聖書:使徒言行録9章32~43節

説教:佐藤  誠司 牧師

「声はエリヤにこう告げた。『エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。』エリヤは答えた。『わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々は、あなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうと狙っています。』」(列王記上19章13~14節)

「ペトロが『アイネア、イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい』と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。」 (使徒言行録9章34~35節)

 

使徒言行録はこれまで、大きな物語を立て続けに語ってきました。まずステファノの殉教と、それに続く大迫害がありました。そしてサウロの回心がありました。このように大激動を語ったあと、一転して静けさをたたえた小さな物語を記しています。またここは、新約聖書の中で最も大きな物語であるコリネリウス物語の先触れにも当たります。最大の物語の前に置かれた小さな物語です。こういう物語を、ルカは心を込めて、いとおしんで語ります。

もともとルカは、ペトロという人物に深い愛着と関心を持っております。と言いますのも、ペトロという特に優れた才能があるわけでもない普通の人が、どうして教会の指導者になったのか。また彼は一度挫折しているわけですが、どうしてそこからペトロが立ち直ることが出来たのか。そういうところにルカは、深い関心と愛情を持ったのです。これからしばらくの間、使徒言行録はペトロの物語とパウロの物語を同時進行させて語っていきますが、どちらかと言うと、ルカは、パウロに対しては深い尊敬を抱いているのに対して、ペトロに対しては深い愛着を持って語っているように思います。

さて今日のお話は確かにペトロの物語なのですが、本当はペトロを介して働かれる主イエスの物語と言ったほうがよいかもしれません。二つの小さな物語が組み合わされています。リダという町で起こった癒しの出来事と、ヤッファという町で起こった死者を生き返らせる出来事です。これらの前提になっているのは、ペトロが方々を巡り歩く人だったということです。32節に「ペトロは方々を巡り歩き」と書いてありますね。これは、後にペトロがエルサレム教会を出ることの伏線でもあります。

さて、ペトロは何のために方々を巡り歩いたのか? 一つ考えられるのは、十字架につけられる前の晩に語られた主イエスのお言葉でしょう。

「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

これがペトロを死ぬまで支えた言葉です。ペトロはエルサレム教会に留まるというより、方々に散らされた兄弟たちを力づけるために、各地を巡り歩いたのでしょう。リダにいる聖なる者たちを力づけるために、リダまで下って行きました。すると、そこに中風で8年もの間、床に着いていたアイネアという人がいた。ペトロは彼に声をかけます。

「アイネア、イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい。」

すると、アイネアはすぐに起き上がったと書いてあります。これはルカ福音書の5章に記された主イエスの御業を彷彿とさせる出来事です。あのとき、屋根瓦をはがして、吊るされてきた中風の人に向かって、主イエスは「起き上がって床を担いで家に帰りなさい」と言われました。それと同じ事を今、ペトロは言っている。ただ違うのは、ペトロは「イエス・キリストが癒してくださるのだ」とハッキリ告げている点です。自分ではなく、イエス・キリストご自身が癒してくださる。これはペトロの確信でしょう。

ヤッファの出来事は、さらに主イエスの御業と重なります。タビタという名の婦人が出て来ます。彼女はたくさんの善い行いや慈善の働きで人々から好意を寄せられていたのですが、病気になって死んでしまった。人々は彼女の遺体を清めて階上の部屋に安置します。そして、ペトロがリダまで来ていることを知った人々は、二人の使者を送ります。二人はペトロに会うなり「急いで来てください」と懇願します。どういう用件なのかは伝えられていません。にも関わらず、ペトロはこれを主の導きであると信じて、二人と共にヤッファに向かいます。

到着すると、そこには思いもかけず、一人の婦人の遺体が安置されていて、人々は彼女の生前の姿を偲んで泣いています。ペトロは皆を外に出して、ひざまずいて祈り、遺体に向かって「タビタ、起きなさい」と言った。すると彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がったのです。

