを授けたのだ。ヨハネは、あなたがたを主イエスへと導く養育係となったのだ、だから、あなたがたが歩んで来た道のりは決して無駄ではなかったのだと、パウロはそのように彼らを諭したのです。

じつは、ヨハネ教団に属しながら主イエスを信じるというのは、二重の所属関係を持つことです。両方に属しているからです。また、ヨハネのバプテスマしか知らないというのも、まことの救いとは言えないですね。ヨハネのバプテスマは、言ってみれば、ムーブメントなのです。ムーブメントが続いているうちは良いのです。しかし、ムーブメントというのは一時は盛んであっても、必ず、いつかは消滅します。そういうバプテスマは、心機一転にはなっても、新しく生まれることにはなりません。

では、新しく生まれるバプテスマとは、どういうものなのか? そもそも、人が新しく生まれるとは、どういうことなのか? そこが問題になってまいります。ヨハネ福音書の第3章に、ニコデモと主イエスの対話の物語がありますね。夜、ニコデモがイエス様を訪ねて来て、イエス様に質問をしようとした。イエス様はその質問が出る前に、ニコデモの思いを見抜いておられて、こうおっしゃったのです。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」

これを聞いてニコデモはビックリ仰天し、思わずこう問い返します。

「年をとった者が、どうして新しく生まれることが出来ましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることが出来るでしょうか。」

そこで、主イエスはニコデモに向かって、改めて、こう言われました。

「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。」

水と霊とによって生まれる。これが新しく生まれるということです。パウロはローマの信徒への手紙の第6章で、自分たちは新しく造られたのだと言っている個所があります。最初に神様が人をお造りになったとき、神様は人の形を造ったあとで、御自分の命の息を人の鼻から吹き入れてくださいました。それによって人は生きる者となったと書いてあります。この「生きる者となった」というのは、単に生物的に生きる者になったということではない。神様に応えるようになったということ。平たく言えば神様に返事をするようになったということです。これが人の本来の姿であり、生き方であったわけです。ところが、ヘビの誘惑に負けて、罪に落ちた人間は、神様の呼ぶ声に返事が出来なくなってしまいます。「あなたはどこにいるか」と問われても、木の影に隠れるだけだった。命の息、つまり、聖霊を失ってしまった人の姿が、ここにあります。そのことを背景にして、パウロは、私たちは新たに造られたのだと言うわけです。

私たちは信仰というものを自分の心の状態としてばかり問題にします。まあ、それは言ってみれば、信仰をマイ・ムーブメントとして捉えるということです。しかし、キリスト教信仰には、もっと根源的な大事なことがあります。それは私たちの心の状態を超えた、全人類に関わることです。それはどういうことかと言いますと、イエス・キリストが、私たちの罪を贖い取るために十字架についてくださった。そのときに、私たちの古い人は、そこで共に十字架につけられた。そしてキリストが甦られたときに、私たちは新しい人として生まれ変わった。イエス様が「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と言われたのは、そういうことです。私たちが生まれるよりもはるか前に、十字架によって、私たちを新しく生まれさせてくださった。考えてみれば不思議です。誰もそんなことを意識したり、経験的に知ることは出来ません。しかし、そういう私たちの意識や経験を超えたことが、じつはキリスト教信仰の源泉なのです。これはムーブメントでは成し得ないことです。

皆さんは、自分がキリストの十字架によって、キリストの死に与って、新しくされたということを、どうやって知りますか? 自分で瞑想して悟ったということではないでしょう。これだけは、誰かが私たちに教えてくれないと、知ることが出来ません。宣べ伝える人がいなければ、知ることが出来ない。伝道の大切さが、ここにあります。しかし、もう一つ、考えなければならないことがあります。

それは、福音を聞いた者が皆、信仰を持ったかというと、そうではないのです。ある人は信じ、ある人は拒否した。では、どうして信じたのでしょうか? 私たちが信仰に入った時のことを思い返してみますと、これは皆さん、同じだと思うのですが、どうして信じたのか、いくら冷静に思い返しても、分からないです。しかし、礼拝で語られる福音が本当のことだと思った。本当だというより、さらに深く身を預けても良いと思った。それは、神様の救いを信じたからでしょう? 私たちの心は少しづつ変えられていたのです。それが聖霊の働きです。イエス様がニコデモに言われた「霊によって生まれる」ということです。

イエス様は「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」と言われました。水というのは洗礼、バプテスマのことですね。私たちは、信じたからバプテスマを受けたのです。しかし、その肝心の「信じる」ということは、私たちが深く瞑想して悟りを開いたということではなくて、神様の霊が、聖霊が、命の息が私たちの中に働いた、この福音は本当だよと、教えてくれた。ですから、私たちは水と霊とから、新しく生まれたのです。そしてこの聖霊が、バプテスマから始まる新しい人生を導いてくださる。今までは、何が何でも自分がやらねばと、自分の努力で、自分の立てた目標に向かって一生懸命にやってきた。しかし、これからは違う。パウロはガラテヤ書の中でこう言いました。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

エフェソの人々はパウロの言葉を受け入れて、主イエスの名によるバプテスマを受けて、聖霊が与えられました。ニコデモは「どうしてそんなことがあり得ましょう」と言いました。人間業では有りえない、と彼は言ったのです。人には出来ないことも神には出来る。その御業の前に膝を屈めていく。そういうことが人の一生の中で起こってくる。それこそ聖霊の御業。新しく生まれるとは、そういうことなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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