聖書:使徒言行録13章13~41節

説教:佐藤  誠司 牧師

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちは、それを悟らないのか。」(イザヤ書43章18~19節)

「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、先祖の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされ得なかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」(使徒言行録13章36~39節)

 

今日は使徒言行録の第13章が伝えるパウロの説教を読みました。お聞きになりながら、長いなと思われたかも知れません。これまでにもあったことですが、使徒言行録は、しばしば説教を掲載しております。まず、はじめに、聖霊降臨の出来事に引き続いて語られたペトロの説教がありましたし、第3章にはエルサレム神殿で語られたペトロの説教がありました。また第7章には石打の刑に処せられる直前に語られたステファノの説教が印象深いものでした。これらに共通しているのは、いずれも神の民イスラエルの歴史を概観していることです。イスラエル史を語る説教なのです。ですから、イスラエルと縁遠い私たちにとってみれば、これらの説教はとても長いもののように思えます。神の民イスラエルとは言うものの、その実態はユダヤ人ではないか。そんな他民族の歴史を長々と説教で聞かされて、面白いわけはない。と、そのように思ってしまうわけです。

しかし、本当にイスラエルの歴史は他人事なのでしょうか? 神の民イスラエルというのは、ユダヤ人とイコールなのでしょうか? 神の民イスラエルは、私たちと関係の無いものなのでしょうか? 今日はそこのところを心に留めていただいて、パウロが第一回伝道旅行で語った説教を、ご一緒に読み解いていきたいと思うのです。

さて、パウロとバルナバは、アンティオキア教会の祈りに支えられて、伝道旅行に送り出されました。一向は船出して、まずキプロス島に渡り、そこからさらに船出をして、小アジアに向かいました。そこらへんは私の話を聞くよりも、聖書の巻末に掲載されている聖書地図をご覧になったほうが、手っ取り早く、かつ正確であると思います。さて、パンフィリア州のペルゲという港町に来たとき、それまで行動を共にしてきたヨハネが一行と別れてエルサレムに帰ってしまいます。理由は分かりません。が、これが後にパウロとバルナバが袂を分かつ原因になっていきます。

さて、一行はペルゲから北上して、ピシディア州のアンティオキアに到着します。パウロたちを送り出したシリアのアンティオキアと同じ名前なので紛らわしいですが、古代の町の名前は、しばしば、時の皇帝や権力者の名前から取られましたので、その人物の権力が及ぶ範囲には、往々にして、同じ名前の複数の町が存在したのです。

さて、アンティオキアでの安息日のことです。パウロたちはいつものように会堂に入ります。シナゴーグと呼ばれる会堂は、ユダヤ人が10世帯集まる所には必ず建てられました。ユダヤの人々は、会堂を建てるために、働いたとも言えるのです。この会堂での礼拝というのは、まず律法の書が読まれ、ついで預言者の書が読まれて、それから説教が語られたのですが、誰が説教を語るかは、あらかじめ決められているとは限りませんでした。まあ、普通は、その会堂に招聘されているラビが担当したようですけれど、ときにはゲストが立てられたようです。会堂長が会衆席にいる人々の中から、これはという人物に白羽の矢を立てて、「どうぞ会衆のために御言葉を説き明かしてください」と、説教を依頼したのです。

ルカ福音書の第4章に、主イエスが故郷ナザレの会堂で、御言葉の説教者に立てられた物語が記されておりました。預言者イザヤの書が読まれたあと、説教者に立てられた主イエスは、こうお語りになったのでした。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

今日のパウロの説教は、あのときの様子を彷彿とさせる語り方がされています。会堂長がパウロに近づいて、「どうぞ、会衆のために何か励ましのお言葉があれば、話してください」と願います。すると、パウロは立ち上がり、講壇に立って語り始めます。

「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。」

呼びかけの言葉ですが、私は、このパウロの説教は、もうこの呼びかけの部分だけで、福音のメッセージとして成り立っているのではないかと思っております。説教の急所が、説教の冒頭に、はやくも出ているのです。