ここまでお聞きになって、おやっと思われた方もおられると思います。どこかで聞いた話だぞと思われたことでしょう。そうなんです。この出来事はそのままルカ福音書の8章のヤイロの娘の物語と重なります。12歳になる少女が亡くなって、主イエスが呼ばれて行くと、人々は葬儀の準備をしていた。その人々を外に出して、主イエスは少女に向かって「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)」と言われたのです。そして少女は蘇生するのです。

あの物語とそっくりなのです。人々は驚いたでしょう。しかし、一番驚いたのは、ペトロであったに違いありません。かつて主イエスがなさったことを、この私が行っている。なんという驚き。驚きながら、ペトロは、一つのことを思い起こしていたに違いありません。真夜中のガリラヤ湖で、弟子たちだけで舟を漕ぎ出したときのこと。舟が立ち往生し、にっちもさっちも行かなくなったときに、主イエスが湖の上を歩いて来てくださった。幽霊だと思って叫び声をあげる弟子たちに、主イエスは「恐れることはない。私だ」と声をかけてくださった。安心したペトロが「主よ、あなたでしたら、私に命令して、私にも湖の上を歩かせてください」と、とんでもないことを願います。人間、安心したときに、とんでもない本音が出るものです。ペトロという人は、心のどこかで「主イエスと同じことを自分もやってみたい」と願っていたのでしょう。そして主イエスはその思いを見抜いておられたと思います。

私もあなたと同じように湖の上を歩かせてください。このとんでもない願いに対して、主イエスは、なんと言われたでしょうか? たった一言「来なさい」とおっしゃったのです。歩かせてあげようと言われたのではない、「私のところへ来なさい」と言われた。ペトロはまっすぐ主イエスのほうを見て、湖に足を降ろします。すると、沈まなかった。沈まなかっただけではありません。歩くことが出来たのです。

ところが、途中で、風の音に気がついて目を主イエスからそらしたとき、ペトロは沈み始めた。すると主イエスは腕を伸ばしてペトロを引き上げてくださった。ペトロは主イエスに引き上げてもらったのです。あのときのことを、ペトロは思い起こしていたに違いありません。主イエスと同じことが出来るというのは、そういうことだった。この自分が出来るということではない。そうではなくて、主イエスが「来なさい」と招いておられる。その招きに応えて、主イエスだけを仰ぎ見て、一歩を踏み出す。まっすぐ主イエスのほうに歩んで行く。主イエスと同じことをするとは、そういうことだったのだと、ペトロは分かるのです。

「来なさい」という主の招きに応えて、主イエスだけを仰ぎ見て、一歩を踏み出すとき、主イエスが同じ事をさせてくださる。そのことに気付いたときに、彼の生き方は変えられたのです。自分が主イエスのことを伝えるのではない。自分は「来なさい」とおっしゃる主イエスのほうを見て、ついて行くだけ。ここがペトロがほかの人と違うところです。ほかの人たちはイザヤもエレミヤも、「行きなさい」という命令を受けて、伝道者として立てられていくのですが、ペトロの場合は違います。彼の前に、いつも主イエスがおられて、「来なさい」と言われる。ペトロはついて行くだけなのです。それ以外のことを、彼は生涯しなかったと言っても過言ではない。彼の生涯の最後に、大迫害が起こったローマを、彼は弟子たちの強い勧めもあって、脱出します。ところが、一旦、逃げたそのローマに、彼は引き返すのです。どうしてだか分かりません。しかし、確かな想像として言えることは、彼は「来なさい」という主の招きに応えたのだろうということです。だから彼は来た道を引き返すのです。

来た道を引き返すといえば、旧約の列王記上19章にも、来た道を引き返す物語が出て来ております。預言者エリヤのお話です。

エリヤというと大預言者です。大変大きな働きをなした人です。ところが、どうでしょう。ここでエリヤは泣き言を言います。「主よ、もう十分です。私の命を取ってください」とまで言って、愚痴をこぼします。エリヤの話が18章で終わっていたなら、これは大変英雄的な、私たちとはかけ離れた人のように思うのですが、19章の物語は、どうでしょうか? エリヤも私たちと同じような弱さがあって、挫折感を味わうことがあるのだなあと思います。しかし、どうしてそういう挫折がやって来たのでしょうか?

