聖書:使徒言行録8章4~25節

説教:佐藤  誠司 牧師

「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(箴言3章6節)

「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群集は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。」(使徒言行録8章4~6節)

 

ルカが書き記しました使徒言行録は、生まれたばかりの初代教会の歩みを語る書物ですが、大胆にも、使徒言行録は誕生して間もないエルサレム教会に二つの対立するグループが存在していたことを語っています。だいたい教会の中に二つのグループが存在して、両者の間に緊張感が漂っている、溝があるなんてことは、教会にとっては、あまり知られたくないことです。それを、使徒言行録は語っているのですから、これは本当に大胆なことだと思います。使徒言行録は教会の側に立って書かれた書物なのに、どうしてそのような、あまり知られたくないこと、言われたくないことを赤裸々に語るのでしょうか?

事の発端は使徒言行録第6章の冒頭に記されておりました。食物の分配を巡って、ギリシア語を話すユダヤ人たちから、自分たちの仲間のやもめたちが軽んじられているのではないかと、苦情が出された。で、その苦情がぶつけられたのは、ヘブライ語を話すユダヤ人たちであったというのです。たかが食物の分配のことでと思われるかも知れません。

しかし、食物の背後には律法の問題が横たわっております。ユダヤ教の律法には厳しい食物規定があって、これこれこういうものは食べてよい、こういうものは汚れているから食べてはいけないというふうに、細かく定められていたのです。ということは、ギリシア語グループとヘブライ語グループの対立というのは、単なる食物の分配を巡って起きたのではなく、律法の理解を巡って起きていた可能性が高いのです。

と言いますのも、ヘブライ語を話すユダヤ人というのがユダヤ本国で生まれ育った生粋のユダヤ人なのに対して、ギリシア語を話すユダヤ人というのは、同じユダヤ人ではありますが、ディアスポラのユダヤ人と言いまして、地中海世界に散らされてそこで生まれ育った人たちなのです。当時の地中海世界はヘレニズム文化の真っ只中にありましたから、彼らもその影響を受けて、同じユダヤ人とはいえ、本国で生まれ育った人たちとは、ものの考え方も生活習慣もかなり異なっていたと思われます。そしてその違いが律法の理解にも現れていたのではないかと思われます。本国で育った人たちが律法に忠実だったのに対して、外地で育った人たちは律法から比較的自由な考え方を持っていたのではないかと思います。

そして、もう一つ、違いを挙げますと、本国で育った人たちが神殿礼拝に親しんでいたのに対して、外地で育った人たちは神殿には慣れ親しんではいなかった。神殿で行われる儀式中心の礼拝よりも、シナゴーグ・会堂で行われる御言葉の説き明かし中心の礼拝に親しんでいたと思われます。

ですから、ヘブライ語を話す人々とギリシア語を話す人々の間にあったのは律法と神殿を巡る緊張感であって、それは律法の食物規定を噴火口にして、両者の間に、同じ食卓に着けないほどの対立が噴出していたと思われます。

このギリシア語グループのリーダー格であったのがステファノという人物だったのですが、このステファノが律法と神殿をないがしろにした疑いをかけられて、訴えられ、石打の刑に処せられて殺されてしまいます。ステファノはキリスト教会最初の殉教者になったわけです。

ところが、悲劇はこれでは終わらなかった。それどころか、ステファノの死は大迫害の予兆に過ぎなかったのです。その日のうちに、エルサレムでは教会への大規模な迫害が始まり、使徒たちのほかは、都に留まり続けることが出来なくなりました。エルサレム教会に対する迫害でありますが、実際にエルサレムを追放されたのはギリシア語を話すユダヤ人のグループだけであって、使徒たちをはじめとするヘブライ語を話すユダヤ人グループは引き続きエルサレムに留まることが出来たことが伺えます。これはどういうことかと言いますと、この二つのグループは教会の外から見ても、明らかに思想信条を異にするグループとみなされていたということです。これは教会が初めて経験する分裂でありました。

エルサレムを追放された人々は、どうしたことでしょうか? 優れた伝道者であるリーダー、ステファノを失っただけでも大打撃であったのに、さらに追い討ちをかけるように、エルサレムを追放されたのですから、もう彼らの存在は風前の灯、消えて無くなるのは、もはや時間の問題と思えたのですが、ここからが使徒言行録の真骨頂と言いますか、福音のダイナミズムが人々を突き動かしていく様が生き生きと描かれていきます。

確かにエルサレム追放と離散は、彼らにとって大打撃であり、この離散はもちろん、苦難と失意の逃避行ではあったのですが、それと同時に福音が新しい地に伝えられる前進の機会ともなったのでした。まさに神は迫害をも用いて御業を推進されたわけです。