どういうことかと言いますと、「イスラエルの人たち」というのはユダヤの人々のことですね。それに対して「神を畏れる方々」と呼ばれているのは、異邦人のことなのです。前にもお話したかと思いますが、地中海世界に広く散らされたユダヤの人々は各地に会堂を建てましたが、この会堂礼拝にはユダヤ人のみならず、異邦人も出席することが許されていたのです。

まあ、そうは言いましても、異邦人は誰でも会堂に入れたわけではありませんでして、割礼を受けてユダヤ教に改宗をしたわけではないけれど、聖書に触れて聖書の神様を心から信じている異邦人のことを「神を畏れる人」とか「神を敬う人」と呼んで、会堂礼拝に受け入れたのです。ですから、今、パウロの説教を聞いているのは、ユダヤの人々だけではなくて、聖書に親しみ、聖書の神を信じるに至った異邦人たちも、共にパウロが語る御言葉に耳を傾けているのです。思えば、パウロの生涯は、まさにこの一点のために捧げられたものではないでしょうか? 異邦人伝道が始まっても、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に礼拝を守ることには大きな抵抗があったようです。特にユダヤ人キリスト者の中に、大きな抵抗を持つ人が多かったのです。

彼らは言いました。異邦人がキリストを信じてキリスト者になることは大いに歓迎する。しかし、異邦人キリスト者と共に礼拝を守ることは勘弁してほしい。ユダヤ人キリスト者だけの礼拝がいい。異邦人は異邦人だけで礼拝を守れば十分ではないか、と、そのように主張するユダヤ人キリスト者が多かったのです。しかし、それでは福音をユダヤ人用と異邦人用に二分割することにならないか? 福音とは、そういうものなのか? パウロはガラテヤ書の中で、こう述べております。

「あなたがたは皆、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストと結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」

ここだけではありません。パウロの手紙を丁寧に読みますと「ユダヤ人とギリシア人の区別は無い」とか「ユダヤ人もギリシア人も、一つの体となるために洗礼を受けたのだ」というような記述が、じつにたくさん出てきますが、それは逆に言えば、キリストに結ばれてからも、ユダヤ人と異邦人を区別する考えが教会内にいかに強かったかを現していると思います。結局、彼らの本音は「私たちだけで良い」というその一点なのです。

さあ、このようなことを踏まえて、パウロの説教を読むと、どうでしょうか?

17節をご覧になってください。パウロはこの説教を出エジプトの出来事から語り始めておりますでしょう。

出エジプトの出来事というのは、神様がイスラエルの人々をエジプトの奴隷の家から導き出してくださった、その出来事を言うわけですが、それと同時にこれは、神の民イスラエルの誕生だったのです。それまではユダヤの人々は「イスラエル」という名前は持ってはおりましたが、まだまだ神の民とは言えなかった。群れとは言えなかったのです。それがモーセによって率いられ、40年の間、試練を耐え忍ぶ中で、十戒が与えられ、ここに名実共に神の民イスラエルが誕生していく。出エジプトとは、まさに神の民イスラエルの誕生でもあったわけです。

続いてパウロは、王のいなかった時代からサウル王の時代、そしてダビデ王の時代に説き及び、このダビデに神の期待がかかっていたことに言い及んでいます。それはまさにこのダビデの家系から救い主イエスがお生まれになるからにほかならなりません。つまり、このパウロの説教は民族の歴史的出発点である出エジプトから、ダビデを経て、まっしぐらに主イエスの出現に説き進んでいる。そういう構成になっているのです。そして主イエスの先触れとなったバプテスマのヨハネに言い及んだあと、26節でパウロは再び呼びかけの言葉を口にしております。

「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。」

いかがでしょうか? 16節の呼びかけの言葉に比べますと、一歩前進していると言いましょうか、さらに踏み込んで、ユダヤ人と異邦人を一つにして語っていることに気付かれるかと思います。16節では「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」というふうに、並列に二つ並べて語られていたのです。ところが、26節ではどうでしょうか?

