聖書:使徒言行録7章51~53節

説教:佐藤  誠司 牧師

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(創世記12章1~4節)

「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたも、そうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」 (使徒言行録7章51~52節)

 

キリスト教会で最初の殉教者となったのは、ギリシア語を話すユダヤ人キリスト者であるステファノという人物でした。この人が、キリストを信じる信仰の故に、石打の刑に処せられて、殺されたのです。使徒言行録の第7章には殉教の死を遂げる直前のステファノが語った説教が記されているのですが、これがとても長くて、一般にはあまり評判がよろしくないのです。確かにイスラエル史を概観するような説教は長くて、退屈さを助長させているようにも思えます。

実際に開いてご覧になると、お解かりになると思います。最初はアブラハムに始まって、次はイサク、ヤコブと続き、さらにヨセフの物語に発展し、次にはモーセの出エジプトの物語が語られていきます。そしてヨシュアのお話が続いて、ダビデの物語が続き、ソロモンの神殿建立の物語が最後にくる、という具合に、さながら大河ドラマのような流れで、壮大なイスラエルの歴史を概観していくのです。ちょっと読むと、なんだか関係の無いと言いますか、ステファノが今訴えられていることとは無関係なことがとうとうと述べられていて、そこが評判が良くない理由だと思うのです。

けれども、この説教を丁寧に読みますと、一見、イスラエルの歴史を概観しているだけに見えるこの展開の中に、キリスト教とユダヤ教の対立点がハッキリと浮かび上がってくる。そのような構造になっていることが分かってまいります。キリスト教とユダヤ教は、旧約聖書をどう読むかを巡って、深く対立していたのです。ですから、ステファノは、旧約聖書をキリスト教の立場から非常に深く鋭く読み解いたからこそ、石打ちの刑に処せられねばならなかった、と、そのように言うことが出来ると思います。

とは言え、この長い説教を一回の礼拝だけで読み味わうのは、ほとんど不可能と思われますので、今日はあえてステファノの説教の最後のところを読みました。そしてステファノが説教の最初に取り上げておりますアブラハムの物語を、創世記の第12章から取り上げることにしました。どうしてアブラハムだけを取り上げるのかと言いますと、まず、はじめにマタイ福音書の第1章の最初のところを見てください。新約聖書を読む人は、大抵、ここから読み始めるのですが、ここには系図が書いてありますね。なんだか難しそうなカタカナの人の名前がたくさん出て来ます。この系図のいちばん初めを見ますと「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書いてあります。アブラハムに始まって、イエス・キリストに至る。ステファノの説教と似てますでしょう? どうしてアブラハムから始まるのでしょうか? アブラハムにはテラというお父さんがいたことが分かっていますし、テラにはそのまたお父さんがいる、というふうに遡っていけるはずなのですが、イエス・キリストの系図を言う場合、アブラハムから始まっている。これはどういうことかと言いますと、もちろん、アブラハム以前の人たちは意味が無いということではありませんけれども、アブラハムに始まったものを完成なさったのがイエス・キリストなのだというメッセージが、ここにちゃんとあるわけです。では、アブラハムに始まったものとは、何のことなのか? そこが肝心になってまいります。

そこで創世記の12章の1~4節になるわけですが、大変短い、たった四節から成る御言葉ですが、ここはアブラハムの生涯の出発点であり、ここがアブラハムの全生涯を現す箇所と言っても差支えがありません。1節を見ますと、こう書いてあります。

「主はアブラムに言われた。」

アブラムという名前だったのです。それが後に神様から「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい」と言われて、名前を変えた。そういういきさつがあるのです。主はアブラムに言われた、と書かれています。これはまことに唐突です。その前に、何も予告するようなことは書いてないのです。突然、神様がアブラハムに呼びかけられた。ここから、アブラハムの、アブラハムとしての人生が始まっていくわけです。アブラハムという名前は「多くの者の父」という意味がある。アブラムからアブラハムへ。これは名前が変わったというより、生き方が変えられたということです。

このとき、アブラハムはすでに75歳であったと書かれています。私は、こういうところに、聖書のメッセージがあると思うのです。どういうことかと言いますと、75歳という年齢は、人の一生分くらいの年月でしょう? もうおじいさんと言っても良い。けれども、その75歳になるまでのアブラハムのことは、聖書にはほとんど書かれていないのです。アブラハムという人が聖書に登場する発端は、75歳のときに突然、神がアブラハムに声をかけてくださったという、そこから始まるわけです。つまり、アブラハムは75歳のこのときから、新しい人生を歩み始めたということです。