ステファノ亡き今、神様が最初に用いられたのはステファノと並ぶ優れた伝道者であったフィリポでした。フィリポが遣わされたのは、ユダヤの人々と対立関係にあったサマリアでした。どうしてユダヤとサマリアが対立関係にあったかと言いますと、イスラエル王国が南北に分裂をし、北がサマリアを中心とするイスラエル王国となり、南がエルサレムを中心とするユダ王国となるのですが、このうち北王国が紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいます。アッシリアはこのサマリアに意図的に外国人を連れて来まして、いわゆる「混血」を生じさせたのです。南のユダ王国も後にバビロニア帝国に滅ぼされて、主要な人々がバビロンに連れて行かれますが、ユダの人々は後にバビロンから帰還することを許され、エルサレム神殿を再建し、しかも、彼らは外国人との混血を厳しく排除して、信仰を守り通すのです。その中心的な役割を担ったのがファリサイ派の律法学者たちだったのです。

さて、サマリアに散らされていったフィリポは、そこでキリストを宣べ伝えたと書いてあります。伝道者として、当然のことですね。ところが、そのあとに、ルカは意味深長なことを記しています。6節です。

「群集は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。」

しるしというのは、奇跡的な業のことです。その業の数々が次の節に書かれています。汚れた霊に取り付かれた人から霊を追い出したり、病を癒したり、足の不自由な人を癒したり、そういう業をフィリポが行うのを人々は目の当たりにしたから、人々はフィリポの語る話に耳を傾けたのです。

そして、その中にシモンという人物がいたことを使徒言行録は語ります。この人は当時の歴史書にも出て来る実在の人物のようです。このシモンがなぜ歴史書にまで登場するかというと、この人は魔術を使ってサマリアの多くの人々の心を捕らえて、自分を神であるかのように自ら言いふらしていたことで知られていたのです。9節に「偉大な人物と自称していた」と書いてありますし、10節には多くの人が「この人こそ偉大なものと言われる神の力だ」と言って賞賛していたことが記されています。

ところが、フィリポが福音を宣べ伝えるのを聞いて、人々は信じ、男も女も続々とバプテスマを受けたというのです。すると、あのシモンまでがバプテスマを受け、絶えずフィリポに付き従い、素晴らしい業と奇跡が行われるのを見て驚いたというのです。

しかし、皆さんは、どう思われるでしょうか? シモンは本当に神様を、キリストを信じてバプテスマを受けたのでしょうか? いや、シモンだけではありません。サマリアの人々は本当に信じたのでしょうか?

今はそのことを心に留めていただいて、今少し物語を読み進めていきたいと思います。さて、物語はここで意外な展開を見せていきます。エルサレム教会の使徒たちが、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペトロとヨハネをサマリアに遣わしたのです。今で言う「問安」の走りですね。「安否を問う」と書いて「問安」です。ですから問安というのは監視するのが目的なのではない。サマリアの人々が正しく信仰が与えられたか、その安否を問いつつ、祈るのです。二人は、まさにそのためにエルサレム教会から遣わされて来たのです。

私は、ここに、ルカはエルサレム教会と各地に散らされた人々との理想的な関係を見ていると思います。エルサレム教会の中で互いに角をつき合わせているのではなく、使徒たちをリーダーとするエルサレム教会が、いわば親教会になって、各地に新しく建てられた子供の教会を支え、安否を問い、祈っていく。必要ならば使徒たちを遣わしていく。それこそが、エルサレム教会と他の教会の理想的な関係ではないかとルカは考えていたのでしょう。

さて、二人がサマリアに下って行き、サマリアで救われた人々が聖霊を受けるように祈ったと書いてあります。というのも、人々は主イエスの名によるバプテスマを受けていただけであって、聖霊はまだ誰の上にも下っていなかったからだとルカは記しています。これは注目すべきことです。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、聖霊が人々の上に注がれます。すると、その様子を見ていたシモンが金を持って来て、とんでもないことを願い出ます。「どうぞ、この金で、私が手を置けば誰でも聖霊が受けられるよう、私にもその力を与えてください」と願ったのです。

さあ、皆さんは、どう思われるでしょうか? とんでもない願いをシモンはしたものだと思いますね。シモンも信じたからこそ、洗礼を受けたのでしょう。でなければ、洗礼を受けなかったはずです。なのに、今になってと言いますか、元魔術師の本性が出たのでしょうか? こともあろうに、金で聖霊を操る力を手に入れようとした。どこが間違っているかと言うと、金で買い取る云々より先に、聖霊を魔術だと思い込んだこと。そして、ペトロとヨハネがその魔術を巧みに操る魔術師だと思い込んだ。結局、彼は洗礼を受けたあとも魔術師のままではないか、少しも変わっていないではないかと、思われるかも知れません。

