聖書:ヨハネによる福音書10章7~16節
説教:佐藤 誠司 牧師
「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、我が僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。」(エゼキエル書34章23節)
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」 (ヨハネによる福音書10章14~16節)
今日はヨハネによる福音書の御言葉によってご一緒に礼拝を守りたいと思います。特に次の御言葉に、今日は心を寄せたいと思います。
「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
ここに「群れ」という言葉が使われております。「群れ」という言葉は、一般では、あまり人間については使われない言葉であろうと思います。子どもがたくさん集まっているのを見て、それを「子供の群れ」とは、あまり言いません。
ところが、聖書はこの言葉を敢えて人間について使います。しかも、特別の意味を込めて使うのです。さあ、聖書が語る「群れ」とは、いったい、どういうものなのでしょうか? それを知るために、まず、日本語の群れとは、どういう意味なのか。試しに「広辞苑」を引きますと、「集まり、群がり」と書いてありました。なるほど、と思います。ところが、聖書が言う「群れ」というのは、ただ集まっているだけ、群れているだけでは、それを「群れ」とは呼ばないのです。
この言葉の起源は大変に古く、旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブたちの時代にまで遡ります。彼らは族長と呼ばれます。牛や羊を飼っている遊牧民の族長なのです。その伝統が聖書の中には脈々と流れておりまして、「群れ」という言葉も、そこから生まれてきたわけです。「群れ」とは、そういう遊牧民の生活の中で、動物たちの群れ、特に羊の群れから採られた言葉です。では、どうして牛や馬ではなくて、羊なのかと言いますと、羊という動物は一見、群れを作る動物のように見えますが、じつは自分たちで群れを作るわけではない。羊には面白い性質がありまして、自分の前にいる仲間のあとを付いて行くという性質があります。そこで、そういう羊たちが偶然、一つの所に集まって、群れのように見えることがあるのです。しかし、それは偶然集まっているだけで、群れではない。では、群れとは何かと言うと、自分たちが集まって、自力で群れを形作るのではなくて、誰かが羊たちを集めて、群れを作る。この「誰かが集める」というのが大事なのです。
そこから、この「群れ」という言葉は発展をしまして、複数の羊が、ただ群れているだけでは、それを「群れ」とは言わなくなったのです。どういうことかと言いますと、聖書が言う「群れ」とは、ただ単に羊たちが集まっているだけではなくて、誰かに養われていること、誰かに導かれていることが大事なのです。ただ集まっているだけだと、それは偶然、集まっているに過ぎません。そういうのを「烏合の衆」と呼ぶわけです。そうではなくて、羊たちが一人の羊飼いに導かれ、養われている。それを聖書は「群れ」と呼びました。ですから、今日の礼拝の冒頭で招きの言葉として読まれた詩編の100編には、次の言葉があるのです。
「わたしたちは主のもの、その民。主の養われる羊の群れ。」
では、その「群れ」を導き、養うのは、いったい誰なのか。そこが肝心要になってまいります。そこでヨハネ福音書の第10章が浮かび上がってくるわけです。
今日は7節から読みましたが、ここは「私は羊の門である」という言葉から始まっている、やはり羊のことが言われているようですが、もちろん、これは比喩として羊は出て来るわけで、本当は私たち人間のことが言われているわけです。
ところで、「私は何々である」というヨハネ福音書独特の主イエスのお言葉が、ここでも何度も出てきております。7節に「私は羊の門である」という言葉がありますし、9節には「私は門である」という言葉がある。さらに11節と14節には「私は良い羊飼いである」という言葉が繰り返し出て来ております。これは何を言っておられるかと言うと、主イエスはここで自己紹介をしておられるのです。自己紹介というのは、ただ名前を相手に告げるだけでは自己紹介にならないですね。それは名前を教えているに過ぎません。本当の自己紹介は名前だけでは終わらずに、相手と自分との関係を告げる。この私はあなたにとってどういう存在なのかをハッキリ告げる。それが自己紹介というものでしょう?