これは、私は、アブラハムだけではないと思うのです。私たちの人生のあるときに、神様が名前を呼んでくださる。そういうことが起こる。ある日、突然です。私たちの心に、神様の声がかかる。神の語りかけを心で聞く。そのときが、私たちの新しい人生の始まりなのではないでしょうか? もちろん、それまでの人生が余計なものであった、無駄なものであったということではありません。それまでの人生は、言ってみれば準備段階です。神様の声がかかってからの働きに備えるために、神様が用意をしておられる備えのときです。

さて、神様の声がアブラハムに向けられた、その内容はというと、これが大変独特なものでありました。

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

何が言われているかと言えば、まず第一に「私はあなたを祝福する」という約束が語られています。アブラハムは、神様が自分を祝福してくださるという約束を、このとき、聞いたのです。この祝福というのは、自分だけが幸せになるという祝福ではありません。「祝福の源」という言葉が出てきます。聖書がいう祝福というのは、一つの源から四方八方へ波及していくものなのです。一人が神の祝福を受けるということは、家族にとっても祝福なのです。だから「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われる」という御言葉があるわけです。しかも、アブラハムの場合、地上の氏族がすべて祝福に入る、という、とてつもない約束を頂いた。じつは、ここがユダヤ教とキリスト教の対立点に発展していく、大事なところです。

しかし、神様は、それと共に、もう一つのことも言っておられる。それは「あなたは生まれ故郷、父の家を出て、私が示す地に行きなさい」というものでした。ここは注意して読まなければならないところです。神様はアブラハムに「生まれ故郷を出て行きなさい。そうすれば私はあなたを祝福する」と言われたのではないですね。そういう条件的なことを神様は言っておられない。そうではなくて、「私はあなたを祝福する」と、それだけを神様はおっしゃったのです。父の家を出るという行動は、そういう神様の祝福の約束を信じる者がたどる道なのです。神様は、この道をあなたは行きなさいと言われたのです。

これは大変なことです。それまでのように、いわば保護された、保証された生活。今まで自分の身に合った、慣れてきた生活。そういうものを捨てて、未知の世界に入って行かなければならない。ただ、しかし、行き先はでたらめではない。私が示す地に行きなさいと神様は言われるのです。そういうときに、今まで住み慣れた家と生活を捨てて出て行く人にとって、何が頼りになるでしょうか? それは、ただただ、神様の約束ですね。神様のお言葉だけが頼りです。ですから、アブラハムがこのとき直面した問題は、目に見える、確かだと思われる、そういうものを支えにするか、それとも、神様の言葉を支えにして生きるか。そういうどっちを取るかという決心をしなければならない。そういうところにアブラハムは立たされたのです。

そして、彼は、どっちを取ったか? 神の言葉に従って生きるほうを取ったのです。どうしてそうしたか? アブラハムはすでに神様の声、神様の語りかけを聞いていたからです。神様の声を聞く、語りかけを聞くというのは、それほどまでに凄いことなのです。そして、アブラハムは神様が告げられたように、出て行くのです。出発をする。行き先は分かりません。しかし、出て行きました。私はここに大事なことが言われていると思います。アブラハムは行き先を知らないまま出て行ったのです。これがもし、自分が計画をし、自分が理想や目標を持っているのだったら、行き先が分かっていますね。こういう大学に行こうとか、こういう会社に入ろうとか、行き先が自分で分かっている。けれども、神様が示してくださる地というのは、そうではない。定められた時にならなければ、人間には分からない。その分からない所に向かって出発をしなさい。アブラハムはこれに従ったのです。

さあ、アブラハムは神様の約束を信じて出かけました。その歩みの中で、彼は確かに多くの祝福を受けました。牛や羊もたくさんになり、何より、もう与えられないと思っていた跡継ぎの息子が与えられた。けれども、ここが肝心なところだと思うのですが、彼の生涯の間に、神が約束してくださったその祝福というものは、全部実現したでしょうか? そうではなかったですね。

神様はこの土地をあなたに上げようとおっしゃったのですが、アブラハムは一生の間、その土地を自分のものにすることは、とうとう出来なかったのです。神様の約束というものは、人間の約束のように、せっかちなものではない。ワシの目の黒いうちにやってくれなどということはないのです。アブラハムは一生、約束の地を受け継ぐことはありませんでした。しかし、彼はその約束を信じて生きたのです。これが大事なところです。