これまでを振り返ってみますと、エリヤは初めからずっと、うまいこといっているんです。ケリテ川に行けと神様から言われて、そのとおりにすると、思いもかけず、カラスがちゃんと養ってくれたとか、「雨が降るから」と言われると、ちゃんと雨が降る。今まで神様の言われるとおりにやって来て、恵みを受けてきた。しかし、挫折するのです。どうしてでしょうか? 神様に向かって「もう命を取ってください」とまで言って嘆いている。全く情けない姿ですね。ところが、神様はそんなエリヤをパンと水で養って、神の山ホレブまで導いてくださるのです。ホレブといえば、シナイ山のことです。モーセが神様と出会ったところです。イスラエルにとってみれば信仰の原点です。エリヤはそこに導かれる。そしてエリヤは、そこで神様にお会いするのです。いろんなことが書いてありますが、一つだけ言いますと、こんなことが書いてある。エリヤは靜かにささやく声を聞くのです。

「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。」

無我夢中で走り回っているとき、ぽっとこういう声が聞こえてくることって、ありますでしょう? お前は、ここで何をしているのか? これは神様からの問いかけですね。エリヤはこの問いかけに答えます。

「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々は、あなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうと狙っています。」

ここにエリヤの挫折の正体がハッキリ現れています。彼はこう言っているのです。私一人が神様のために頑張ってきた。なんとかイスラエルの信仰を回復させようと努力してきた。けれども、もうダメです。彼らは最後に残った私の命をも狙っています。もうダメです。そうしますと、神様はなんとおっしゃったか。

「行け。あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ」と、こう言って、最後に神様はこう言われるのです。

「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。バアルにひざまずかず、これに口付けしなかった者である。」

今からあなたは新しい出発をしなさいということです。来た道を引き返すのですが、これはただ帰って行くのではない。神様から新しい使命を託されて、帰って行くのです。この神様のご計画をエリヤは知らないで、自分がカルメル山でこれだけのことをしたのだからイスラエルは変わるだろう、変わるに違いないと、そう思ったところに彼の挫折の原因はあったのです。「今こそイスラエルは変わるぞ、私がこれだけのことをやったのだから」と、エリヤの中で、いつの間にか自分の思い、自分の計画が芽生えていたのです。それがぐしゃっと潰された時に、彼は「ああ、もうダメだ。死んだほうがましだ」と思って愚痴を言いました。しかし、神様の計画は潰れたわけではないのです。だから神様は彼に言われたでしょう? 私の計画はあなたの思いとは違う。私は私の計画のために、あなたをもう一度遣わす。もう一度、やってみなさい。

これはエリヤの上に起こったことであると同時にペトロの上に起こったことでもあります。ペトロの人生は、あのガリラヤ湖の出会いが原点になりました。一晩中網を打っても魚一匹とれなかった。失意で網を繕っているところへ主イエスが来られて、「もう一度、やってみなさい。」と言われた。彼はそれに従ったでしょう。また主イエスは彼に「来なさい」と言われました。彼はそれに従ったでしょう。愚痴も言いましたし、失敗もしました。しかし、もう一度やってごらんなさい、という主の声に彼は従うのです。脱出したローマに来た道を引き返したときも、そうでした。方々を巡り歩いたときも、そうでした。常に原点に帰って、そこから「もう一度」の人生を歩んだのです。

主は生きておられます。もう一度、やってごらんなさい。あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。この原点はペトロだけではない。私たちの原点でもあります。私たちは礼拝のたびに、そこへと帰り、またそこから遣わされて行くのです。