確かに、そうなのです。このあと、シモンはペトロにこっぴどく叱られていますし、シモンは叱られて初めて自分の非を悟って、執り成しをしてくれるようペトロに願っているのですが、それとても、上辺だけの反省かも知れないのです。しかし、そうだからと言って、シモンのような人間は救われないのかというと、どうなのでしょうか? じつは使徒言行録は、このあと、異邦人伝道の有様を語っていくのですが、そこでしばしば登場するのが魔術との闘いです。中には傑作なお話がありまして、家の中にあった魔術の本を焼き捨てるお話で、そのおびただしい本の値段を見積もると、銀貨5万枚にもなったというのです。今まではユダヤ人だけが福音を信じていたのです。ユダヤ人は律法によって魔術が固く禁じられていますし、どんな人でもアブラハムのことは知っている、モーセのことも知っている。聖書を知っているのです。しかし、異邦人伝道となると、そうはいきません。聖書は知らない。神様といったら偶像しか想像できない。アブラハムもモーセも知らず、魔術にだけは、やたら詳しい。

サマリアの人たちだって、そうでしょう。彼らは初めからフィリポが語る御言葉に耳を傾けたのではなかったでしょう。6節7節にあったように、人々はフィリポが行うしるしを見て驚いたので、その語る言葉にも耳を傾けたのです。サマリアの人々そのものの中に、魔術的なものを尊ぶ土壌のようなものがったのでしょう。

しかし、だからと言って、この人々が救われないかと言うと、そうではないと私は思うのです。ひょっとして、使徒言行録が描くサマリアの人々、あるいは異邦人たちというのは、今の日本と日本人を象徴しているのではないでしょうか? そういえば、私たち日本人も魔術の類から、なかなか離れられないところがありますね。占いや運勢が大好きですし、テレビをつけますと、なんだか怪しいオッサンが、霊だの運気だのと言って、人の心を捕らえようと躍起になっています。要するに、魔術なんです。魔術師の本質は何かというと、魔術師は自分の力を人に誇るために魔術を使う。だから、魔術師は神様を信じない。神以外の力で自分を誇ること。それが魔術の本質です。

教会におりますと、いろんな電話がかかってきます。最近よくあるのは、突然電話がかかってきて、いきなり「そちらでは悩み事を聞いてくれるのでしょうか」と言ってくるんです。「こっちが聞いてほしいわ」と思いますが、こちらが「特に悩み事を聞く時間は用意していませんが、まず礼拝に来て見ませんか」と言うと、「そういうのは要りません」と言ってガチャンと切ってしまう。「教会では癒しってやってますか」という電話も、あります。「こっちが癒してほしいわ」と思いますが、これも礼拝にお誘いすると、「それはいいんです」と言って、一方的に切られてしまう。御言葉よりも、手っ取り早い業のほうに心惹かれるのです。なんだかサマリアの人々に似ていますね。

またよく言われることですが、日本人は、せっかく洗礼にまで導かれても、いつの間にか元通りの、ただの人に戻ってしまう。シモンが洗礼まで受けたのに、いつしか魔術師の地金が出て、馬脚を現したのと似ています。いったい、私たち日本人が本当の意味で救われるには、どうしたら良いのでしょうか?

これは日本的な魔術の本質だと思うのですが、日本では古来、自分が必要なときだけ神仏を呼び出すという習慣がありました。「苦しいときの神頼み」という言葉のとおりです。ですから、日本では古来、神仏を呼び出す儀式とお帰りいただく儀式、つまり、お迎えと送りの儀式が発達したのです。

しかし、聖書はなんと言っているでしょうか? 旧約の箴言の3章6節に次のような言葉があります。

「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」

あなたの道というのは、「あなたの人生」ということです。常に神様を覚えてあなたの人生を歩みなさい。箴言が教える知恵は、その一点に尽きるのです。そしてこの一点が私たち日本人には欠けていると思われる。自分が必要なときだけ、神様を呼び出して、願い事を聞いてもらう、そしたらすぐにお帰りいただくのです。だから、私たちは、いとも容易に「これは神様の御業だ」とか「これは神様の御業ではない」というふうに、自分の好みに合わせて神様を認めたり、認めなかったりします。目の前に起こっていることに目も心も奪われて、恐怖に目をふさがれて、神様が見えないのです。

しかし、ヤコブは言いました。孤独な逃避行の果てに、石を枕にして寝るしかなかった。そのときに、彼は神様の語りかける声を聞く。そしてこう言いました。

「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。」

そこから彼は新しい人生を歩みだしたでしょう? その新しい人生の出発を心に刻むために、彼は枕にしていた石を立て、その上に油を注いで礼拝をしました。どんなときにも神様は共にいてくださる。その発見の繰り返しが彼を創り上げていったのです。

「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」

この道をフィリポが行きましたし、パウロが行きました。そして私たちも行くのです。