祝福の源となるようにと言われて彼は出て行ったのですけれど、それは決して安楽な生活ではなかったですね。飢饉になってエジプトへ逃げて行くこともありました。ああもう神様の約束はいつまでたっても実現しないから、もうたまらんと言って、元の土地に戻ろうと思えば、帰る機会はいくらでもあったのです。しかし、アブラハムは帰らなかった。戻らなかった。どうしてでしょうか? アブラハムは最初、神様が示す地というのは土地のことだと思っていたのです。けれども、神の言葉に従って歩んでいるうちに、だんだんと本当のことが分かってきた。神様が示してくださる地というのは、土地のことではなくて、私が神様の約束を信じて歩む、その道のことだと分かった。その道を神様が共に歩んでくださる。神様が共にいてくださる。それこそが、神が示してくださる地ということなのだと、アブラハムはついに分かったのです。これがキリスト教側の理解です。それに対して、ユダヤ教側の理解は、神様が示してくださる地というのは、あくまでパレスチナの土地のことなのです。しかし、もし約束の地がパレスチナのことであったなら、その後の歴史はどう解釈したら説明がつくのでしょうか。

アブラハムからずっと後、モーセに率いられたイスラエルの人たちは、確かに約束のとおり、カナンの土地に入りました。ステファノの説教が語っているとおりです。そしてイスラエルの人々は、そこで定住して国を建てました。ダビデの時代に大変な繁栄を見せました。その時、神がアブラハムに言われた約束は成就したのでしょうか? 確かに、ちょっと目には、約束が成就したかに見えるのです。しかし、それもほんの一時でしたね。やがて王国は南北に分裂し、北イスラエル王国も南ユダ王国も滅んでしまった。では、いったい、神様の約束はどうなってしまったのか。この厳しい歴史の中で、いろんな苦しみに遭い、祖国を失ってしまったイスラエルの人たちが、いつでも突き当たるのは、じつはこのアブラハムへの約束です。神様がアブラハムに約束をなさった。「私はあなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者を呪う」というあの約束は反故にされたのか。神様は本当に「あなたと共にいる」と言われたその約束を守っておられるのだろうか。皆さんが旧約聖書をお読みになると、いたるところで、この問題が噴出しているのをお認めになると思います。それほどに、アブラハムへの約束はイスラエルの人々にとって深刻な問題だったのです。本当に神様は自分たちを愛しておられるのか。本当に神様は自分たちと共にいてくださるのか?

じつは、旧約聖書というのは、このアブラハムへの約束がいったいどうなっているのか、ということを問い続けている書物です。そういう難問に直面して、イスラエルの人々は、いろいろに考えまして、それは自分たちが罪を犯したから、こうなったのであろうと、そこに行き着いたのです。そうしたら、神様は罪を犯した私たちを罪のゆえに捨ててしまわれるのだろうか。アブラハムへの約束とは、そんなものだったのだろうか。いや、そうではない。私たちは確かに取り返しのつかない罪を犯したけれど、神様はその罪を赦して、アブラハムへの約束を神自らが成就してくださるに違いない。私たちがこんなに苦しむのは、世界の人々が贖われるためではないかと、それこそが「地上のすべての氏族が祝福に入る」ということではないかと、旧約には様々なことが出て来ますね。そういう問いかけの中で、人間というのは本当に愚かで弱い存在であって、どうしても神様に従っていくことが出来ない。しかし、神様はそういう愚かな人間を見捨てない。捨てないで生かす。この罪を犯した私たちを救うお方が来られるのではないか、というのが、旧約聖書が持っている「望み」なのです。ここから、救い主を待ち望む信仰が生まれました。そして、それこそがナザレの人イエスであったのだと主張したのが、ステファノたちキリスト者であったわけです。ステファノは「地上のすべての氏族が祝福に入る」という創世記12章の約束の言葉は、自分たちキリスト教会の上に実現したのだと語りました。そして、それが引き金になって、ステファノは殺されていくのです。

旧約が終わって、新約聖書が始まるその冒頭に、イエス・キリストの系図が記されました。アブラハムに始まったあの約束は、イエス・キリストにおいて成就している。そのことを宣言して、新約の時代の到来を告げています。

神が我らと共におられる。そのことがイエス・キリストによって明らかにされた。イエス・キリストが私たちの罪を贖い取ってくださって、心から神様を喜ぶ生き方が出来るようになった。これはステファノが譲ることをしなかった一点であり、今も変わらない教会の信仰の柱なのです。ステファノが命をかけて語ったように、私たちも神の恵みというものを証しすることが出来るようになる。それが私たちに開かれた本当の生き方だと思うのです。そういう歩みに、この礼拝から一歩、踏み出しましょう。