ここではイスラエルの人々のことを「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々」という言葉で言い表していますが、それに引き続く異邦人はどういうふうに表現されているかと言いますと、「ならびに」という表現は16節と同じながら、そのあと、どうなっていますか?「あなたがたの中にいて神を畏れる人たち」というふうになっていますね? あなたがたの中にいると言い切っています。これは異邦人もアブラハムの子孫の中に入れられているということです。これは、ルカ福音書19章のザアカイの物語を思い起こさせます。主イエスはザアカイを拒絶しようとする人々に向かって、こうおっしゃいました。

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

異邦人もアブラハムの子孫とされている。キリストを信じ、キリストと結ばれるとは、そういうことなのです。先ほど引用したガラテヤ書にも「あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人です」と述べられていました。そのとおりなのです。そして。この呼びかけの言葉の止めが、次に出て来る「私たち」という言葉です。

「この救いの言葉はわたしたちに送られました。」

パウロはここで、ユダヤ人と神を畏れる異邦人を「私たち」という言葉で一つにしています。まさに「主にあってはユダヤ人も異邦人もない」わけです。

さあ、この呼びかけの言葉によって、主イエスの物語が語られていきます。十字架と復活が力強く語られています。その中で、注目しなければならないのは、やはり32節でしょう。

「わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。」

ここに「先祖に与えられた約束」という言葉がありますでしょう? さあ「先祖」とは誰なのか? 先祖に与えられた約束とは、どういう約束なのか? 私は、これはやはりアブラハムへの約束だと思います。創世記の第12章に、その約束は記されています。

「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

地上の氏族はすべてアブラハムによって祝福に入る。この約束が今やキリストにおいて成就している。だから、異邦人も祝福に入るのだとパウロは言うのです。そして使徒言行録13章に戻りますと、38節でパウロはこう述べています。

「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされ得なかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」

さあ、このパウロの説教は何を語っているのでしょうか? パウロは出エジプトの出来事から説教を語り始めました。出エジプトの出来事は神の民の誕生の出来事です。そしてパウロは、今、アブラハムへの約束がイエス・キリストにおいて成就したことを語っております。新しい神の民が、民族の壁を越えて誕生したのです。イザヤ書43章に、こんな言葉があります。

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちは、それを悟らないのか。」

この「昔のこと」というのは何かと言いますと、出エジプトの救いの出来事のことなんです。ユダヤの人たちにとって出エジプトというのは決定的な救いの出来事です。そこで、彼らは何か困難や試練に遭遇しますと、出エジプトの事を思い出しまして「ああ、神様はあのエジプトからも我々を救ってくださったのだ」と思って、それを力にして立ち上がったのです。かつて神様から受けた恵みを思い起こして、立ち上がるのです。聖書の中には、そういうことを勧めているところも、たくさんあります。

ところが、ここでは神様はそういうことを、いわば否定しておられる。「あなたがたは初めからのこと、昔のことを思いめぐらすな」と言っておられる。それが悪いことだからではないのです。じゃあ、なぜ神様は昔のことを思い出すなと言われたかと言いますと、もっと大きなこと、新しいことを私が行うからだと言っておられる。

イスラエルの人々が紅海の崖っぷちに追い詰められて「もうダメだ」と思ったときに、神様が海を真っ二つに分けて人々を救い出してくださった。確かにこれは、思い出すたびに勇気が出る。望みが沸く。しかし、神様がこれからなさろうとしていることは、それよりも遥かに大きなことなのだと。大きなこと。それはアブラハムに与えられた約束の成就です。

「地上のすべての氏族が罪赦されて祝福に入る。」

この約束を受けて、パウロは言いました。

「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされ得なかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」

律法によらず、ただキリストを信じる信仰のみによって、人は義とされる。これこそ、パウロが生涯を賭けて語り続けた福音であり、人はユダヤ人であろうと異邦人であろうと、この福音によって救われる。それ以外に救いは無い。福音は民族を超えるのです。今、遠い国日本で私たちが主イエスを救い主と信じて、共に礼拝を守っています。福音が民族を超えて、豊かに実を結んでいます。その実りを携えて、私たちはそれぞれの持ち場へと遣わされて行きます。恵みを携え、主の香りを放つ現代のパウロとして遣わされて行くのです。

 

 

 

 

 

 

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