春、幼稚園では入園式を行います。式が終わりますと、新しく入って来た子ども達に、先生が自己紹介をします。名前を告げるだけではないですね。私が皆さんの先生です。お歌を歌ったり遊んだりして、一緒に楽しくお過ごししましょうね、とやさしく声をかける。それによって、子どもは先生の名前だけでなく、今日から始まる先生との関係が分かる。それが本当の自己紹介というものです。主イエスの自己紹介も、同じです。ですから、「私は良い羊飼いである」という言葉を私たちが聞く時、「私はあなたにとって、あなたがたにとって、良い羊である」というふうに意味を補って聞く必要があると思うのです。
そしてもう一つ、私が今回、申し上げたいのは「私は何々である」という翻訳について、これは少し弱いのではないかと思うのです。これは英語などには無い日本語独特のニュアンスなのかも知れませんが、「私は何々である」という翻訳と「私が何々である」という翻訳が、同じ原文から可能なわけです。同じようではありますが、やはり意味が、というよりニュアンスが違います。「私は良い羊飼いである」というのは、どちらかと言うと軽い。
それに対して「私が良い羊飼いである」というのは、どうですか? ほかに偽者の羊飼いがたくさんいる。まがい物の羊飼いがたくさんいる。その中で、この私が、私こそが、あなたにとって良い羊飼いなのだと、そういうニュアンスが濃厚ですね。私は今回、ヨハネ福音書を読み返してみて、主イエスがおっしゃりたかったのは、そちらのほうではなかったかと、そう思わされたのです。なぜかと言いますと、7節にこんな言葉がありますね。
「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」
主イエスより前に来た者たちは、まことの羊飼いではなくて、他人の羊を奪い去る盗人であり、強盗なのだと言っておられる。そして私こそが羊の門なのだと言っておられるのです。このことの背景になっているのが、旧約の預言書エゼキエル書の34章です。こんなことが書かれています。
「主なる神はこう言われる。災いだ。自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものを癒さず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。」
何が言われているかと言うと、イスラエルの牧者であるべき預言者や祭司たちが、群れを養わなかった。養わなかっただけではなく、群れを荒らした。彼らは自分自身を養っているに過ぎないと、神様は怒りをあらわにしておられるのです。そこで神様は一つの決意を固められる。群れを彼ら、偽者の牧者から引き離して、神自らが群れを養うのだと言われる。しかし、神様ご自身がどうやって群れを養うというのでしょうか? そこで23節の言葉につながっていくのです。
「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、我が僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。」
この「牧者」というのが群れを養う羊飼いのことなのです。そして、この34章は次の言葉で締め括られる。
「お前たちはわたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である、と主なる神は言われる。」
これを読みますと、エゼキエル書の34章というところが、いかに大きな影響を四つの福音書に与えているかがお解かりになるかと思います。マタイ福音書の9章36節で、主イエスが群集をご覧になって「飼う者のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」、というあの有名な個所は、まさにエゼキエル書34章が元になっていますし、いなくなった一匹の羊の譬えも、エゼキエルが前提になっているようなお話ですね。
そして、クリスマスの物語にも、このエゼキエル書は大きな影響を与えています。先ほど読みました23節。神様がダビデの家系から一人の牧者を起こして、群れを養わせるというのが背景になって、主イエスがダビデの家系からお生まれになるという、クリスマスの物語が語られていくわけです。
ですから、このエゼキエル書の34章を知っていると、ヨハネ福音書の10章の御言葉の意味がさらに明瞭になってくると思います。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。」
「私は良い羊飼いである」という言葉が二度、繰り返されておりますが、二度繰り返されている言葉は、もう一つ、ありますね。そう、「命を捨てる」という言葉です。11節に「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われていたのが、15節ではさらにハッキリと「私は羊のために命を捨てる」と言っておられる。どちらも「羊のために」と主イエスは言っておられますでしょう? これはどういうことかと言いますと、ただ単に命を捨てると言っておられるのではないのです。その命を羊に与える、と主イエスは言っておられるのです。さらに言うなら、その命をもって、私は羊を養うのだと主イエスは、そこまで言っておられると私は思います。
ここまでのことをシッカリと心に留めて、16節の御言葉を読むと、どうでしょうか?
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
群れというのは、一人の羊飼いに養われ、導かれていることが前提になった言葉なのだと申し上げました。さあ、私たちを養い、導く一人の羊飼いとは、いったい、どなたのことか。詩編の100編は、こう歌いました。
「わたしたちは主のもの、その民。主に養われる羊の群れ。」
この「主」という言葉を、初代教会の人々は、じつに大胆に、「キリスト」というふうに読み替えたのです。そういう解釈をしたから、そう読み替えたのではありません。実際に自分たちは主イエス・キリストの命によって養われ、導かれている羊の群れなのだという自己意識があったからこそ、彼らは「主」という言葉を「キリスト」と読み替えることが出来たのです。
そして、もう一つ、初代教会の人々が「群れ」という旧約以来の伝統を持つ言葉に付け加えた新しい意味があります。それは「居場所」という意味だったのです。「群れ」の中に、一人一人の「居場所」がある。「居場所」って、何でしょうか? これは単なる場所のことではありません。場所はあっても居場所が無いという人が昨今、増えていますね。「居場所」というのは「あなたはここにいて良いのだよ」と心から受け入れてもらって、そこに居れる場所のことです。「群れ」の中には、一人一人の居場所が用意されている。一人一人が受け入れられて、あなたはここにいていいのだと、心からお互いを喜べる。それが私たちの教会です。主イエスがこの人を喜んで受け入れておられるから、私たちもそうする。主イエスが囲いの外の羊をも導かなければならないと言われるから、私たちも伝道する。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
「わたしたちは主のもの、その民。主に養われる羊の群れ。」
創立130周年を迎えた今、改めて思います。私たちの教会は、この御言葉のとおりに歩みたい。そう切に願うものです。